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千年王国(メシア的王国)の祝福(その二)

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8. 千年王国(メシア王国)の祝福(その二)

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全イスラエルの最終的帰還と「新しい契約」の成就

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  • 前回は、千年王国(メシア王国)の祝福についての一面を、イザヤ書11章を通して学びました。その祝福とは「普遍的平和」が実現するということでした。神と人のかかわりにおいて、また人と人とのかかわりにおいて、また人間と動物とのかかわりにおいて、また神の民と異邦人とのかかわりにおいて、また、神の民であるエフライム(北イスラエル)と南ユダとのかかわりにおいて、天と地におけるすべての領域において、神の平和(シャーローム שָׁלוֹם)が回復するからです。
  • 今回は、メシア王国の時代に起こるさらなる一面、つまりキリストの再臨以降に、旧約聖書で預言されていた「全イスラエルの最終的帰還の実現」と「新しい契約の成就」について学びたいと思います。前回と同じテキストであるイザヤ書の11章の後半を窓口にして、そのことを見てみたいと思います。

【新改訳改訂第3版】イザヤ書11章11~16節
11 その日、主は再び御手を伸ばし、ご自分の民の残りを買い取られる。残っている者をアッシリヤ、エジプト、パテロス、クシュ、エラム、シヌアル、ハマテ、海の島々から買い取られる。
12 主は、国々のために旗を揚げ、イスラエルの散らされた者を取り集め、ユダの追い散らされた者を地の四隅から集められる。
13 エフライムのねたみは去り、ユダに敵する者は断ち切られる。エフライムはユダをねたまず、ユダもエフライムを敵としない。
14 彼らは、西の方、ペリシテ人の肩に飛びかかり、共に東の人々をかすめ奪う。彼らはエドムとモアブにも手を伸ばし、アモン人も彼らに従う。
15 【主】はエジプトの海の入江を干上がらせ、また、その焼けつく風の中に御手を川に向かって振り動かし、それを打って、七つの水無し川とし、くつばきのままで歩けるようにする。
16 残される御民の残りの者のためにアッシリヤからの大路が備えられる。イスラエルがエジプトの国から上って来た日に、イスラエルのために備えられたように。

  • このテキストで最初に注目したいことは、11節にある「その日」ということばです。これはキリストの再臨のことを意味しています。さらに11節の「再び」という言葉です。つまり、キリストの再臨の後に、「主は再び御手を伸ばし、ご自分の民の残りを買い取られる。・・・主は、国々のために旗を揚げ、イスラエルの散らされた者を取り集め、ユダの追い散らされた者を地の四隅から集められる。」(11~12節)ということが実現するという預言です。ここの「再び」ということばの解釈は重要です。ここでの「再び」とは、神のご計画における最終的成就として、世界に離散した全イスラエルが集められる(帰還する)ことと解釈します。再びというからには、すでに一度、帰還を経験しているわけですが、その帰還については様々な解釈がありますが、ここでは、1948年のイスラエル建国を意味していると理解します。
  • どこに取り集められるのかといえば、それは「イスラエルの地に」です。1948年にイスラエルが共和国として国家的建国を果たして以来、今日、多くのユダヤ人たちがイスラエルに帰還しています。しかし、それは不信仰のままで帰還しているのです。1948年以降に少しずつではありますが、ユダヤ人の中からイェシュアがメシアであることを信じるメシアニック・ジューと言われる人たちが出現するようになりました。その数はユダヤ人たちの中ではごく少数です。しかし、なぜ、神は神の民であるユダヤ人を世界各地から集めておられるのでしょうか。しかも不信仰のままの状態です。それは、彼らをさばくためです。
  • 「さばくため」に彼らをイスラエルに帰還させているとはどういうことでしょうか。それは、彼らがイェシュアをメシアであると信じなかった不信仰に対するさばきとして、やがて反キリストによってもたらされる七年間の患難時代(特に後半の3年半の大患難時代)の試練を通して、イェシュアがメシアであることに彼らの目を開かせるためです。キリストの再臨の前に、彼らはイスラエルの地から再び「離散」を余儀なくされます。そのあたりのことをイェシュアはマタイの福音書24章15~22節で次のように話されました。

15 それゆえ、預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす憎むべき者』が、聖なる所に立つのを見たならば、(読者はよく読み取るように。)
16 そのときは、ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい
17 屋上にいる者は家の中の物を持ち出そうと下に降りてはいけません。
18 畑にいる者は着物を取りに戻ってはいけません。
19 だがその日、哀れなのは身重の女と乳飲み子を持つ女です。
20 ただ、あなたがたの逃げるのが、冬や安息日にならぬよう祈りなさい。
21 そのときには、世の初めから、今に至るまで、いまだかつてなかったような、またこれからもないような、ひどい苦難があるからです。
22 もし、その日数が少なくされなかったら、ひとりとして救われる者はないでしょう。しかし、選ばれた者のために、その日数は少なくされます。(実際には、三年半です)

  • 彼らは、逃げのびた所で、預言者ゼカリヤの預言した「後の雨」と言われる「恵みと哀願の霊」が注がれる経験をします。つまり、反キリストによる⼤患難をくぐり抜けた 1/3 のユダヤ⼈は、キリストの再臨の前に、聖霊の傾注によって、「⾃分たちが突き刺した者(イェシュア・メシア)」である主を仰ぎ⾒て、主とメシアが⼀体であったことに霊の⽬が開かれます。メシアを拒絶したことがいかに⼤罪であったかを⽰されて、尋常ではない「苦しみを伴ったひどい悲しみ」をもって激しく泣き、民族的な回心(新生)をもたらすようになります。と同時に、彼らは「主の御名によって来られる方に祝福あれ」と祈り、その後にキリストが地上再臨されます。

1. 「千年王国」の序曲としての全イスラエルの最終的な帰還

  • 今回は、キリストの地上再臨の後に、全イスラエルの民がイスラエルへ最終的に帰還することを取り上げますが、その祝福は「千年王国」における序曲にすぎません。

(1) 全イスラエルの最終的帰還の預言(イザヤ書11章11~16節を一例として)


① 中近東の諸国からの帰還(11節後半)
「残っている者をアッシリヤ、エジプト・・・から買い取られる。」
ここに上げられている国々は中近東諸国です。そこから、信仰をもったイスラエルの民が帰還します。
② 世界の果てからの帰還(12節)
「主は国々のために旗を揚げ、イスラエルの散らされた者を取り集め、ユダの散らされた者を地の四隅から集められる。」
③ イスラエル(エフライム)とユダとの間にあった敵意と妬みは消える(13~14節)
④ 最終的な帰還には神の奇蹟が伴う(15~16節)-出エジプトの時と似た紅海徒渉のような奇蹟―。

15 【主】はエジプトの海の入江を干上がらせ、また、その焼けつく風の中に御手を川に向かって振り動かし、それを打って、七つの水無し川とし、くつばきのままで歩けるようにする。
16 残される御民の残りの者のためにアッシリヤからの大路が備えられる。イスラエルがエジプトの国から上って来た日に、イスラエルのために備えられたように。

  • このようにして、「主は再び御手を伸ばし、ご自分の民の残りを買い取られる。・・・主は、国々のために旗を揚げ、イスラエルの散らされた者を取り集め、ユダの追い散らされた者を地の四隅から集められる。」(11~12節)ということが実現するのです。旧約の預言は、霊的、比喩的にではなく、字義どおりに解釈されなければなりません。
  • ちなみに、イザヤ書12章では、全イスラエルの最終的な帰還が成就した「その日」には、出エジプトの時のように、神への賛美がなされます。少し、覗いてみましょう。

    12:1 その日、あなたは言おう。
    「【主】よ。感謝します。あなたは、私を怒られたのに、あなたの怒りは去り、私を慰めてくださいました。」
    12:2 見よ。神は私の救い。私は信頼して恐れることはない。ヤハ、【主】は、私の力、私のほめ歌。私のために救いとなられた。
    12:3 あなたがたは喜びながら救いの泉から水を汲む。

  • ここにも「その日」とあります。キリストの地上再臨によって、全イスラエルが最終的に帰還した後に歌われる歌の内容が1節です。3節には「あなたがたは喜びながら救いの泉から水を汲む」とあります。これが有名な「マイム・マイム」の歌です。水を汲むという部分が省略された形で、「マイム、マイム、マイム、マイム、ウマイム・ベッサッソン」と歌いますが、その部分は「喜びをもって水を」という意味です。ここは人称なき聖霊様が語っていることばと言えます。「その日」には、喜びの爆発的な賛美がわき起こることが、旧約聖書の数多くの箇所で預言されています。3節の「救いの泉」とは、最終的に約束の地に帰還した神の民のために神が備えられた祝福が無尽蔵で、豊かに備えられていることを意味しています。

(2) 全イスラエルの最終的帰還は神の創造的みわざである(イザヤ書43章5~7節)

