****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

十字架につけられたイェシュア (4)


124. 十字架につけられたイェシュア (4)

【聖書箇所】マタイの福音書27章47~53節

ベレーシート

●今回の聖書箇所(マタイ27:47~53)には、十字架につけられたイェシュアの死とその前後の出来事が記されています。その内容はイェシュアの叫びを聞いたユダヤ人たちの反応、そして死の前後に起こった五つの奇跡を含んでいます。これらの出来事は、やがて御国が実現する際のデモンストレーションであり、預言の成就の必然性を示すものです。順序は逆になりますが、イェシュアの死の記述をまず先に扱い、そしてその後にイェシュアの死の前後の記述を取り上げたいと思います。

1. イェシュアの死

●イェシュアの死の事実は、マタイ27章50節に「再び大声で叫んで霊を渡された」と記されています。ルカの福音書では、「イエスは大声で叫ばれた『父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます。』こう言って、息を引き取られた。」(23:46)と記しています。御父に対する御子の絶対的な信頼と従順の骨頂は、最後の叫びにおいて見事に結集しています。父と子のゆるぎない信頼とその親密さはイェシュアの生涯に一貫しています。イェシュアが12歳の時、両親に対して、「どうしてわたしを捜されたのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当然であることを、ご存じなかったのですか。」(2:49)と語っていますし、バプテスマをお受けになった時には、天から「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ」という御声を聞いて公生涯をスタートしています。

●マタイとルカのイェシュアの叫びは、いずれも主に対する信頼を歌った詩篇31篇5節のフレーズです。そこでは「私の霊をあなたの御手にゆだねます」となっています。マタイの「渡された」も、ルカの「ゆだねます」も、ヘブル語では同じ語彙「パーカド」(פָּקַד)です。相手に対する最も深い信頼と真実を意味します。神は人に約束したことをおこない、人はそれにゆだねることを意味します。「ゆだねる」と訳されたギリシア語の「パラティセーミィ」(παρατίθημι)は、「~の前に置く」(set before)という意味ですが、俗なことばで言うならば、「まな板の上の鯉」のように、窮地に立たされても慌てることなく、自分の身を相手のなすがままにさせて泰然としている状態です。そこから「ゆだねる」という意味が派生しています。

●神にゆだねるとはどういうことか。カトリックの司祭でプロテスタント教会にも大きな影響を与えている人に、ヘンリー・ナウエンという人がいます。その人がある本の中で、空中ブランコサーカスのスターに演技についての秘訣を聞いた話を書いています。それによれば、「サーカスの観客は飛び手がスターだと思っているが、ホントのスターは受け手だということです。うまく飛べる秘訣とは、飛び手は何もせずに、全て受け手にまかせることなのです。飛び手は受け手に向かって飛ぶ時、ただ両手を拡げて受け手がしっかり受けとめてくれると信じてジャンプすることなのです。空中ブランコで最悪なのは飛び手が受け手をつかもうとすることなのです。」 つまり、自分を捕らえてくれることを信頼してジャンプすること、これが「ゆだねる」ということの意味なのです。「霊を渡された」、「わが霊を御手にゆだねます」ということばの中に、完全なる謙遜、完全なる愛、完全なる明け渡し、徹頭徹尾の信頼と従順が告白されています。御父に対する揺るぎない信頼こそイェシュアの生涯に一貫したものでした。ここに信仰の完成者の姿があります。このゆるぎない信頼のかかわりを、ヨハネは「永遠のいのち」と呼んでいるのです。そして子の父に対する完全な信頼と従順こそ、神と人とを結ぶいのちの絆です。イェシュアは、受難と死、そして三日目の復活を通して、いのちの絆の栄光を目に見える形で現わして下さったのです。

2. エリヤの預言が成就することを指し示す

【新改訳2017】マタイの福音書27章47~49節
47 そこに立っていた人たちの何人かが、これを聞いて言った。「この人はエリヤを呼んでいる。」
48 そのうちの一人がすぐに駆け寄り、海綿を取ってそれに酸いぶどう酒を含ませ、葦の棒に付けてイエスに飲ませようとした。
49 ほかの者たちは「待て。エリヤが救いに来るか見てみよう」と言った。

