****** 教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

千年王国(メシア的王国)の祝福(その五)

文字サイズ:

11. 千年王国(メシア王国)の祝福(その五)

シオンからみおしえが出、エルサレムから主のことばが出る

画像の説明

ベレーシート

  • これまで「千年王国」の祝福(1)~(4)で取り上げたテーマは以下の内容でした。
    (1) 天と地におけるすべての領域における「普遍的平和」、神の平和(シャーローム שָׁלוֹם)が回復する。
    (2)「全イスラエルの最終的帰還の実現」と「新しい契約」が成就する。
    (3) ダビデ契約の成就としての王なるメシアが全世界を統治する。
    (4) そのとき、エルサレムが全世界の中心となる。
  • そして今回の「千年王国」(メシア王国)の祝福の第五回目は、「エルサレム(シオン)から出る主のみおしえ」の特質についてフォーカスしたいと思います。

【テキスト】イザヤ書2章2~3節、5節 

2 終わりの日に、【主】の家の山は、山々の頂に堅く立ち、丘々よりもそびえ立ち、すべての国々がそこに流れて来る。
3 多くの民が来て言う。「さあ、【主】の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を、私たちに教えてくださる
私たちはその小道を歩もう。」それは、シオンからみおしえが出、エルサレムから【主】のことばが出るからだ
・・・ 5 来たれ。ヤコブの家よ。私たちも主の光に歩もう。


1. 主のみおしえを喜びとして歩むという祝福

  • これまで何度も取り上げているイザヤ書2章ですが、千年王国では、「すべての国々」の民が主の家の山であるエルサレム(シオン)に上ってきます。なぜなら、そこに王であるメシアがいるからです。千年王国においては、メシアは諸国の民の光なのです。御国の民は、王なるメシアを礼拝するために、喜びをもって主の山に流れて来るのです。「すべての国々がそこに流れてくる」とは、大河の流れのように群れをなしてやって来るという意味です。すべての国々がひとつの所に流れて来るという概念は、まさに雄大であり、かつ崇高です。このようなことはこれまでの歴史の中にはなかったことです。
  • 「すべての国々がそこに流れてくる」のは、ひとえに、「主はご自分の道を、教えてくださる」からです。3節後半には「シオンからみおしえが出、エルサレムから【主】のことばが出るからだ」とあります。民は主の「みおしえ」(「トーラー」)を聞き、そしてそのおしえに歩むために、喜びをもって集まって来るのです。
  • 詩篇119篇105節に、「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。」とあるように、イザヤ書2章3節にある「主の小道」と、5節の「主の」は、「主のみおしえ、主のみことば」を意味しています。メシア王国では、全世界の民が、主の教えを喜びとし、主のみおしえを聞いて、そのみおしえに従って歩むのです。これが千年王国における王と民のかかわりです。
  • 御国の民は、詩篇1篇にあるように、【主】のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ民であり、その祝福は、水路のそばに植わった木のように、多くの実をもたらします。「あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶ」ことでしょう(マタイ13:23)。また、御国の民は御霊の実(愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制)を結ぶでしょう(ガラテヤ5:22~23)。また、御国の民は、「いつも喜び、絶えず祈り(主と親しい交わりを持つということ)、すべてのことについて感謝する」という祝福にあずかることになるでしょう(Ⅰテサロニケ5:16~18)。主のみおしえに自ら従順に歩むことで、何をしても栄えるということが実現するのです。
  • 千年王国ではサタンが幽閉されているために、すでに朽ちないからだを与えられている者たちだけでなく、そうでない者たちも、罪と死から守られるようになります(完璧ではありませんが)。それだけではなく、エレミヤ書31章で預言されているように、「新しい契約」による「新しい心と新しい霊」が与えられて、ひとりひとりの心の中に神の律法(みおしえ)が書き記されます。つまり、すべてが主の御霊の支配の中に置かれるために、人々はもはや「主を知れ」と言って、おのおの互いに教えることがなくなります。それはみな、直接的に、主を知るようになるからです(エレミヤ31:34)。千年王国に普遍的平和が実現することを預言しているイザヤ書11章9節後半にも、「主を知ることが、海をおおう水のように、地を満たすからです。」とあります。このように、千年王国ではみことばの教師がいなくなります。だれかから教えてもらう必要がないほどに、一人ひとりが主を知るようになるからです。そのことを民の視点から述べているのがイザヤ書2章3節の「シオンからみおしえが出、エルサレムから【主】のことばが出るからだ。」というみことばの意味ではないかと考えられます。全地を統治される王なるメシアのみおしえが、千年王国においては常にエルサレムから流れ出て行くのは、祝福の発信源がそこにあるからです。これはまさに初代教会がエルサレムから始まったこと、福音がエルサレムから全世界に宣べ伝えられて行ったことと非常によく似ています。
  • 御国の民たちが全世界から大河のように一つとなってエルサレムに臨在するメシアのところに流れて来て、そのメシアのみおしえがエルサレムから再び全世界の諸国にさまざまな流れとなって流れていく統治形態です。これはエゼキエルの神殿の敷居の下から流れ出るいのちの水の川のヴィジョン、すなわち、「この川が流れて行く所はどこででも、・・・すべてのものが生きる。」(エゼキエル47:1~12参照)とも連動しています。

