****** 教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

十二使徒派遣に見るイェシュアの宣教戦略(1)

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39. 十二使徒の派遣に見るイェシュアの宣教戦略(1)

【聖書箇所】マタイの福音書10章5~15節

ベレーシート 

  • イェシュアは十二弟子を使徒として任命し、宣教に派遣するにあたり、いくつかの注意事項を与えています。その一連の教えは5節から42節まで続いていますが、マタイ福音書においては「山上の説教」に続く「第二の説教」となっています。第二の説教は十二使徒が派遣されるための注意事項のように見えますが、実は、イェシュア自身の「天の御国の福音」の宣教の戦略を垣間見ることができるのです。それは同時に、初代教会が伝えていた福音の枠組みを知ることができるのです。このことを知ることは、今日の教会の福音の宣教の在り方にとって極めて重要なことなのです。

1. イスラエルの家の失われた羊たちのところに行って・・宣べ伝えよ 

【新改訳2017】マタイの福音書10章5~8節
5 イエスはこの十二人を遣わす際、彼らにこう命じられた。「異邦人の道に行ってはいけません。また、サマリア人の町に入ってはいけません。
6 むしろ、イスラエルの家の失われた羊たちのところに行きなさい。
7 行って、『天の御国が近づいた』と宣べ伝えなさい
8 病人を癒やし、死人を生き返らせ、ツァラアトに冒された者をきよめ、悪霊どもを追い出しなさい。

(1) イスラエルの優位性 

  • 「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところに行きなさい。」とあります。イェシュアもイスラエルの民(ユダヤ人)のところに遣わされました。事実、イェシュアも「イスラエルの家の失われた羊たちのところ」以外には遣わされていなかったのです。イェシュアが十二人の弟子たちを選ばれたことで、この「十二」という数自体が全イスラエルの回復を意図したものでした。それが今回「イスラエルの家の失われた羊たちのところに行って、天の御国が近づいたと宣べ伝えなさい」と命じたことで、そのことがより一層明確にされた形です。救いはまずユダヤ人に示されなければなりません(使徒3:26)。なぜなら神は、イスラエルの家に対して特別の愛情を抱いておられるからです。彼らは「父祖たちのゆえに、神に愛されている者」なのです(ローマ11:28)。それゆえに、ユダヤ人が福音を拒否するまでは異邦人は福音に接することが許されなかったのです。

(2) 宣教の内容―「御国が近づいた」「イスラエルの家の失われた羊」という表現 

  • イスラエルの家の失われた羊」という表現はマタイではここで最初ですが、もう一つ、15章24節にもあります。「わたしは、イスラエルの家の失われた羊たち以外のところには、遣わされていません」。イェシュアが宣教を開始された「ゼブルン、ナフタリの地」、そしてイェシュアはその地からご自分の弟子を選ばれ、活動を開始されたことは決して偶然なことではなく、すでに預言されていたゆえです。それゆえ、イェシュアは「大群衆を見て、羊飼いのいない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた。」(マタイ9:36)のです。そして十二人の使徒を呼び寄せて彼らを遣わしますが、そのとき、イェシュアは彼らに「イスラエルの家の失われた(滅びた)羊のところへ行きなさい。」と命じました(マタイ10:6)。
  • イェシュアの語られた「たとえ話」の中にしばしば使われる「失われた」ということばがあります。たとえば、ルカの福音書の15章には三つのたとえ話があります。そのたとえ話の中心的なテーマは「いなくなったもの」、すなわち、「いなくなった羊」「なくした銀貨」「いなくなった息子」です。そこにある共通の語彙はギリシア語の「アポッリューミ」(απόλλυμι)という動詞(その分詞が形容詞的に使われていますが)で、「滅びた」という意味です。ヘブル語では「アーヴァド」(אָבַד)です。つまり「滅びた」羊、「滅びた」銀貨、「滅びた」息子を見つかるまで捜して、見つけるという話です。放蕩息子を妬む兄息子に対して父はこう言いました。「いなくなっていた(滅びていた)のが見つかったのだから、喜ぶのは当然ではないか」(ルカ15:32)と。ここにイスラエルの家の滅びた羊(民)に対する天の父の喜びがあります。
  • ルカの福音書19章の「取税人のザアカイの救い」の話も見ておきましょう。ザアカイもイェシュアもお互いに熱心に捜して出会うのですが、この話の最後にこう記されています。

