****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

十二使徒派遣に見るイェシュアの宣教戦略(4)

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42. 十二使徒の派遣に見るイェシュアの宣教戦略(4)

【聖書箇所】マタイの福音書10章34~39節

ベレーシート 

  • マタイの福音書10章に記されているマタイの「第二の説教」から、「天の御国」のための宣教戦略についてのメッセージを学んで来ました。イェシュアの宣教戦略とは、これまでその働きに従事する者に以下の事柄が教えられました。

(1) 「全イスラエルの回復」(神がイスラエルに対して約束されたことの実現)という神のご計画。
(2) 「蛇のようにさとく、鳩のように素直であれ」という信仰的な理念。
「蛇のようにさとく」とは神のご計画における究極的な神のさばきと救いを知ることの「賢さ」。「鳩のように素直であれ」とは神のご計画の完成で与えられる祝福の総称である平和の約束を信じる「素直さ」。
(3) 「人を恐れないで、むしろ神を恐れる」という人間の存在の根底にある「恐れ」に対する信仰的姿勢。

  • これに続くイェシュアの第四の宣教戦略とは何でしょうか。まずはテキストを読んでみたいと思います。

【新改訳2017】マタイの福音書10章34~39節
34 わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはいけません。わたしは、平和ではなく剣をもたらすために来ました。
35 わたしは、人をその父に、娘をその母に、嫁をその姑に逆らわせるために来たのです。
36 そのようにして家の者たちがその人の敵となるのです。
37 わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。
38 自分の十字架を負ってわたしに従って来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。
39 自分のいのちを得る者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを得るのです。


1. 平和ではなく剣をもたらすために来たイェシュア  

【新改訳2017】マタイの福音書 10章34節
わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはいけません。わたしは、平和ではなくをもたらすために来ました。

  • 当時のユダヤ人にとって、メシアは「平和の君」であり、イスラエルに絶対的平和をもたらすと期待していました。ところがイェシュアは「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはいけません。」と言われたのです。「平和ではなく剣をもたらすために来ました。」という表現は、一見、平和が否定されているように見えます。しかしこれは逆説的な表現で、後者の「剣」の意味をよく理解させるための強調表現です。「剣」の意味が正しく理解されることで、真の平和が理解されるという意味なのです。
  • 事実、「平和」(「シャーローム」שָׁלוֹם)はイェシュアとは切っても切れません。イェシュアが誕生される前にザカリヤが「暗闇と死の陰に住んでいた者たちを照らし、私たちの足を平和の道に導く。」(ルカ 1:79)と賛美しました。イェシュアが誕生された時には、御使いたちが「いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平和がみこころにかなう人々にあるように。」(ルカ2:14)と神を賛美しました。また、イェシュア自身も山上の説教の中で「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。」(マタイ5:9)とも語っています。この平和はあくまでも天の御国における「平和」のことであり、エデンの園が回復されるメシア王国でもたらされる究極的な祝福の総称です。しかしその平和が実現される前に、「剣」がもたらされなければならないのです。その場合の「剣」とは何でしょうか。イェシュアが地にもたらす(=投げ込む)「剣」とは神のことばを意味します。新約聖書で「剣」が神のことばを意味している箇所がいくつかあります。

①【新改訳2017】エペソ人への手紙6章17節
救いのかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち神のことばを取りなさい。
②【新改訳2017】ヘブル人への手紙4章12節
神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄を分けるまでに刺し貫き、心の思いやはかりごとを見分けることができます。

  • イェシュアのもたらす「剣」とは「神のことば」と同義であり、その機能はいかなる剣よりも鋭い神のことばであるとしています。イザヤ書49章2節の「しもべ(メシア)の歌」で、「主は私の⼝を鋭い剣のようにし」とあります。黙示録では栄光のキリストの「⼝から鋭い両刃の剣が出ていて、顔は強く照り輝く太陽のようであった。」(1:16)とあります。①②の「剣」のギリシア語は「マカイラ」(μάχαιρα)ですが、黙示録に出てくるイェシュアの「剣」は他に「ロムファイア」(ῥομφαία)です(1:16, 2:12,16, 19:15,21)という語彙が使われています。しかしヘブル語の「剣」はいずれも「ヘレヴ」(חֶרֶב)が使われています。この「ヘレヴ」の初出箇所が創世記3章24節にあります。