5 恐れるな。わたしがあなたとともにいるからだ。わたしは東から、あなたの子孫を来させ、西から、あなたを集める。
6 わたしは、北に向かって『引き渡せ』と言い、南に向かって『引き止めるな』と言う。わたしの子らを遠くから来させ、わたしの娘らを地の果てから来させよ。
7 わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、わたしがこれを創造し、これを形造り、これを造った。

  • この箇所も、全イスラエルに対する最終的な帰還の呼びかけがなされています。東から、西から、北から、そして南から、世界中からの帰還が強調されています。7節にある、以下の三つの動詞に注目しましょう。

    ①「創造した」―「バーラー」(בָּרָא) 創世記1:1, 21, 27, 27, 27/2:4(この動詞はいくつかの例外をのぞけば、ほぼ神にしか使われません。)
    ②「形造った」―「ヤーツァル」(יָצַר) 創世記2:7, 8, 19
    ③「造った」―「アーサー」(עָשָׂה) 創世記1:7, 11, 12, 16, 25, 26, 31/2:2, 2, 3, 4, 18

  • これらは、創世記1~2章に出て来る動詞です。神が天と地を創造された時の動詞がそのまま使われているのです。ということは、全イスラエルの最終的な帰還の出来事は、神の主権的な創造のみわざとしてなされることを強調しているのです。全イスラエルの最終的な帰還は、イスラエルの全歴史のクライマックスなのです
    しかも、その出来事はキリストの再臨の後に起こるということです。こうした預言は、旧約聖書の中に数限りなく語られているのです。千年王国がメシア的王国の実現であるという信仰がなければ、旧約聖書の預言は正しく理解できません。置換神学の弊害によって、今日、この神のご計画の事実に完全に目が塞がれています。

(3) 全イスラエルの最終的な帰還は「地の果てから」と「天の果てから」帰還する

  • ところで、全イスラエルの最終的な帰還は「ラッパの響き」とともに始まります。「人の子は大きなラッパ(角笛のこと)の響きとともに、御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで、四方からその選びの民を集めます」(マタイの福音書24章31節)。また、並行記事であるマルコの福音書13章27節では次のように記されています。「そのとき、人の子は、御使いたちを送り、地の果てから天の果てまで、四方からその選びの民を集めます。」
  • これらのマタイ、マルコの箇所の背景には、以下のように、申命記30章3~4節があります。

30:3 あなたの神、【主】は、あなたの繁栄を元どおりにし、あなたをあわれみ、あなたの神、【主】がそこへ散らしたすべての国々の民の中から、あなたを再び、集める。
30:4 たとい、あなたが、天の果てに追いやられていても、あなたの神、【主】は、そこからあなたを集め、そこからあなたを連れ戻す。

  • 主が、最終的にご自身の民を帰還させる場合、二つのパターンがあります(これは、アーノルド・フルクテンバウム博士の見解です)。
    ①「地の果てから帰還する」のは、信仰をもって反キリストの大患難をくぐり抜けたイスラエル人たち。
    ②「天の果てから帰還する」のは、すでに信仰をもって死に、その死から復活したイスラエル人たち。
  • ちなみに、イスラエルに最終的に帰還したイスラエル人は、千年王国においては、さらに増え広がり(エレミヤ23:3)、異邦人とのかかわりにおいては支配的な位置に着きます。申命記15:6/28:1等を参照。イスラエルの帰還に際して、異邦人がそれをサポートすることも預言されています。イザヤ書14章1~2節(特に、2節)を参照。

2.  千年王国における「新しい契約」の実現

  • 千年王国の序曲として、全イスラエルの最終的な帰還が実現します。これは神の主権的な創造的なみわざです。私たちにはなかなか理解できない、想像し得ない不可思議な出来事です。しかし、神はご自身の約束を成就されます。と同時に、神が彼らに約束された「新しい契約」も成就されます。ここでいう「新しい契約」とはエレミヤが預言したものです。この契約は千年王国において実現するのです。

【新改訳改訂第3版】エレミヤ書31章31~34節
31 見よ。その日が来る。──【主】の御告げ──その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。
32 その契約は、わたしが彼らの先祖の手を握って、エジプトの国から連れ出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破ってしまった。──【主】の御告げ──
33 彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。──【主】の御告げ──わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
34 そのようにして、人々はもはや、『【主】を知れ』と言って、おのおの互いに教えない。それは、彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ。──【主】の御告げ──わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。」