●十字架につけられたイェシュアを立って見ていた人々の反応が記されています。何人かの人々が「これを聞いて」とあります。「これ」とは「エリ、エリ、サバクタニ」(=わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか)というイェシュアの叫びのことです。この叫びを聞いた者たちの何人かが、「この人はエリヤを呼んでいる」と言ったのです。実は彼らは聞き間違ったのですが、当時の人々は「エリヤが来る」ということを信じていたために、イェシュアのことばをそのように理解したのでした。これは「理解の型紙」というもので、それをもって聞くと、そのように聞こえるという事例です。それによる行動、それによる軽蔑的な言動がここに記されています。「エリヤを呼んでいる」「エリヤが来るか見てみよう」という人々の言動は、預言者マラキが預言したことばから来ています。

【新改訳2017】マラキ書4章5~6節
5 見よ。わたしは、【主】の大いなる恐るべき日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。
6 彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、この地を聖絶の物として打ち滅ぼすことのないようにするためである。」

●しかし人々はこの預言を正しく理解していませでした。預言者エリヤが遣わされたなら、「彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。」ということが起こるからです。「父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる」とは、正しい信仰の継承がなされるという預言です。ユダヤ人の信仰教育は家庭教育にあります。それは「父から子へ」という形でなされて来ました。父は家の祭司であり、子は父から神を敬うこと、神を恐れることを幼い時から学んできた民族なのです。旧約の最後の預言者であったバプテスマのヨハネは、イェシュアをメシアとして指し示しました。ところがユダヤ人はそのことを信じなかったのです。

●イェシュアがヘルモン山で変貌することで、ご自身が神の子であることを垣間見せた瞬間がありました。その時、モーセとエリヤもそこに現れたのをペテロとヤコブとその兄弟ヨハネが目撃しています。その出来事の後で、イェシュアは彼らに「あなたがたが見たことを、だれにも話してはいけません。人の子が死人の中からよみがえるまでは」と釘を刺されました。弟子たちがイェシュアに尋ねます。そのやり取りを見てみましょう。

【新改訳2017】マタイの福音書17章10~13節
10 すると、弟子たちはイエスに尋ねた。「そうすると、まずエリヤが来るはずだと律法学者たちが言っているのは、どういうことなのですか。」
11 イエスは答えられた。「エリヤが来て、すべてを立て直します。
12 しかし、わたしはあなたがたに言います。エリヤはすでに来たのです。ところが人々はエリヤを認めず、彼に対して好き勝手なことをしました。同じように人の子も、人々から苦しみを受けることになります。」
13 そのとき弟子たちは、イエスが自分たちに言われたのは、バプテスマのヨハネのことだと気づいた。

●ここではっきり分かることは、イェシュアの「エリヤはすでに来たのです」ということばで、弟子たちがエリヤとは「バプテスマのヨハネのことだ」と気づいたことです。しかし多くのユダヤ人はこのバプテスマのヨハネをエリヤだとは信じませんでした。十字架のイェシュアのそばにいた者たちの「エリヤが救いに来るか見てみよう」という侮りのことばもそのことを示しています。ですから、「父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる」というエリヤの預言はいまだに成就していないのです。

●マタイ27章46~48節にある記述が示している必然性は何なのでしょうか。その必然性とはこうです。バプテスマのヨハネがエリヤの使命を担うために遣わされたにもかかわらず、人々が彼を退けてしまったために、再び、エリヤ的務めを持った者が遣わされることを記しているということです。メシアの「来臨」に「初臨」と「再臨」があるように、聖霊の降臨が「イェシュアの復活後」と「再臨の前」にあるように、エリヤの務めを担う者も二度あることを伝えようとしていると考えられます。なぜなら、マタイの視点は「預言が成就すること」だからです。その時には「父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる」ことが成就し、イスラエルの残りの者として、彼らが「星の数ほど増え広がる」という預言が成就するのです。

●実際、「終わりの日」に遣わされるエリヤは、「二人の証人」が担うこととなります(黙示録11:3~12)。彼らの働き(同、11:2)は、「千二百六十日」、つまり「四十二か月の間」、七年間の前半の期間「三年半」に、世界中にいるユダヤ人に大きな影響を与え、それによって14万4千人のユダヤ人が神によって起こされて「御国の福音を宣べ伝える」ようになります(マタイ24:14)。彼らは神の印が額に押された者たちで、反キリストによって殉教することのない「イスラエルの残りの者」の一部です(黙7:1~4)。彼らの働きによって短期間のうちに多くの異邦人が救われるのです(同、7:9)。黙示録14章ではその異邦人の数を14万4千人としています。彼らは反キリストによって殉教した者たちで、小羊とともに天にいることが記されています。この異邦人は教会とは異なる群れです。なぜなら、教会はすでに携挙されているからです。