2. 千年王国における王のみおしえの特質とはー (山上の説教に啓示されている)

  • ところで、千年王国における王なるメシアのみおしえ(トーラー)とはいったいどういう内容のものなのでしょうか。どのような特質をもっているのでしょうか。具体的なことは、その時になってみないと誰にも分からないことですが、千年王国における「御国の律法」は、「モーセの律法」のような条件的な律法、つまり、「~~を守らなければ、~~なる」的なものではなく、あくまでも、御国の民の歩むべき祝福の指針が語られるのではないかと推測します。
  • それはすでに二千年前にイェシュアが来られた時(初臨)に語られているのです。いわば、すでに「みおしえ」のリハーサルはなされているのです。イェシュアはそこで「天の御国は近づいた」と宣言するだけでなく、天の御国の民がどのような歩みをすべきかを明らかにしておられます。それが「山上の説教」と言われるものです。イェシュアがこの「山上の説教」の中で語っていることは、天の御国の民の祝福がいかなるものであるか、また、神の律法の真意とは何かを語ったうえで、御国の民の「義」が、当時の律法学者たちやバリサイ人たちの義にまさるものでなければならないとしています。それは私たちの目からするならば、かなり高レベルの「義」です。しかしその「義」は、人の力で得るものではなく、イェシュアを信じることによって神から与えられる「義」であることを前提として語られているのです。決して、私たちの人間的な努力によって勝ち取られるような「義」ではありません。ここでいう「義」とは、神と人との正しいかかわりを意味しています。それが「救い」という意味にもつながっていきます。
  • ところで、「山上の説教」は今から二千年前にイェシュアが「山」に登って、そこで弟子たちに語られたものです。しかし、千年王国では、地殻変動で高くなったエルサレムの「山」の神殿の王座に王なるイェシュアがおり、そこに御国の民は上って行って王なるメシアを礼拝し、その方のみおしえを聞くようになります。「山」の上でということだけでも、両者に必然的なつながりを感じさせられます。
御国の要素.JPG
  • 御国は「王国」ですから、そこには「王」がいて「民」がいます。そしてその民が烏合の衆とならないために、王の支配(統治)における基本的な取り決めとしての「憲章」(法)が存在します。天の御国(王国)の憲章(法)の特質は、御国の民の祝福にかかわるものであり、御国の民としての特権が保障されているものです。
  • その「憲章」に基づく主のみおしえの中身については、実は、イェシュアがすでに語っておられるのです。マタイはそのみおしえを「山上の説教」(マタイ5~7章)としてまとめています。そこに目を留めたいと思います。「山上の説教」は、私たちが御国にどうすれば入れるかという話ではなく、天の御国が実現した時に受けるであろう祝福と特権がいかなるものであるかが示されています。もし、今日の私たちが「山上の説教」を完全に実行しようとするならば、使徒パウロのように、「私は、ほんとうにみじめな人間です。」(ローマ7:24)と告白せざるを得ないでしょう。しかしメシア王国(千年王国)では、「肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされる」ことが可能なのです。自分の力ではなく、御霊によって、人が神の要求に、神の基準に応えることのできる状況になるのです。そのような視点から、マタイの福音書の5章3節からはじまる各節の冒頭のイェシュアの祝福の宣言―「幸いなことだ、幸いだ、祝福されている」を意味する形容詞の「マカリオス」の複数形「マカリオイ」μακάριοι)で始まる八つの幸いについて、なにゆえに「幸い」なのかを見ていきたいと思います。

画像の説明

●「八つの祝福」の最初と最後は現在形で記されており、「彼らのものであり続ける」「すでに、今も」というニュアンスです。英語では、Already, but not yet (すでに、 しかしいまだ)と表現します。つまり、「幸いな人々」が天の御国の祝福をすでに享受していると同時に、未だ完全には享受しておらず、それが未来においてはそれが確実なことであるとして期待させていることを表わしています。未来とは、メシア王国の完成の時(千年王国)のことです。以下、簡単に、千年王国(御国の完成)において、御国の民が受けることになる祝福について見てみましょう。