【新改訳2017】創世記 3章24節
こうして神は人を追放し、いのちの木への道を守るために、ケルビムと、輪を描いて回る炎のをエデンの園の東に置かれた。

  • 「輪を描いて回る炎の」(新改訳2017)となっていますが、新共同訳は「きらめくの炎」と訳しています。口語訳は「回る炎のつるぎ」と訳しています。神は人を追放して、いのちの木への道を守るために、ケルビムと、輪を描いて回る炎の剣をエデンの園の東に置いて、人が勝手にいのちの木に至ることができないようにされました。ちなみに、人はエデンの園を追放されたとあります。追放されてどこへ行ったかと言えば、「エデンの園の東に」とあり、七十人訳聖書は「エデンの園の前に」住まわせたと訳しています。「東」と「前」もヘブル語では「ケデム」(קֶדֶם)という語彙です。ですからエデンの園の「東」とも、「前」とも訳せます。いずれにしてもその境目にはケルビムが置かれており、やがてエデンの園が回復して、人がいのちの木への道を通って自由に食べることができる時まで、エデンの園を守っているのです。
  • イェシュアが「わたしはであり、真理であり、いのちなのです。」と言われたことを考えるとき、「いのちの木への道を守るために、・・輪を描いて回る炎の剣」と対応させて考えるなら、真理は「炎の」に対応します。その「炎の剣」はすべての偽りを見抜いて焼き尽くす炎である神のことばと言えます。
  • やがて「終わりの日」にエデンの園が回復するとき、そこに住むように定められた者たちは神のことばによる禊(みそ)ぎを受けなければならないのです。エデンの園は神の祝福の総称である「平和」(「シャーローム」שָׁלוֹם)そのものです。その祝福にあずからせるために、イェシュアは「わたしは剣をもたらすために来た」(マタイ10:34)と言っているのではないでしょうか。究極的な真の平和(シャーローム)がもたらされる前に、神と人との誤ったかかわりが、神のことばである剣によって焼き尽くされ、平和への幻想を断ち切られなければならないのです。そのためにイェシュアが神のことばという剣をもたらす(=投げ込む)ために来たと理解するなら、最も近しい関係にある「家の者たちがその人の敵となる」(36節)ということも理解できるのです。
  • 特にユダヤ人の家庭において、イェシュアがメシアであると信じる者が一人起こされると、その家では葬式が出されると言われます。その背景にはクリスチャンがユダヤ人を迫害してきたという根強い歴史的事実があります。ユダヤ人が今もイェシュアを信じることのできない理由は、そうした背景があるからです。日本では信仰を持つと世間体のゆえに勘当されるというレベルですが、ユダヤ人の場合は、勘当される程度ではなく、死んで亡くなったという葬式レベルの扱いを受けるのだそうです。今日のメシアニック・ジューと言われる人たちの多くはそのようにして信仰をもっているのです。それゆえ35節にあるように、「わたしは、人をその父に、娘をその母に、嫁をその姑に逆らわせるために来たのです」というのは真実なのです。
  • この35節をギリシア語で読むとより明確です。「なぜなら、わたしが来たのは、人をその人の父に逆らわせ(κατά)、娘を彼女の母に逆らわせ(κατά)、嫁を彼女の姑に逆らわせ(κατά)て、仲たがいをさせる(二分させる)ためだからです。」となります。ヘブル語は「離れさせる」を意味する「パーラド」(פָּרַד)の使役形が使われています。イェシュアが来たことによって、それまでの人間的な絆が断ち切られ、離れさせられ、互いに憎しみ合うことが起こり得るのです。なぜなら、地上のどんな貴重なものも色褪せるくらいの宝をイェシュアに見出した人とその価値を見出せなかった人との間に、たとえ夫婦や親子や親戚や親友と言われる関係であっても、価値観による分裂が起こってしまうからなのです。家族が分裂するくらいなら神を信じる信仰をやめてしまおうと思う者も出かねません。ですからイェシュアは以下のように言われるのです。