【新改訳2017】ルカの福音書 19章9~10節
9 イエスは彼に言われた。「今日、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。
10 人の子(בֵּן־הָאָדָם)は、失われた者(הַאֹבֵד)を捜して(בָּקַשׁ)救うために来た(בָא)のです。」

  • ここでの重要なメッセージは、ザアカイが救われたのは彼がアブラハムの子であったことと、彼が「イスラエルの家の滅びた羊」の一人であったことです。しかし多くの人々(エルサレムの指導者たちのみならず、民衆も)は、このイェシュアのことばの真意を正しく理解する者はいませんでした。これは旧約のエゼキエルが預言していた「メシアによる御国の福音」の成就だったのです。神の恩寵動詞に注目!!

【新改訳2017】エゼキエル書34章11~16節
11 まことに、【神】である主はこう言われる。「見よ。わたしは自分でわたしの羊の群れを捜し求め(דָּרַשׁ)、
これを捜し出す(בָּקַר)。
12 牧者が、散らされた羊の群れのただ中にいるときに、その群れの羊を確かめるように、わたしはわたしの羊を確かめ、雲と暗黒の日に散らされたすべての場所から彼らを救い出す(נָצַל)。
13 わたしは諸国の民の中から彼らを導き出し(יָצָא)、国々から彼らを集め(קָבַץ)、彼らの地に連れて行き(בּוֹא)、イスラエルの山々や谷川のほとり、またその地のすべての居住地で彼らを養う(רָעָה)。
14 わたしは良い牧草地で彼らを養い(רָעָה)、イスラエルの高い山々が彼らの牧場となる。彼らはその良い牧場に伏し(רָבַץ)、イスラエルの山々の肥えた牧草地で養われる(רָעָה)。
15 わたしがわたしの羊を飼い(רָעָה)、わたしが彼らを憩わせる(רָבַץ)──【神】である主のことば──。
16 わたしは失われたものを捜し(בָּקַשׁ)、追いやられたものを連れ戻し(שׁוּב)、傷ついたものを介抱し(חָבַשׁ)、病気のものを力づける(חָזַק)。肥えたものと強いものは根絶やしにする。わたしは正しいさばきをもって彼らを養う(רָעָה)。

  • 一貫して羊と牧者のたとえが用いられていますが、その意味は明らかです。いつの日にか、メシアによって全イスラエルの民は離散した状態から回復されます。メシアなる王がその民を世界のあらゆるところから再び集められ、再び彼らは自分たちの国で平和と繁栄の時を迎えるのですが、それは天の御国である千年王国(メシア王国)の時代に完全に成就されるのです。イェシュアはこのエゼキエルの預言(御国の福音)を実現するために遣わされ(イェシュアの初臨)、そして再び来られるのです(イェシュアの再臨)。

2. 「あなたがたはただで受けたのですから、ただで与えなさい」

【新改訳2017】マタイの福音書10章8節
8 病人を癒やし、死人を生き返らせ、ツァラアトに冒された者をきよめ、悪霊どもを追い出しなさい。あなたがたはただで受けたのですから、ただで与えなさい。

  • マタイ10章8節の「ただで受けたのだから、ただで与えなさい。」・・(宮平訳「あなたたちは賜物として受けたのだから、賜物として与えなさい」)。これは主の命令であることに注意しなければなりません。つまり、使徒たちが奇蹟を行う権威と力を与えられて、それを用いたからと言って、それを利用して富を築くようなことをしてはならないことが戒められています。このことは使徒パウロも教えられていたようです。彼は使徒としての権威と力を「ただで受けたのたがら、ただで与えなさい。」という言葉を「受けるよりも与える方が幸いである。」という言い方でこのことを受け取り、実践したと思われます。

①【新改訳2017】使徒の働き 20章35節
このように労苦して、弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が『受けるよりも与えるほうが
幸いである』と言われたみことばを、覚えているべきだということを、私はあらゆることを通してあなたがたに示
してきたのです。