●イェシュアが再びこの地上に来るように、エリヤ的使命をもった者がそれに先立つようにして、再び現れるのです。もしエリヤ的使命を担う「二人の証人」が遣わされることがなかったとしたら、ユダヤ人と異邦人のそれぞれの14万4千人は存在しませんし、「父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる」という「父と子の完全なる関係の修復」の預言も成就しないことになります。ユダヤ人における「父と子の関係」はあまりにも強いため、子がイェシュアをメシアと信じるとその関係は死んだものとみなされるほどです。今現在の「メシアニック・ジュー」の多くはその親子関係が破綻しています。しかしその関係がエリヤ的存在によって修復し、回復されるのです。ちなみに、黙示録7章と14章にある14万4千人という数は、「終わりの日」に神によって贖われる人の「象徴数」なのです。これは以前に分かち合っています(No.118「銀三十枚の奥義」参照)。

3. イェシュアの死後の五つの奇跡

●イェシュアが⼗字架につけられたのは、第三時(午前九時)頃です。そして、その 6 時間後の第九時(午後三時)以降に息を引き取られました。その間に、五つの奇蹟が起こります。これらの出来事は決して偶発的なことではなく、神のご計画と密接に関係しています。ここではそのひとつを取り上げて、神のご計画(マスタープラン)における最後の出来事を予告する奇蹟(しるし)であったことを論証したいと思います。

画像の説明

●五つの奇蹟とは以下の出来事です。
(1) 真昼に太陽が暗くなり、三時間の暗やみが全地を覆ったこと
(2) 神殿の聖所と⾄聖所を隔てる幕が上から下に裂かれたこと
(3) 地震が起きたこと
(4) 岩が裂けたこと
(5) 墓が開いて多くの聖徒たちが⽣き返ったこと

●マタイの視点は「預言が成就すること」にあります。「これまでイェシュアについて預言されたこと」も、そして「これから起こること」もです。(1)~(5)はすべて「終わりの日」に起こるデモンストレーションです。以下、⼗字架につけられたイェシュアの死に際して起こった出来事を見てみたいと思います。

(1) 真昼に太陽が暗くなり、三時間の暗やみが全地を覆ったこと

●マタイは「さて、⼗⼆時から」、マルコは「さて、⼗⼆時になったとき」「全地が暗くなった」ことを記しています。ここでの「⼗⼆時」とはヘブル的時刻ではなく、今⽇の時刻表記で訳されています。「三時まで」というのも現代表記です。「全地」とは地球的規模なのか、あるいはエルサレム周辺の規模においてなのかは分かりません。いずれにしても、エルサレムが暗やみに覆われるということの事実は変わりません。「主の⽇」には「暗闇」が覆うことは、旧約の預⾔者たちが預⾔していることです。

①【新改訳2017】ヨエル書2章1~2節
1 「シオンで角笛を吹き鳴らし、わたしの聖なる山でときの声をあげよ。」
地に住むすべての者は、恐れおののけ。【主】の日が来るからだ。その日は近い。
2 それは闇と暗闇の日。雲と暗黒の日。数が多く、力の強い民が、暁とともに山々の上に進んで来る。
このようなことは、昔から起こったことがなく、これから後、代々の時代までも再び起こることはない。

②【新改訳2017】ヨエル書2章31~32節
31 【主】の大いなる恐るべき日が来る前に、太陽は闇に、月は血に変わる。
32 しかし、【主】の御名を呼び求める者はみな救われる。【主】が言ったように、シオンの山、エルサレムには逃れの者がいるからだ。生き残った者たちのうちに、【主】が呼び出す者がいる。」
※この箇所は、使徒の働き2章20節にも引⽤されています。

③【新改訳2017】アモス書5章18, 20節
18 ああ。【主】の日を切に望む者。【主】の日はあなたがたにとって何になろう。それは闇であって、光ではない。
20 【主】の日は闇であって、光ではない。暗闇であって、そこには輝きはない。

●このように、「主の⽇」には真昼に暗闇が覆うことが預⾔されています。マタイは「そうした苦難の日々(=反キリストによる⼤患難)の後、ただちに太陽は暗くなり(חָשַךְ)、⽉は光を放たなくなり」(24:29)と、イェシュアの「終わりの⽇についての説教」の中にあることばを記しています。また、ヨハネの黙⽰録においても同様に、子⽺が第六の封印を解いたときに「太陽は毛織りの祖布のように⿊くなり(שָׁחַר)」(6:12)と預⾔されています。以上のことから、イェシュアが⼗字架にかかっているその⽇の正午から三時間覆った「暗やみ」(חֹשֶׁךְ)は、やがて「主の⽇」(終末)におけるメシアの再臨直前に起こる出来事を予表しているのです。

(2) 神殿の垂れ幕が上から下に引き裂かれたこと

●神殿の中の聖所と⾄聖所を仕切る垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けたことも神の奇跡です。その厚みがなんと 20 センチほどもある丈夫な布製のものであり、⼆頭の⽜を左右に結んで引っ張っても裂けないほどの丈夫なものだったと⾔われています。それが上から下まで真っ二つに裂けた(正しくは「裂かれた」)というのは神の奇跡以外の何ものでもありません。「上から下まで」という表現は、それが神の行為であることを示唆しています。

●「裂ける」は「カーラ」(קָרַע)で、その初出箇所は創世記37章29節、ヨセフがいなくなったことで長兄のルベンが自分の衣を引き裂いたことに用いられています。34節でも父ヤコブも同様に衣を裂きます(脚注)。ヨセフは銀20枚で売られ、一見、彼の人生の太陽は没して暗闇に突入していきます。しかし実は、イスラエルの民にとって新しく輝かしい朝を迎えるための主のご計画だったのです。神殿の幕が裂かれたことも同様です。このことによって神と⼈とを隔てる罪の仕切がなくなり、神と⼈とが共にいること、神と⼈とが共に交わる新しい道が開かれたことを意味しているのです。そのことをヘブル人への手紙の著書は以下のように記しています。

【新改訳2017】ヘブル人への手紙10章19~20節
19 こういうわけで、兄弟たち。私たちはイエスの血によって大胆に聖所に入ることができます。
20 イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのために、この新しい生ける道を開いてくださいました

●仕切りの垂れ幕が真っ⼆つに裂けたことは、イェシュアが⼗字架で息を引き取られた後で起こっています(ルカはその逆です)。それが意味する霊的な出来事はすでに実現していますが、それが完全な形でこの地上において実現するのはメシアが再臨された後の「メシア王国」(千年王国)、およびその後に来る最終ステージである「新しいエルサレム」においてです。

(3) 地震が起きたこと

●聖書においては、神のさばきと地震には密接な関係があります。ゼカリヤ書14章にはこう記されています。

【新改訳2017】ゼカリヤ書14章4節
その日、主の足はエルサレムの東に面するオリーブ山の上に立つ。オリーブ山はその真ん中で二つに裂け、東西に延びる非常に大きな谷ができる。山の半分は北へ、残りの半分は南へ移る。

●ヨハネの黙⽰録では主の⽇には未曾有の地震が起こることが預⾔されています。

【新改訳2017】ヨハネの黙示録16章17~18節
17 第七の御使いが鉢の中身を空中に注いだ。すると大きな声が神殿の中から、御座から出て、「事は成就した」と言った。
18 そして稲妻がひらめき、雷鳴がとどろき、大きな地震が起こった。これは人間が地上に現れて以来、いまだかつてなかったほどの、大きな強い地震であった。

●メシアの再臨時には、未曽有の「⼤きな地震」によって、反キリストが築いた統治システムのすべてが一瞬にして壊滅します。そのことを予表する地震が、イェシュアが⼗字架で息を引き取られた後に起こったと考えられます。「地震」という現象は常に神のメッセージと密接な関係があるようです。

(4) 岩が裂けたこと

●これはマタイの独占記事です。地震が起こったことと、岩が裂けたことは直接的な関連があってもなくても、そのこと⾃体に意味があります。岩が裂けたことと垂れ幕が裂けたことは、同じ動詞「スキゾー」(σχιζω)のアオリスト受動態が使われています。かつて荒野において、モーセが杖で岩を打つと岩から⽔が出たという奇跡があります(⺠数記20章)。使徒パウロもそこから、「(私たちの先祖たちはみな・・)同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らについて来た霊的な岩から飲んだのです。その岩とはキリストです。」と述べています(Ⅰコリント 10:4)。岩がキリストで、その岩から出た⽔が御霊だということを説明しようとしています。すでに「岩である」キリスト(メシア)が裂かれたことで、そこから流れる御霊によって新しい時代が到来したことを予表しています。終わりの⽇において、ユダヤ⼈たちは反キリストから逃れてエドムの⾸都「ペトラ」(=「岩」という意味)に隠れます。しかし彼らに「恵みと哀願の霊」が注がれることで、⻑い間彼らにとって「妨げの岩」であったイェシュアがメシアであることに霊の⽬が開かれます。これらの⼈々は「残りの者」たちです。「ペトラ」はギリシア語で「岩」という意味ですが、「メシア王国」は真の「岩」である⽅の上に建てられるのです。それは決して揺るぐことのない王国です。「岩が裂かれる」というのは、神殿の垂れ幕が上から下に裂かれたように、多くの者が同じ御霊を飲むようになるという預⾔的な表現なのです。

(5) 聖徒たちのよみがえり

●最後の奇蹟は、地震と連動しているかもしれません。墓が開いて、眠っていた多くの聖徒たちのからだが⽣き返りました。これは三⽇⽬にイェシュアが「初穂」として死からよみがえったことで、その初穂に続いてやがて多くの聖徒たちがよみがえって、墓から出てくることの予表と⾔えます。事実、イェシュアが死んだ後に、地震が起こり、多くの聖徒たちが⽣き返ったのです。イェシュアが復活されてから、彼らは墓から出て、聖都であるエルサレムに⼊って多くの⼈に現われています。この出来事もやがて「メシア王国」においてエルサレムに聖徒たちが集められることの予表と⾔えます。それは、エゼキエル書37章の「枯れた骨の幻」の成就と言えます。

●イェシュアが宣べ伝えた「御国の福⾳」は、アブラハム・イサク・ヤコブに対しての約束、ダビデに対する約束、そして多くの預⾔者たちが預⾔したことが、完全にこの地上において⽬に⾒える形で実現することです。しかし、私たちのからだが新しいからだに変えられることなくして、御国に⼊ることはできません。なぜなら、⾎⾁のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できないからです(Ⅰコリント 15:51)。それゆえ、朽ちるからだのままでは御国の祝福に完全に与ることができません。しかし、イェシュアは御国の祝福の初穂です。初穂であるということは、その後に多くの者たちが同じく新しいよみがえりのからだが与えられることの保証です。

●この奇跡は、やがて主にある者たちが新しいからだを与えられてメシア王国の⼀員とされることの予表的出来事です。ヘブル語で「からだ、⾁体」のことを「バーサール」(בָּשָׂר)と⾔いますが、その動詞が「バーサル」(בָּשַׂר)で「良きおとずれを告げ知らせる」という意味を持っています。このヘブル語こそが「御国の福⾳」の正確な概念を表す⼀つの証拠とも⾔えるのです。私たちのからだが新しいからだに変えられることは、「御国の福⾳」における最も重要な祝福なのです。メシア王国では盲⼈の⽬は開かれ、⽿の聞こえない者の耳は開かれます。⾜なえは⿅のようにとびはね、口のきけない者の⾆は喜び歌うようになります(イザヤ35:5〜6)。その喜びは、地の呪いが癒されて、荒野に⽔がわき出し、荒れ地に川が流れ、サフランのように花を咲かせるからです。そのような御国が来ることを確信して待ち望むことで、今⽇の主にある者たちに新しい⼒が賦与されると信じます。

ベアハリート

●今回は、イェシュアが⼗字架にかかられた後半、すなわち、正午から息を引き取られる前と後に起こった五つの奇跡に注⽬しました。マタイの強調点は、すべてのことが預言されていたようにみな成就するということです。神がひとたび語られたことは、神の方法で、神の時に必ず実現・成就するということです。そしてそれはすべて天の御国(メシア王国)と密接に関係しているのです。教会の中にはびこってしまった置換神学は、このことに目を向けさせないためのサタンの戦略です。主にある者たちは、神のご計画にある「御国の福⾳」の確かさを、聖書を通して、ますます深めていく必要があるのです。なぜなら、聖書は(創世記の1章から)、すべて神の究極の計画について記された預言書であり、神はいつの時代にも常にアハリート(終わり) に関心を向けておられるからです。聖書はこれからの書なのです。

脚注
【新改訳2017】 創世記44章13節
彼らは自分の衣を引き裂いた。そして、それぞれろばに荷を負わせ、町に引き返した。
●ここでの「彼ら」とはエジプトに行った兄たちです。ところが、彼らが「自分の衣き裂く」ことが起こったことで、父ヤコブがエジプトに行くという新たな展開が始まっていきます。このように、新たな展開が始まるところに「衣を引き裂く」ことが起っているのです。


2022.2.20
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