2. イェシュアにふさわしい者とは

【新改訳2017】マタイの福音書10章37~38節
37 わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。
38 自分の十字架を負ってわたしに従って来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。

  • 「キリスト教とは愛の宗教だと聞いていたけれども、これはひどい言葉だ」と言う人も出て来そうです。実は、37~38節のみことばは旧約聖書のミカ書7章6節から引用されています。

【新改訳2017】ミカ書7章6節
子は父を侮り、娘はその母に、嫁はその姑に逆らい、それぞれ自分の家の者を敵とする。

  • このミカの預言は「獣と呼ばれる反キリスト」が立ち上がる「終わりの日」において現実となります。反キリストが支配する世界では、イェシュアを信じる者たちの家族において、自分の家の者を敵とすることが起こります。かつて日本の徳川幕府がキリシタン撲滅のために五人組制度を設けて密告させ、あらゆる手段を使って日本各地でしらみつぶしにキリシタン狩りを実施しました。一人でもその中にキリシタンがいれば連帯責任を取らされるために、家族の信頼関係は崩されました。それに似た同じようなことが、「終わりの日」に起こることをミカは預言的に啓示されたと思われます。つまり、患難時代において、主に従う者は家族に敵対する者となるのです。そうした状況の中で、「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。」とあるように、イェシュアよりも自分の家族を優先して、信仰を捨てることがないようにと強く諭しているのです。
  • ルカの福音書にも同じことが記されています。

【新改訳2017】ルカの福音書14章25~27節
25 さて、大勢の群衆がイエスと一緒に歩いていたが、イエスは振り向いて彼らに言われた。
26 「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分のいのちまでも憎まないなら、わたしの弟子になることはできません。
27 自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。

  • マタイの「わたしにふさわしい者ではない」という表現が、ルカでは「わたしの弟子になることはできません」となっています。とりわけ、「ふさわしい」と訳された形容詞のギリシア語は「アクスィオス」(ἄξιος)ですが、10章の中に7回も使われています(10,11,13,13,37,37,38)。その意味は「当然な、適当な、ふさわしい」と訳されています。他の箇所を調べても「~の資格がある、~の値うちがある、値する」という意味になります。それに相当するヘブル語がなぜか一様ではありません。しかしもしイェシュアと弟子たちのかかわりを花婿と花嫁の関係にたとえるなら、その「ふさわしい」かかわりはヘブル語の「ナーヴェ」(נָאוֶה)で表されます。「ナーヴェ」(נָאוֶה)はエレミヤ記の1回を除くと9回のすべてが聖文書(ケスヴィーム)の中で用いられており、詩篇、箴言、雅歌にある訳語を調べてみると、「ふさわしい」の他に、「麗しい」「美しい」「愛らしい」と訳されています。特に「歌の中の歌」と言われる雅歌において、花嫁が花婿にとって「ふさわしい」「麗しい」「美しい」「愛らしい」価値ある存在として描かれています。したがって、「わたしにふさわしい者ではありません」とは、花婿イェシュアにとって、あなたは花嫁として「麗しい」「美しい」「愛らしい」価値ある存在ではないという意味になります。天の御国においては、花嫁は花婿なるイェシュアとの関係が何よりも大切です。その花嫁とは主の弟子でもあるのですから、花婿であるイェシュアから「あなたはわたしにとってふさわしい者、麗しい、美しい、愛らしい者ではない」と言われつつ共に歩むことは、御国においては考えられません。それは大いに悲しむべきことです。

3. 自分の十字架を負って、イェシュアにつき従う者

  • 38節の「自分の十字架を負ってわたしに従って来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。」を考えてみましょう。ここには「自分の十字架を負ってでもわたしに従ってついてきてほしい。」というイェシュアの思いが伝わってきます。「十字架」という言葉が新約聖書で初めてここで登場しますが、「自分の十字架を負う」とはどういうことでしょう。「十字架を負う」とは自分に課せられた苦しい厳しい境遇のことではありません。「十字架」とは「死」を意味します。ですから、「自分の十字架を負って」とは「自分に死ぬ」ことを意味します。「自分に死ぬ」とはどういう意味でしょうか。