②【新改訳2017】イザヤ書 55章1 節
ああ、渇いている者はみな、水を求めて出て来るがよい。金のない者も。さあ、穀物を買って食べよ。
さあ、金を払わないで、穀物を買え。代価を払わないで、ぶどう酒と乳を。

③【新改訳2017】ヨハネの黙示録22章17節
渇く者は来なさい。いのちの水が欲しい者は、ただで受けなさい。

  • これが御国の招きの恵みです。御国の祝福は無償の恩恵によって与えられるものなのです。宣教の働きがビジネスとなってはならないのです。牧師や教職者に対して教会が支払っている謝儀は、その働きに対する報酬(給与)ではありません。それは天の御国の福音を人々に無代価で提供できるようにするためなのです。その備えが教会からであろうと、自ら働くことによってであろうと、それは問題ではなく、大切な原則は、「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」というイェシュアの命令のゆえです。その意味で、使徒たちはまさに主の通り良き器として自らをささげたのでした。

3. 「とどまる」ことと「足のちりを払う」こと

(1) 「とどまる」こと

  • 11節には「どの町や村に入っても、そこでだれがふさわしい人かをよく調べ、そこを立ち去るまで、その人のところにとどまりなさい。」とあります。宣教の活動拠点となる家を捜して、その家の人が、「ふさわしい人かをよく調べて」、「その人のところにとどまりなさい」と指示されています。「よく調べて」とは「ダーラシュ」(דָּרַשׁ)の命令形、「とどまる」は「ヤーシャヴ」(יָשַׁב)の命令形です。ここで「ふさわしい人」とは、神から遣わされた十二使徒に対して、「食べ物と泊まる場所の提供を申し出る人」のことです。
  • しかも12節では、「その家に入るときには、平安を祈るあいさつをしなさい。」(「シャアルー・レシャーローム」שַׁאֲלוּ לְשָׁלוֹם)とあります。ユダヤ人の挨拶用語は「シャローム」ですが、「平安を祈るあいさつをする」とは、お互いに「安否を尋ねる」ことを意味しており、ことばだけでなく、具体的に「食べ物と泊まる場所を提供する」ことを意味するのです。旧約聖書での「シャアルー・レシャーローム」שַׁאֲלוּ לְשָׁלוֹם)の用例は、出エジプト記18章7節に見られます。

【新改訳2017】出エジプト記 18章7節
モーセはしゅうとを迎えに出て行き、身をかがめ、彼に口づけした。彼らは互いに安否を問い、天幕に入った。

  • このことは、宣教をする場所で受け入れられて「とどまる」家においでです。イェシュアがガリラヤにおいて「とどまる」家は、おそらくペテロとアンデレの家でした(マルコ1:29)。エルサレムに赴いたときには、ベタニヤにあるマルタとマリヤの姉妹の家か、あるいはツァラアトのシモンの家であったと思われます(マタイ26:6、ヨハネ1:28)。このことは初代教会にも引き継がれ、パウロとバルナバが同じようにしています。

(2) 「足のちりを払い落とす」こと

  • 反対に、使徒たちが遣わされたところで聞き入れられず、拒絶された場合には、「その家や町を出て行くときに足のちりを払い落としなさい。」とあります。足のちりを払い落とすという行為は、相手との関係の断絶を意味します。

①【新改訳2017】使徒の働き13:49~51
49 こうして主のことばは、この地方全体に広まった。
50 ところが、ユダヤ人たちは、神を敬う貴婦人たちや町のおもだった人たちを扇動して、パウロとバルナバを迫害させ、二人をその地方から追い出した。
51二人は彼らに対して足のちりを払い落として、イコニオンに行った。

②【新改訳2017】使徒の働き18章5~6節
5 シラスとテモテがマケドニアから下って来ると、パウロはみことばを語ることに専念し、イエスがキリストであることをユダヤ人たちに証しした。
6 しかし、彼らが反抗して口汚くののしったので、パウロは衣のちりを振り払って言った。「あなたがたの血は、あなたがたの頭上に降りかかれ。私には責任がない。今から私は異邦人のところに行く。」