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(1) 新しい契約の特徴としての「内面性」

  • 33節に「わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書き記す」とあります。それは外からの義務や強制によるものではなく、内からの意志(自発性、主体性、自立性)によって、神の律法(トーラー/みおしえ)を守り、従おうとすることです。この内面的な意志によって、「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」ことが可能となる契約です。

(2) 新しい契約の特徴としての「個人性」

  • 34節に「人々はもはや、『主を知れ』と言って、おのおの互いに教えない。それは、彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ。」とあるように、身分の上下や貧富などによって差別されることなく、ひとりひとりが平等に、しかも、直接的に主と向き合うようになるのです。

(3) 新しい契約の特徴としての「完全な赦罪」 

  • 34節の後半には「わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さない。」とあります。完全な赦罪(しゃざい)があるということです。これは本来、シナイ契約においては絶対にあり得ないことなのです。律法なしの契約(ペナルティなしの契約)というものはありません。千年王国には、イェシュアが山上の説教で教えられたような「御国の律法」があります。その律法は良いものであり、正しいものですが、問題はそれを守り切れないという人間側の矛盾性にあります。使徒パウロはそのことで悩みました。ローマ書7章にはこの矛盾と葛藤の悩みが記されています。
  • 「新しい契約」においては、エレミヤはその方向性だけを指し示しています。その契約を成立させる仲介者もその方法についても不透明ですが、新約に生きる私たちには、それが神の子イェシュアによって締結されたことをすでに知っています。しかし、イスラエルの家とユダの家とに対してその「新しい契約」が完全に結ばれるのはこれからのことです。しかし、「見よ。そのような日々が(必ず)来る」のです。
  • 同様の内容が、エゼキエル書11章19~20節にも預言されています。

    【新改訳改訂第3版】エゼキエル書11章19~20節
    19 わたしは彼らに一つの心を与える。すなわち、わたしはあなたがたのうちに新しい霊を与える。わたしは彼らのからだから石の心を取り除き、彼らに肉の心を与える。
    20 それは、彼らがわたしのおきてに従って歩み、わたしの定めを守り行うためである。こうして、彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。

  • 「新しい霊を与えられた一つの心」、それは「石の心」に代わる「肉の心」で、主に対する柔らかな心、主を愛する従順な心を意味します。しかしその心は神の創造によってのみ造られます。この約束は実に重要で、エゼキエル書36章24~27節でも再度ふれています。そこでも、主は、再び、主の名が汚されることのないように特別な恩寵を与えます。それが「新しい心と新しい霊を授ける」という約束です。それは同義的な表現として、彼らの「石の心(頑なな心)を取り除き」、彼らに「肉の心(柔らかな心)を与える」と言い換えられています。このことによって、イスラエルの全家は主のおきてに従って歩み、主の定めを守り、行うことが実現するのです。

ベアハリート

  • イスラエルの全家の内的・霊的回復はまさに御父の不変のご計画です。心躍る驚くべきみわざです。そして現代、それがどのように進んでいるかに目を配ることは重要なことです。それは異邦人のキリスト者においても密接なかかわりがあるからです。特に、ヘブル語の奇蹟的な復興によって、ユダヤ的・ヘブル的視点からの聖書の解釈の見直しがなされています。これは次世代の課題と言えますが、すでにその影響を多分に受ける時代を迎えています。
  • キリスト教会においてユダヤ的・ヘブル的ルーツが断ち切られた「置換神学」と、18, 19世紀の伝道至上主義による「個人的な救い」の強調によって、初代教会が伝えた「福音理解」、また「神の国」についての理解はかなりゆがめられたものとなってしまいました。いや、そのことさえ気づかずにいるクリスチャンが多いのです。しかし「終わりの日」が近づくにつれて、主は、ユダヤ人のみならず、異邦人の上にも「新しい心と新しい霊」を注いで、本来のあるべきところへと私たちを導こうとしておられると信じます。
  • 私たちがメシアであるイェシュアによって完結するイスラエルの物語を、また、預言者を通して語られた神の約束をあるがままに理解するならば、これまで覆い隠されていたイェシュアの語ったことばがより深く理解でき、これまでの理解の型紙に当てはまらない真理を、驚きをもって悟るようになると信じます。このことは、これからの時代において、ますます速度を増しながら起こってくるものと信じます。それゆえ、ウキウキ・ドキドキ・ワクワクしながら、日々、みことばが開かれて、「主の御顔を仰ぎ見る」喜びを求めて歩みたいと思います。

2014.1.5


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