①肉親である自分の親や子どもたち以上にイェシュアを優先することを意味します。
②自分が大切にしている関係よりも、イェシュアのことを第一にする生き方です。
③自分の計画や夢をかなえることではなく、イェシュアがなそうとしている計画に関心を持つことです。
・・・・などなど。

  • すべてにおいてイェシュアが優先される生き方です。あなたの心がイェシュアで染まってしまうことです。そのことを自分の最高の宝とすることです。これが「自分に死ぬ」ことです。これが天の御国の価値観なのです。換言するなら、『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』(マタイ22:37)という神のトーラーの第一戒を全うすることです。この霊性はイスラエルだけでなく、花嫁である教会の霊性でもあります。
  • キリスト者は両親を敬い、人々に対しても常に忍耐と寛容をもって接しなければなりません。しかしキリスト者にとって最も優先すべき関係はキリストとの関係です。ですから、キリストを何よりも第一とするとき、他のすべてのかかわりを受け取り直すことができるのです。父母への愛、友情、恋愛はすばらしいものですが、それは「自己愛」です。そうした自己愛に対して徹底的に対決しなければならないのです。この対決をすることなく、自己を捨てようとしない者は、キリストに「ふさわしい」「麗しい」「美しい」かかわりとは言えないのです。このことを示したことばが、38節の「自分の十字架を負ってわたしに従って来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。」ということばです。
  • 39節に「自分のいのちを得る者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを得るのです。」とあります。「自分のいのち」は、原文では「自分の魂(「プシケイ」ψυχή、「ネフェシュ」נֶפֶשׁ)」ですが、要するに「自分自身のこと」です。イェシュアが言わんとしていることは、もし「自分で自分を生かそうと思う者はあなた自身を失い(滅ぼさせ)、逆に、イェシュアによって自分を生かそうと思う者はあなた自身を生かす(獲得する)ことになる。」と言っているのです。
  • 今回は、「わたしは、平和ではなく剣をもたらすために来ました。」で始まりました。つまり「平和ではなく剣を」という逆説的表現で始まりましたが、終わりも、「死んで生きる」という逆説的表現です。これが第四のイェシュアの宣教戦略だと言えます。「死んで生きる」(十字架の死と復活)-このことが真理であることを証明してくださったのがイェシュアなのですが、イェシュアの他に逆説的な生き方をしたモデルにアブラハムがいます。アブラハムの生涯で最も大切にしていることは何か、何を第一にして生きているのかという神からの問いかけがなされました。つまり、神かそれとも彼の愛する子イサクか。そのことを試される出来事が創世記22章に記されています。

【新改訳2017】創世記22章2節、9~12節、15~18節
2 神は仰せられた。「あなたの子、あなたが愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そして、わたしがあなたに告げる一つの山の上で、彼を全焼のささげ物として献げなさい。」
(※イサクは神の約束によって与えられたアブラハムの子。その子を「全焼のささげ物として献げなさい」との命令)
9 神がアブラハムにお告げになった場所に彼らが着いたとき、アブラハムは、そこに祭壇を築いて薪を並べた。そして息子イサクを縛り、彼を祭壇の上の薪の上に載せた。
10 アブラハムは手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。
11 そのとき、【主】の使いが天から彼に呼びかけられた。「アブラハム、アブラハム。」彼は答えた。「はい、ここにおります。」
12 御使いは言われた。「その子に手を下してはならない。その子に何もしてはならない。今わたしは、あなたが神を恐れていることがよく分かった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しむことがなかった。
15 【主】の使いは再び天からアブラハムを呼んで、
16 こう言われた。「わたしは自分にかけて誓う──【主】のことば──。あなたがこれを行い、自分の子、自分のひとり子を惜しまなかったので、
17 確かにわたしは、あなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように大いに増やす。あなたの子孫は敵の門を勝ち取る。
18 あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたが、わたしの声に聞き従ったからである。」