  • 使徒の働き13章では「足のちりを払い落として」とありますが、使徒の働き18章では「衣のちりを振り払って」とあります。いずれも断絶の意志を表明する表現です。一つの場所でそのようなことがあったとしても、パウロは自分の行く先々でユダヤ人の宣教をあきらめませんでした。彼は「異邦人の使徒」とされましたが、その生涯の終わりまでユダヤ人に対する宣教をあきらめませんでした。
  • 使徒パウロはローマ書10章1節で「兄弟たちよ。私の心の願い、彼らのために神にささげる祈りは、彼らの救いです。」(新改訳2017)と述べています。すでに9章3節で「私は、自分の兄弟たち、肉による自分の同胞のためなら、私自身がキリストから引き離されて、のろわれた者となってもよいとさえ思っています。」とも述べています。こうした表現によって、同胞のユダヤ人がキリストの福音に目が開かれることをパウロがいかに願い、神に祈っていたかをうかがい知ることができます。これは御父と御子の心を心としていたことを物語っています。
  • しかし、なにゆえにユダヤ人たちはイェシュアや使徒たちが宣べ伝えた御国の福音を受け入れようとはしなかったのでしょう。聞こえなかったのでしょうか。否! です。使徒パウロはローマ書10章8節で「みことばはあなたの身近にある。あなたの口にあり、あなたの心にある。」と述べています。「みことば」の部分が17節では「キリストについてのみことば」に置き換えられています。パウロがここで強調しようとしていることは、「キリストについてのみことば」はすでに旧約で啓示されており、神の民であるイスラエルはそれを聞いていたはずだということです。
  • ユダヤ人は長い間、トーラー(モーセ五書)を読み、学んできましたが、それは「キリストについてのみことば」、つまりキリストという鍵がなければ、聖書は正しく理解することができないということなのです。イスラエルは聞いていなかったのではなくて、聞こうとしなかったと訴えます。「聞こうとしなかった」とは、神のことばに対して、関心をもって問いかけることなく、主を尋ね求めず、主を捜そうともしなかったということです。そのために引用された聖書箇所は申命記32章21節とイザヤ書65章1~2節です。ここでは後者だけを引用したいと思います。

【新改訳2017】イザヤ書65章1~2節
1 「わたしを尋ねなかった者たちに、わたしは尋ね求められ、わたしを探さなかった者たちに、わたしは見出された。わたしの名を呼び求めなかった国民に向かって、『わたしはここだ、わたしはここだ』と言った。
2 わたしは終日、頑なな民に手を差し伸べた。自分の考えのまま、良くない道を歩む者たちに。

  • 1節の「わたしを尋ねなかった者たち」、「わたしを探さなかった者たち」、「わたしの名を呼び求めなかった国民」とはだれのことでしょうか。それは異邦人です。それは2節にある「頑なな民」である神の民イスラエルと対比させるためです。神の民であるイスラエルに主は絶えず手を差し伸べたにもかかわらず、彼らは自分の考えのまま、良くない道を歩む者たちとなってしまったからです。1節には、本来神の民イスラエルに求められていた神に対する重要な姿勢が記されています。それは第一に「尋ねる」と訳されたヘブル語の「シャーアル」(שָׁאַל)、「尋ね求める」と訳された「ダーラシュ」(דָּרַשׁ)、そし「探す」と訳された「バーカシュ」(בָּקַשׁ)、そして神を「見出す」と訳された「マーツァー」(מָצָא)です。これらの動詞は、いずれも神に対する神の民のあるべき重要な態度を示しています。ところが、これらのことを神の民イスラエルがしなかったために、神は異邦人にそのことができるように道を開くという預言です。その預言は預言的完了形で記されており、必ずそうなるという意味で語られているのです。これが神の言われる「足のちりを払い落とす」という意味です。
  • 反逆の民イスラエルに対して神はどうしたのかと言えば、「わたしは終日、頑なな民に手を差し伸べた」とあります。つまり途切れることなく、神の恩寵の手は開かれているということです。イェシュアが十二使徒たちに語られた「イスラエルの家の失われた羊たちのところに行きなさい」とは、このことを意味しています。にもかかわらず、イスラエルの民は今なお神に立ち返ろうとしていないことをパウロは語ろうとしているのです。今日においても然りです。-とすれば、神の民イスラエルは永久に神のご計画から外されたのかといえば、「決してそうではない」ということがローマ書11章で語られるのです。これはまさに神の奥義であり、「イスラエルの一部が頑なになったのは異邦人の満ちる時が来るまで」なのです。この11章こそ、イスラエルについての神のご計画であり、私たちが神のご計画とみこころの全貌を理解する上で、きわめて重要な事柄なのです。
  • 今回のマタイの福音書10章で十二使徒たちの派遣に際してイェシュアが語られたように、使徒たちが遣わされたところで「御国の福音」が聞き入れられず、拒絶された場合には、「足のちりを払い落としなさい」ということばは、あくまでも御国の福音を宣べ伝えるという働きがそのことによってとどめられないための配慮として、正しく理解して聞かなければなりません。私たち異邦人は、神がイスラエルの民に対して約束された「天の御国の福音」の枠の中でしか祝福されることはないからです。