(1) 「心の貧しい人々」(「プトーコス」πτωχοςの複数)
――「天の御国は彼らのものだから」

「心の」というのは、「霊的に」という意味で「たましいの砕かれた者」の意味。つまり、自分には神に誇れることが何一つないことを自覚して、天に向かって助けを呼び求めている者のことです(例、ルカ18:13~14「取税人の祈り」)。そのような者がなぜ幸いなのかと言えば、その理由は「天の御国はその人のものだからだ」ということです。

ここが現在形になっているのは、イエスの来臨(初臨)とともに「天の御国」がすでに始まっているからです。心の貧しい者は、この地上において、すでに天の御国のすばらしさを経験することができるということです。


(2)「悲しむ人々」(「ペンセオー」πενθέωの分詞の複数)
――「彼らは慰められるから」

「心の貧しい人々」がすでに天の御国の祝福を味わうことができたとしても、「悲しんでいる人々」が「慰められる」のは将来のことだとしています。ここの「悲しみ」とは「心の貧しさ」の感情的な部分が強調されたもので、愛する者を慕って「狂うばかりに嘆き叫ぶ、悲嘆にくれる」といった強い感情を表わす言葉です。ではどのようなことに対して悲しんでいる人々のことなのでしょうか。

ここでいう悲しみは、人生における一般的な悲しみではありません。「御国」の視点から、あるいは、神とのかかわりにおいて理解する必要があります。イェシュア自身がこの世で経験した悲しみに注目してみましょう。イェシュアが悲しみのあまり、「涙を流された」という場面が、福音書の中に二回だけ記されています。ひとつは、イェシュアが都エルサレムのために流された涙です。もうひとつは、ラザロが死んだことで周囲の関係者が泣いているのを見て流された涙です(ヨハネ11:35)。

前者のイェシュアの涙は、やがてエルサレムが完全に破壊されることを知った上での涙でした。エルサレムの人々が悔い改めようとせず、メシアである自分を受け入れないことが、エルサレムにどういう事態を引き起こすかを知っていたからです。そのことをイェシュアは悲しみ、涙を流されました。しかし、将来、イェシュアが王として再臨される時には、このエルサレムは完全に回復することが定まっています。エルサレムは全世界の中心地となり、全イスラエルのみならず、諸国の民がこの町に向かって上って来るようになるのです。その時が来て、はじめて「慰められる」のです。

一方、後者のイェシュアの涙は、イェシュアのことばを信じないことに対する、いわば、霊的な憤りを伴った涙でした。イェシュアの「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。このことを信じますか。」ということばに対する不信仰のゆえに流された涙でした。死の力に対する悲しみの涙ではありません。みことばに対する不信への悲しみの涙です。詩篇119篇の作者もこう記しています。「私の目から涙が川のように流れます。彼らがあなたのみおしえを守らないからです。」(136節)と悲しみの涙を流しているのです。しかしこのように「悲しむ者」は、やがてメシアが再臨されるときに、必ず、「慰められる」のです。なぜなら、その時に人々は王なるメシアのみおしえに対する絶対的な信頼を持つようになるからです。

それにしても、私たちの思い描く「慰め」と、イェシュアが言うところの「慰め」とは、なんと次元が異なることでしょうか。主と主のみことばへの信頼こそ御国の民のあるべき姿なのです。そのあるべき姿が実現するのがメシア王国の完成の時です。つまり、千年王国(御国の完成)の時です。


(3)「柔和な人々」(「プラウス」πραύςの複数)
――「彼らは地を相続するから」

「柔和」ということばの原意は、当然の権利を有する者がそれを主張することができるにもかかわらず、神に対しても、人に対しても、一切弁解しないという、いわば毅然とした強い態度を意味することばです。日本語の「柔和」というニュアンスとはかなり異なります。

「柔和な人」とは、悪者に対して腹を立てたり、ねたみを起こしたりしません。主を信頼して善を行ない、誠実を養う人です。旧約での代表人物はモーセでした。彼は、最も信頼する人から非難されたことがありましたが、一切弁解しませんでした。イェシュアも自分のことを「心優しく(柔和)」と言っています(マタイ11:29)。「柔和な人」は「地を相続する、地を受け継ぐ」と約束されています。たとえ、地上的な所有物に欠けている者であっても、将来の報いとして、必ず、地を相続し、所有するという約束です。