  • 一見、不条理とも思える神の声に聞き従うこと、これこそ「自分に死ぬ」ということであり、神がふさわしいとされることなのです。イェシュアの言われることを信じて、あなたがイェシュアの声に聞き従うこと、これが「死んで生きる」ことにつながります。どんなに才能があっても、人からの評価がどんなに高い人であっても、どんなにすばらしい家族であっても、それ以上にイェシュアのことばに従うのでなければ、あなた自身のすべてを永遠に失うことになるのです。
  • 創世記22章は多くのことを私たちに教えてくれています。「愛する」(「アーハブ」אָהַב)という言葉が初めて聖書に登場するのもこの箇所です(22:2)。主はアブラハムに「あなたの子、あなたが愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。」と命じます。「モリヤ」(מוֹרִיָּה)とは「主が示す」という意味です。「ヤー」(יָה)は「主」で、「モーリー」(מוֹרִי)は「教え、示す」を意味する「ヤーラー」(יָרָה)が分詞化したものです。つまり、「モリヤの地」とは「主が教え示す地」という意味です。その地にある「一つの山」で、愛するひとり子イサクを全焼のいけにえとしてささげるよう、主はアブラハムに命じられたのです。「一つの山」とは、やがて明らかになる「エルサレム」(「イェルーシャーライム」יְרוּשָׁלַיִם)のことです。アブラハムはその場所を「アドナイ・イルエ」(יהוה יִרְאֶה)と呼びました。多くの聖書がこれを「主の山には備えがある」と訳していますが意訳です。直訳は「主の山において主がご覧になる」という意味です。七十人訳も「主はご覧になった」と訳しています。それはまた「主の山(エルサレム)には主のヴィジョンがある」とも訳せるのです。アブラハムの信仰の試練は「愛する」ということがどういうことかを試されたのです。つまり、「神がご覧になっているヴィジョンを知って、それを見、それに従い、それに参与すること」が、聖書のいう「愛する」ことだと言えるのです。
  • また、「イェルーシャーライム」の語彙に含まれる「シャーレーム」(שָׁלֵם)には「完成する」という意味があります。まさにエルサレムは神と人とがともに住むという神のご計画のヴィジョンが完成する御国(エデンの園)の中心地です。そこを神はいつもご覧になっておられるのです。神がご覧になっておられるものを一緒に見ることが聖書の意味する「愛する」という意味であり、それが「自分に死ぬ」ということなのです。なんとすばらしい生き方ではありませんか。私たちもアブラハムの信仰に倣いたいものです。
  • 最後に、マタイ10章38 節の「自分の十字架を負ってわたしに従って来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。」という表現を使徒パウロ流に言い換えてみたいと思います。

【新改訳2017】ガラテヤ人への手紙6章7~8節
7 思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、刈り取りもすることになります。
8 自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊に蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。

  • 「肉」とは人間中心的な考え方、人間の常識的な考えを意味します。それに対してここでの「御霊」とは神中心の考え方、人間的には非常識な考え方を意味します。「御霊」はすでにイェシュアを信じる者に与えられた賜物です。信じていない者には「肉」の思いしかありませんし、肉の思いは神に対して反抗するのです。「肉」という自分中心の畑か、それとも「御霊」という神中心の畑か、どちらの畑に種を蒔くかでその結果を刈り取ってしまうのです。肉という自分中心の畑に種を蒔くなら「滅び」を刈り取り、御霊という神中心の畑に種を蒔くなら「永遠のいのち」を刈り取ることができるのです。パウロはこの事実をしっかりと受け止めるようにと諭しています。「自分の十字架を負って、主に従っていく」とは、「御霊という畑に種を蒔くこと」と同義なのです。良い地に種を「蒔く」という行為は、御国において計り知れないほどの収穫が約束されているのです。
  • 今回のイェシュアの宣教戦略は死んで生きるという逆説的な生き方です。自分の十字架を負って、日々、イェシュアの後を歩みたいと思います。

2018.11.11


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