ベアハリート 

  • 私の書斎に「コンサイス・バイブル 福音」というタイトルの本があります。これは聖書を配布している団体によって作られ、配布されている聖書です。「コンサイス」とは、簡潔で要領よくまとめられたものという意味ですが、その内容は旧約聖書の創造の物語と人間の堕罪、そしてノアの時代の神のさばきが記されて、そのあとに旧約のメシア預言のいくつかが紹介され、新約聖書のイェシュアの物語と終わりの時の教えが記された内容となっています。ここで私が言いたいことは、アブラハム・イサク・ヤコブの子孫であるイスラエルの物語がすっぽりと抜け落ちているということです。イスラエルの物語が完全に欠落した形の福音としてまとめられているのです。
  • これまで伝え聞いて来たキリスト教の「福音」とは、この「コンサイス・バイブル」が象徴しているような「福音」だったということです。日本のような異邦人に福音を伝えていくためには、簡潔にまとめられた、いかにもパッケージ化された商品のような「福音」はまことに便利なものでした。伝道のツールとしての「四つの法則」に見られるように、「神」「罪」「救い」「信仰」で、ある意味、最少の知識だけで神からの永遠のいのちを得ることができるというものです。しかしそのような福音の提示の仕方が、実は神のご計画の全体像を知ることを妨げているのです。
  • イスラエルの物語の父祖アブラハムに対して、神が約束されたことばがあります。

【新改訳2017】創世記12章1~3節
1 【主】はアブラムに言われた。「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。
2 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福となりなさい。
3 わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。地のすべての部族は、あなたによって祝福される。」

  • 特に、ここで重要なのは3節の後半の「地のすべての部族は、あなたによって祝福される。」ということばです。「地のすべての部族」とは、私たちのような異邦人です。そして「あなたによって」とは、アブラハムから始まるイスラエルの民のことです。そして、「地のすべての部族」は「あなたによって祝福される」ということです。この枠組みと秩序を知ることが重要なことなのです。初代教会の使徒たち、特に使徒パウロはこの枠組みの中で御国の福音を語っています。ですから、私たちはイスラエルに対してなされた神の約束を正しく知ることによって神のご計画の全体を知るだけでなく、御父の心をも深く悟ることができるのです。神の心の真髄にふれることなしに、永遠の神の栄光をたたえるということにはならないのです。
  • イェシュアや使徒たちが意味する福音(御国の福音)とは、イスラエルの物語を完成させるイェシュアの救いの物語であり、イェシュアは明らかにイスラエルを救う神のご計画の中心に自分を据えていました。コンパクトにパッケージ化された商品のような「福音」、つまり「個人的な救い」が強調されることによって、神のご計画全体に関心をもたなくなっているばかりか、同じく神のご計画の視点によって語られているイェシュアのことばの多くを(たとえ話も含めて)誤解して解釈しているという懸念があるのです。そうした意味において、再度、キリスト教会は初代教会が語っていた福音に立ち返る必要があるのです。

2018.9.30


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