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十字架上のイェシュア(3)「わが神、わが神」

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21. 十字架上のイェシュア(3)「わが神、わが神、どうしてわたしを」

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【聖書箇所】
マタイの福音書27章46節、マルコの福音書15章34節

ベレーシート

  • 正午から午後三時までの三時間にわたる暗黒と沈黙の中から、イェシュアは大声で(絶叫する声で)叫んだ言葉が記されています。


(1)マタイの福音書27章46節では「エリ、エリ、レマ、サバクタニ
(2)マルコの福音書15章34節では「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ

  • 微妙に異なっていますが、いずれも「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味です。ヘブル語聖書ではいずれも詩篇22篇の冒頭の部分を引用して説明しています。詩篇はイェシュアの受難に限らず、王なるメシア、しもべなるメシアについても多くのことを預言しています。

1. このことばが意味すること

  • この祈りはマタイとマルコが記しています。このイェシュアの叫びを聞いた人々のうち、ある人たちは「この人はエリヤを呼んでいる」としきりに言っていました(未完了)。他の者たちも「私たちはエリヤが助けに来るかどうか見ることとしよう。」と言っていました。「助けに来る」とは、イェシュアを十字架から降ろして、苦難から解放することを意味します。しかしそういう彼らの言葉は、イェシュアの十字架が私たち人類の贖いのためではなく、呪い以外の何ものでもないと思っていたことを物語っています。もし、仮にエリヤが助けに来たとすれば、イェシュアはメシアではなかったということになるのです。イェシュアは苦難をなめつくされた後で、息を引き取られました。
  • 永遠において、一時もその愛のかかわりから離れたことのなかった御父と御子ですが、ここではじめて御子が御父から「見捨てられる」ということを味わわれた(経験された)のです。これは私たちにはとても理解できないことです。しかし、イェシュアが私たち人間の罪に対する裁きである死の苦しみを味わって下さったことによって、私たちが罪のさばきの苦しみを味わうことなく神に受け入れられているということは何と感謝なことでしょうか。
  • ところで、この「見捨てる」という言葉にはより深い意味が隠されています。それは、単に、人間の罪の贖いのために「見捨てられた」という消極的な面だけではなく、より積極的な面、すなわち御父が御子を「見捨てる」ということにおいて、あることが達成されるという神の秘密です。その秘密は「見捨てる」と訳されたヘブル語の「アーザヴ」(עָזַב)にあります。この動詞の初出箇所は創世記2章24節です。

    【新改訳改訂第3版】創世記2章24節
    それゆえ男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。

  • 上記のみことばを使徒パウロは結婚の教えの中で引用しています(エペソ5:31)。そして「この奥義は偉大です」(同32節)と述べています。宇宙全体に秘められた「一体」(「エハード」אֶחַד)の神秘なのです。
  • アダムとエバには両親はいません。ですから、ここでは永遠の神の道理、神の秘密が語られているように思われます。つまり、男は妻となるべき女と一体となるためには、父母を離れる必要があるのです。この「離れる」と訳された動詞が「アーザヴ」(עָזַב)で、「見捨てる、離れる、捨てる」という意味を持っています。ある者とある者が一体的関係を持つためには、それまでのかかわりを見捨てなければならないのです。ここに「見捨てる」ことの必然性があります。
  • 夫と妻、花婿と花嫁、羊飼いと羊、長兄と兄弟、頭石と建物、幹と枝といったいろいろな関係で表わされるかかわりが「一体」となるために、どうしても「見捨てる」「見捨てられる」ことが求められるという神の道理。これが、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という不可解な問いの中に隠されている真意ではないかと思います。
  • ちなみに、イェシュアは弟子たちに繰り返し(三度も)、「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ殺され、三日の後によみがえらなければならない。」と語っていました。ここでの「捨てられ」と訳されている原語は「アポドキマゾー」(ἀποδοκιμάζω)の受動態ですが、「否認する、拒絶する、排斥する、つまはじきにする、退ける」という意味を持っています。新約聖書では9回の使用で、すべて人によってイェシュアが捨てられる箇所に使われています。その場合のヘブル語は「アーザヴ」(עָזַב)ではなく、「マーアス」(מָאַס)という動詞が使われています。「捨てる、見捨てる」という意味を持つこの二つの語彙のニュアンスは微妙に異なっていますが、人から見捨てられることも、神から見捨てられることも、神のご計画においては密接に絡み合っているようです。
  • 特に、十字架上の「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という叫びは、人ではなく、神(父なる神)から見捨てられるのですが、その理由の手掛かりはヘブル人への手紙2章10節にあるように思います。そこでは「神が多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされたということは、万物の存在の目的であり、また原因でもある方として、ふさわしいことであったのです。」とあります。この「ふさわしいこと」の中にイェシュアの苦しみの必然性が隠されているように思います。ヘブル書ではその必然性を「聖とする方」(イェシュア)と「聖とされる者たち」(イェシュアを信じる者たち)が「一つ」となるためだとしています。神と人とは本来「一つ」であったのですが、罪によってそれが破れました。その「一つ」であることを回復するために「聖とする方」が神から見捨てられるという苦しみを味わわれなければならなかったのです。イェシュアの受難のすべては、神(御子)と人とが結び合って(「ダーヴァク」דָּבַק)、「一つ」「一体」(「エハッド」אֶחַד)となるためです。これが神の道理であり、神の必然なのです。

2. イェシュアはヘブル語を話されたのか

  • 私がヘブル語で聖書を読み、ヘブル的視点から聖書を解釈したいと思った時に、大きな励ましを与えてくれた一つの書籍があります。それはミルトス社から発行されている「イエスはヘブライ語を話したか」というものです。この本の帯にはこう記されています。「従来の定説を翻す」-ヘブライ語を学ばなければ本当のイエスは分からないーというかなり過激なものです。裏の帯には『イエスはアラム語で語った』との仮説は、多くの誤解をもたらしてきた。最新の研究成果によって、新約聖書を理解する鍵はヘブライ語であることが明らかになった。」と記されています。
  • 著者のディヴィッド・ビヴィン(David Bivin)氏は、その著書の序文で個人的体験を次のように述べています。

    ●私は十代の頃に聖書研究を始めた。私の出合った最大の困難は、イエスの言葉が理解できないことだった。例えば、次のような聖句がある。ルカの福音書23:31の「もし『生木』でさえもそうされるなら、『枯れ木』はどうされることであろう」、・・・
    ※「生木」とは「義人」のこと

    ●私は牧師や教師に、また神学校の教授にそのような聖書の言葉の意味を質問した。その時、得る答えは決まっていた。「君、ただ読み続けなさい。そうしたら聖書自体が教えてくれるよ。」
    真実を言えば、人が死ぬまで聖書を読み続けたとしても、聖書がそのような難解なヘブライ語的文章の意味を説き明かしてはくれないということだ。それらはヘブライ語に訳し戻したときにのみ理解できるからである。・・」

    ●旧約聖書がもともとヘブライ語で伝えられ、したがって旧約聖書を理解するにはヘブライ語を知ることが重要である。ここまでは、ほとんどのクリスチャンが分かっている。ところが、新約聖書を理解するうえでもヘブライ語がいかに重要かということは、まだ認識されていない。旧約のみならず新約聖書を含めたバイブルが一貫してヘブライ的であるということは強調されてしかるべきである。

  • 私はこのディヴィッド・ビヴィン(David Bivin)氏の言われることに励まされて、新約聖書をヘブル的視点から日々理解しようと試みています。
  • ところで、イェシュアの言葉のアラム語説を提唱する人々は、マタイの福音書、およびマルコの福音書の「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という意味の言葉がアラム語だということで、そこを有力な箇所の一つとしているようです。その箇所がどうなっているのか、原語で調べてみたいと思います。

(1) マタイの福音書

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(2) マルコの福音書

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(3) 詩篇22篇1節

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●ヘブル語で「エール」(אֵל)は神。それに第一人称語尾「私の」が付くと「エーリ―」(אֵלִי)となります。

●「ラーマ―」(לָמָה)の「ラー」(לָ)は「~のために」という前置詞、そして「マー」(מָה)は「何」を意味する疑問辞で、合わせると「何のために」「どうして」の意味になります。

●「アザヴターニー」(עֲזַבְתָּנִי)の人称語尾の「ターニー」(תָּנִי)は、「あなたは私を」の意味。「アザヴ」(עֲזַבְ)は動詞の「アーザヴ」(עָזַב)の完了形で「見捨てた」ことを意味します。

  • 詩篇22篇はすべてヘブル語で書かれていますが、マタイの場合は前半はヘブル語、後半はアラム語です。マルコの場合はすべてアラム語で書かれています。ディヴィッド・ビヴィン氏は、マルコが記しているようにイェシュアが実際にアラム語を発したかどうか疑わしいとしています。なぜなら、人々はイェシュアのことばを聞いて、イェシュアがエリヤを呼んでいると考えたからであるとしています。なぜならヘブル語の「エリ、エリ」であれば、「わが神」とも「エリヤ」とも聞き取れるとし、もしアラム語の「エロイ、エロイ」であれば、その意味は「わが神」としか取りようがなく、人々は「エリヤ」を呼んでいるとは思わないはずであるとしています。そして、マタイが「エリ、エリ」と記録している点に注意する必要があると述べて、イェシュアが語ったことばはアラム語ではなく、ヘブル語であるという説の根拠の一例としています。
  • 彼が主張するように、私も新約聖書全体はヘブル的視点からのみ真に理解できるということを受け入れ、その視点からの解釈をこれからも続けてみたいと思います。

2015.3.31


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