(4)「義に飢え渇いている人々」(飢える「ペイナオー」πεινάωの分詞複数)
――「彼らは満ち足りるから」

ここにある「義」は「救い」と同義です。ここでいう「義」とは、正しい行いをして神に受け入れられようとする「義」ではなく、神が人のために備えられる「義」のことです。その「義」を熱心に求める人々について語っています。「義に飢え渇く」とは、もしそれが得られなければすべてを失ってしまうほどの危機意識を伴った追求心を表わす言葉です。そうした「義」(救い)を熱心に求める者たちに対して、イェシュアは必ず「満ち足りる」ことを約束されたのです。動物も人間もたらふく食べて満腹している姿にたとえられます。


(5) 「あわれみ深い人々」(「エレエーモーン」έλεημωνの複数)
――「彼らはあわれみを受けるから」

聖書のいう「あわれみ」とは、「同情+具体的な行動」です。「行動に表わされる愛」とも表現されます。これは神の本性の一つであり、千年王国では、こうした神の本性が人と人の間に実現します。自分の必要が主から満たされた者が他の人にも豊かに向けられるのです。こうした循環を通して、自分も他者から必ずあわれみを受けるようになることが約束されているのです。


(6)「心のきよい人々」(「カサロス」καθαρός の複数)
――「彼らは神を見るから」

ギリシア語の「心」を意味する「カルディア」は、理性、感情、意志を宿した部分で、ことばや行動を生み出していく根源ともいえます。しかし、預言者のエレミヤは、「人の心は何よりも陰険で」(17:9)と語っています。それゆえ、神を尋ね求めたダビデは、「神よ。私にきよい心を造ってください」と祈っています(詩篇51:10)。このダビデのように「心のきよさ」を、混じりけのない、純粋な心を求める者は、必ず、「神を見る」と約束しています。このことも御国の完成するときに実現します。視点を変えるならば、御国においては「神を見る」ことができるように、神が人の心を純粋にしてくださるということでもあります。


(7) 「平和をつくる人々」(「エイレーノポイオス」είρηνοποιόςの複数)
――「彼らは神の子と呼ばれるから」

「平和」とは、すべての被造物が創造者とのかかわりにおいて、それぞれふさわしい位置に置かれることで実現する祝福の総称です。したがって、「平和をつくる」とはそのための具体的な努力をすることを意味します。神との平和を与えられた者は、単に、人と争うことをしないだけでなく、神とのかかわりを妨げるものを排除し、面倒なことや困難なこと、不愉快なことや不人気なことにも、そのことに取り組むことを意味します。

そのような者が「神の子と呼ばれる」というのはどういうことでしょう。すでに神の子とされているがゆえに御国の民とされているにもかかわらず、ここで改めて「神の子と呼ばれる」というのは、神の性質を身につけて、神に似た行動をとっていくことで、「立場としての神の子と呼ばれる」ではなく、まさに「実質としての神の子と呼ばれる」ことが実現することを約束しています。


(8)「義のために迫害されている人々」(「ディオーコー」διώκωの分詞複数)
「天の御国は彼らのものだから」

「義のために迫害されている」の「義」とは、このあとに来る節で「わたしのために、ののしられたり、迫害されたり」とあるので、イェシユアと「義」は同義と考えられます。イェシュアを信頼することで迫害を受けたとしても、何も失うことがない。むしろ、約束されているのは第一の祝福と同様に、「天の御国は彼らのもの」だということです。

最後まで、主を信頼することの尊さをイェシュアは呼びかけているのです。それは御子イェシュアが御父からこの世に遣わされた目的でもありました。恥辱の極みである十字架を忍び、最後まで御父に対する信頼を貫き通した御子イェシュア。その信頼が御父に受け止められ、死からよみがえらされて、昇天し、父の右の座に着座されたのです。ヘブル書の著者は、そうした「信仰の創始者であり、完成者であるイェシュア」から目を離さないでいるようにと勧めています。なぜなら、その者は天の御国のすべてを得る者となるからです。


まとめ

  • これまで、イェシュアの語られた山上の説教から、その冒頭の部分の「八つの幸い」について見てきました。そこで語られていたことは、旧約で約束されていたメシア的王国の到来が近づいたということだけでなく、その王国が実現するときに、その王国の民たちにいかなる祝福が臨むかを語っています。ここで語られていることは、単なる、夢のような、ユートピア的な、理想的な世界でしょうか。そうではありません。必ず「なる」、必ず「起こる」神の支配です。そこに歴史は向かっているのです。メシア・イェシュアの再臨によって実現する神の国です。もし、イェシュアの語る御国のみおしえを信じることが出来ないとするならば、かつてイェシュアがエルサレムの滅びを知って涙を流されたように、再び、悲しみの涙を流されることでしょう。


2014.2.16


a:2836 t:3 y:1

powered by Quick Homepage Maker 5.2
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional