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収穫の働き手のために祈りなさい

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37. 収穫の働き手のために祈りなさい

【聖書箇所】マタイの福音書9章35~38節

【新改訳2017】マタイの福音書9章35~38節
35 それからイエスは、すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいを癒やされた。
36 また、群衆を見て深くあわれまれた。彼らが羊飼いのいない羊の群れのように、弱り果てて倒れていたからである。
37 そこでイエスは弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。
38 だから、収穫の主に、ご自分の収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。」


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  • マタイの福音書9章35節から38節は、奇蹟を通してイェシュアがメシアであることをあかしする8~9章の結論であり、およびマタイの第二の説教である10章の序説でもあります。しかも第二の説教は、イェシュアの弟子たちがいかにして「御国の福音」の宣教の使命を果たしていくかが教えられています。
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  • 9章35節は4章23節の内容が繰り返されていますが、異なる点は、9章35節では「すべての町や村を巡って」という所が4章23節では「ガリラヤ全域を巡って」となっているだけです。イェシュアは「辺境の地」であるガリラヤから宣教を開始され、その公生涯の約三年余りをかけてガリラヤ全土にあるすべての町や村を巡られていますから、9章35節の時点では「巡る」という動詞は未完了形になっています。なぜエルサレムではなくガリラヤなのかと言えば、それはイェシュアがイスラエルの家の滅びた羊のところに行って、御国の福音を宣べ伝えるというのが神の戦略であったからです。

1. 「巡って」という表現

  • テキスト35節にある「イエスがすべての町や村を巡って」という表現に注目したいと思います。「巡って」と訳されたギリシア語は「ペリアゴー」(περιάγω)の未完了形で「巡り歩いていた」という意味です。ちなみに新共同訳は「残らず回って」と訳しています。ヘブル語では「サーヴァヴ」(סָבַב)という動詞が使われています。それは一つの源泉から流れ出るいのちの水が、あるひとつの地域を巡り、そこを隈なく水が流れていることを意味する語彙です。同様に、イェシュアも神から遣わされて、ガリラヤ地方の全土を神のいのちで潤して、そこをエデンの園のように回復しようとするイメージが伝わってきます。「サーヴァヴ」(סָבַב)という動詞の初出箇所は創世記2章11節です。

【新改訳2017】創世記2章10~11節    
10 一つの川がエデンから湧き出て、園を潤していた。それは園から分かれて、四つの源流となっていた。
11 第一のものの名はピション。それはハビラの全土を巡って流れていた。そこには金があった。

  • 「一つの川がエデンから湧き出て、園を潤していた」ように、イェシュアはガリラヤ全土に神のいのちの潤しをもたらすための働きをされました。その働きは三つの動詞(実際は分詞)で表されています。ひとつは「教え」、次に「宣べ伝え」、そして「癒された」とあります。しかしこれはイェシュアが「御国の福音を宣べ伝えるために」、会堂(シナゴーグ)で教え、あらゆる病とあらゆるわざわいを癒やされたと理解した方が良いと思います。つまり、言葉による教えとわざによる奇蹟の癒しによって御国が近づいたことを宣べ伝えているのです。旧約の預言者たちが預言した「御国の福音」がいかなるものであるかを、「教え」と「癒やし」をもってイェシュアは宣べ伝えようとしたのです。ちなみに、「福音」(「べソーラー」בְּשׂוֹרָה)と「宣べ伝える」(「バーサル」בָּשַׂר)の語幹は同じです。御国(王による支配・統治)の良きおとずれを宣べ伝えるために、イェシュアはガララヤ全土を残らず回られ、「教え」「癒やされた」のでした。
  • マタイ8~9章にはイュシュアがガリラヤ地方で行われた10の奇蹟が記されていますが、それはイェシュアがメシアであることのしるし(証拠)の代表的なものにすぎません。文字通り、イェシュアはすべてのとすべてのわずらいをいやされたのです。ところで、「」と「わずらい」とはどう違うのでしょうか。「病」のことをギリシア語は「ノソス」(νόσος)、ヘブル語では「マハラー」(מַחֲלָה)」です。「わずらい」のギリシア語は「マラキア」(μαλακία)、ヘブル語では「マドゥヴェー」(מַדְוֶה)です。この「わずらい」を悪疫(悪性の伝染病)とする見方もあります。山岸訳は「障害」と訳しています。いずれも単数で使われています。ちなみに、「すべての町や村を巡って」の「すべて」「町」や「村」が複数形なのに対して、「あらゆる病気、あらゆるわずらいを癒やされた」の「あらゆる」「病気」「わざわい」が単数形なのは、イェシュアがガリラヤの村や町を残らず回り巡りながらも、一人ひとりの病とわずらいに対しては丁寧に対応したことが伝わってきます。
  • ただし、「わずらい」という語彙について、マタイ8章17節では別の言葉が「わずらい」と訳されています。そこはイザヤ書53章4節の預言が引用されています。

【新改訳2017】マタイの福音書 8章17 節
これは、預言者イザヤを通して語られたことが成就するためであった。「彼は私たちのわずらいを担い、私たちの病を負った。」

  • ここの「わずらい」は「マラキア」(μαλακία)ではなく、「アスセネイア」(ἀσθένεια)の複数形が使われています。そのヘブル語は「ホリー」(חֳלִי)です。この「わずらい」はマタイの福音書では8章17節のみですが、医者であったルカはその福音書の5章15節、8章2節、13章11, 12節で4回使っています。特に13章11,12節は「18年も病の霊につかれ、腰が曲がって、全然伸ばすことができない女」にこの語彙が使われています。ヨハネは5章5節の「38年もの間、病気にかかっている人」に、この「アスセネイア」(ἀσθένεια)を使っています。これは重篤な病、特に弱さを抱えた人のことを表わしているように思います。特に使徒パウロはこの語彙を人間の「弱さ」という意味において使っています。
  • とはいえ、「病」と「わずらい」という語彙の正確な意味を知ることがここで重要なのではありません。ヘブル語では、しばしば同義的パラレリズムとして表現されるため、むしろここでは人間のありとあらゆる病、重篤な障害、そして人間の持つ弱さとして理解することが大切です。特にイザヤ書53章4節は、イェシュアが人類の罪を背負って死なれるという贖い(身代わり)の奥義を預言した重要な聖句です。ある人々はこのみことばを根拠にして、今日でも信仰があれば、すべての病が癒やされると主張します。だからと言ってイェシュアのもとに連れて来られる病人がすべて癒されるわけではありません。癒しは神の主権のもとに置かれています、しかしメシアが支配するメシア王国(千年王国)では、新しいからだを与えられた者たちのすべての病とわずらいはすべて癒される世界となります。今日、多くの人が病やわずらいで悩んでいます。新聞やインターネットでも、この種の悩みに関する情報が溢れています。どんな田舎でも常に人が集まる場所は病院ではないでしょうか。イェシュアの働きの中で癒しが重要であったのは、イェシュアの力を超えるような「病」や「わずらい」は存在しないという事実をデモンストレーションするためであったと考えられます。これは御国の福音の一側面です。

2. 群衆を見て「深くあわれまれた」イェシュア

【新改訳2017】マタイの福音書9章36節
また、群衆を見て深くあわれまれた。彼らが羊飼いのいない羊の群れのように、弱り果てて倒れていたからである。

  • 36節を見ると、イェシュアは、「羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている」群衆をご覧になられました。「羊飼いのない羊のたとえ」は、以下のように、旧約聖書にしばしば登場しています。

(1) 民数記27章16~17節【新改訳2017】
16 「すべての肉なるものの霊をつかさどる神、【主】よ。一人の人を会衆の上に定め、
17 彼が、彼らに先立って出て行き、先立って入り、また彼らを導き出し、導き入れるようにしてください。
【主】の会衆を、羊飼いのいない羊の群れのようにしないでください。

(2) Ⅰ列王記22章17節(=Ⅱ歴代誌18:16)【新改訳2017】
17 彼は答えた。「私は全イスラエルが山々に散らされているのを見た。まるで、羊飼いのいない羊の群れのように。そのとき【主】はこう言われた。『彼らには主人がいない。彼らをそれぞれ自分の家に無事に帰らせよ。』」

(3) ゼカリヤ10章2節【新改訳2017】
2 テラフィムは不法を語り、占い師は偽りを見る。夢見る者は意味のないことを語り、空しい慰めを与える。それゆえ、人々は羊のようにさまよい、羊飼いがいないので苦しむ

(4) エゼキエル34章1~6節【新改訳2017】
1 次のような【主】のことばが私にあった。
2 「人の子よ、イスラエルの牧者たちに向かって預言せよ。預言して、牧者である彼らに言え。『【神】である主はこう
言われる。わざわいだ。自分を養っているイスラエルの牧者たち。牧者が養わなければならないのは羊ではないか。
3 あなたがたは脂肪を食べ、羊の毛を身にまとい、肥えた羊を屠るが、羊は養わない。
4 弱った羊を強めず、病気のものを癒やさず、傷ついたものを介抱せず、追いやられたものを連れ戻さず、失われた
ものを捜さず、かえって力ずくで、しかも過酷な仕方で彼らを支配した。
5 彼らは牧者がいないので散らされ、あらゆる野の獣の餌食となった。こうして彼らは散らされた
6 わたしの羊はすべての山々、すべての高い丘をさまよった。''わたしの羊は地の全面に散らされ、尋ね求める者も
なく、捜す者もない''。

  • 特にエゼキエルの預言は重要です。イスラエルの回復のためには真の牧者が不可欠です。1~6節は「イスラエルの牧者たち」、つまり、指導者たちに羊(神の民)に対する責任を託したにもかかわらず、自分たちの利益を優先してその責任を果さなかったことが非難されています。それゆえ、イスラエルの民は近隣諸国の民の餌食となり、敵の攻撃の結果、地の全面に散らされてしまったのでした。そこで、主なる神はイスラエルの民を再び集めるために、主ご自身が牧者となることを預言したのがこの34章です。
  • イェシュアはガリラヤに住む群衆を見て、「羊飼いのいない羊の群れのように、弱り果てて倒れている」のをご覧になられました。「弱り果てて」とは「迷い出る、追い散らされる」(「ナーダハ」נָדַח)という意味であり、「倒れていた」は「衰え果てる」(「アーラフ」עָלַף)という意味で、いずれも悲惨な状態を描写しています。動物の中で羊ほど傷つきやすく、迷いやすいものはいません。羊は飼い主なくして一日といえども生きてはいけません。そのような状態にある民衆に対して、イェシュアは深いあわれみを示されたのが今回の第二のポイントです。
  • 深くあわれまれた」(新改訳2017、新改訳改定第三版までは「かわいそうに思われた」)と訳されたギリシア語の「スプラクニゾマイ」(σπλαγχνίζομαι) は、本来のギリシア語には存在しないことばで、「シナゴーグのギリシア語」と言われるものです。つまりユダヤ人のシナゴーグでしか使われない語彙という意味です。この語彙は共観福音書のみに12回使われていますが、うちマタイは5回(9:36, 14:14, 15:32, 18:27, 20:34)、マルコは4回(1:41, 6:34, 8;2, 9:22)、ルカ(7:13, 10:33, 15:20)は3回です。一度は自分の聖書で確認されると良いでしょう。すべてイェシュア、あるいは御父の心情を表わす語彙として用いられています。それは神の行為の動機をあらわすことばであるゆえに、単なる同情ではなく、そのあとに必ずや何らかの神の行動が誘発されています。このヘブル語は「ラーハム」(רָחַם)で、神の深いふところにある思いと密接なつながりをもっています。
  • 預言者エレミヤはこの動詞を31章20節で次のように使っています。

【新改訳2017】
エフライムは、わたしの大切な子、喜びの子なのか。わたしは彼を責めるたびに、ますます彼のことを思い起こすようになる。それゆえ、わたしのはらわたは彼のためにわななき(「ハーマー」הָמָה)、わたしは彼をあわれま(「ラーハム」רָחַם)ずにはいられない。

  • わななき(「ハーマー」הָמָה)とあわれま(「ラーハム」רָחַם)れずにはいられないは、同義的ハラレリズムです。日本の神学者、北森嘉蔵師はこの「ハーマー」(הָמָה)ということばにこだわり、調べていくうちに神の福音の真髄に触れるものだと気づき、「神の痛みの神学」を樹立させました。彼はこう述べています。「エレミヤ記31章20節の中に一つの異常な言葉を見出して以来、私は昼も夜もこの言葉を考えつづけてきた。それは私にとっては文字通り異常な言葉であった。その後、この言葉がイザヤ書63章15節と関係をもつことを知るや、私はこの言葉の担う秘義にいよいよ深き驚きをもつに至った。」(北森嘉蔵著『神の痛みの神学』、233頁、講談社、1972)と語っています。つまり、神の「あわれみ」は、神のはらわたの痛みを伴う愛であることに気づかされたというわけです。神の愛を知った者がそれを裏切る、にもかかわらず、その者とどこまでも愛のかかわりを持とうとすることは、当然、痛みを伴います。その神の痛みはやがてイエス・キリストの十字架において究極的な形で現わされました。まさに腸が痛むほどにかわいそうに思うという「神の痛みに裏付けられた神の愛(あわれみ)」、それが「ラーハム」(רָחַם)に含まれている意味なのです。
  • と同時に、神の「あわれみ」の概念をより深く理解するために、「ラーハム」の名詞である「ラハミーム」(רַחֲמִים)も見てみたいと思います。初出箇所は創世記43章14節です。

【新改訳2017】創世記43章14節
「全能の神が、その方の前でおまえたちをあわれんでくださるように。そして、もう一人の兄弟とベニヤミンをおまえたちに渡してくださるように。私も、息子を失うときには失うのだ。」

  • この箇所はアブラハムの子イサクの子ヤコブ(=イスラエル)が、自分の息子たちを再度エジプトに遣わす際に語ったところです。すでに息子の一人シメオンはエジプトで人質となっていました。さらにエジプトの宰相であるヨセフは末息子のベニヤミンを連れて来るようにと要求していました。そこでヤコブは、全能の神がエジプトの宰相の「あわれみ」によって(名詞は複数形で「ラハミーム」רַחֲמִיםで表されます。)、「もうひとりの兄弟」であるシメオンと、そしてベニヤミンが無事に帰って来られるようにと祈っているのです。このように「あわれみ」(ラハミーム)とは「失われた者が再び帰って来る」という意味があるのです。つまり、神の「あわれみ」は神の深い心を表わすだけなく、「御国の福音」である「イスラエルの回復」を指し示す言葉でもあるのです。

3. 収穫は多い、しかし働き手が少ない

  • 今日のテキストにある三つ目のポイントに行きましょう。

【新改訳2017】マタイの福音書9章37~38節
37 そこでイエスは弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。
38 だから、収穫の主に、ご自分の収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。」

  • 37節と38節に「収穫」という言葉が3回も出てきます。ギリシア語は「セリスモス」(θερισμός)で、ヘブル語は「カーツィール」קָצִיר)です。旧約聖書では、ヨエル書3章13節の「鎌を入れよ。刈り入れの機は熟した。来て、踏め。踏み場は満ちた。石がめはあふれている。彼らの悪がひどいから。」とあるように、刈り入れ(収穫)は御国の民とそうでない者とを選り分けるという終末のさばきに対して使われることが多いのですが、マタイのこの箇所での「収穫」は、人々を天の御国へと招き入れるという意味で使われています。 
  • 「収穫、刈り入れ」を意味する「カーツィール」קָצִיר)の初出箇所は創世記8章22節で、「この地が続くかぎり、種蒔き(זָרַע)と刈り入れ(קָצִיר)、寒さと暑さ、夏と冬、昼と夜がやむことはない。」(【新改訳2017】)とあります。つまり、「種蒔き」すれば必ず「刈り入れ(収穫)」があるというのが、良い意味でも悪い意味においても、この世の常(原則)です。しかもイサクのように、「その地に種を蒔き、その年に百倍の収穫を見た。【主】は彼を祝福された。」(創世記26:12)とあるように、種蒔き収穫が一人の人によってもたらされることが普通ですが、神の世界では「種蒔き」と「収穫」が必ずしも同じ人であるというわけではありません。イェシュアも言っているように、神の世界では蒔く者と刈る者とがともに喜ぶために、「ひとりが種を蒔き、ほかの者が刈り取る」ということわざが実現するのです(ヨハネ4:36~37)。ですからイェシュアは弟子たちに言われました。

【新改訳2017】ヨハネの福音書4章38節
わたしはあなたがたを、自分たちが労苦したのでないものを刈り入れるために遣わしました。ほかの者たちが労苦し、あなたがたがその労苦の実にあずかっているのです。」

  • ここでの「あなたがた」とはイェシュアの弟子たちのことです。「労苦したもの」とは種を蒔いた者たちです。弟子たちは「自分たちが労苦したのでないものを刈り入れるために遣わされた者」です。同時に、「労苦したほかの者たち」とは旧約の預言者たち、およびイェシュアご自身です。彼らは労苦して御国の福音の種を蒔いた者たちであり、イェシュアの弟子たちはその労苦の実にあずかる刈り入れる者たちです。神の世界ではこのように時代を超えて、世代を超えて、種蒔きをする者と刈り入れをする者の役割は異なっているのです。
  • イェシュアは「羊飼いのいない羊のように弱り果てて倒れている」群衆を見て、深くあわれんだだけでなく、弟子たちにこう言われました。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、ご自分の収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。」(マタイ9:37~38)と。神の目には「収穫は多い」のです。つまり、天の御国に入る人が大勢いることを意味しています。にもかかわらず、収穫のための働き手が少ない、つまり、御国に人々を入れるために、真に神の働きを行う者たち、神の働きを担う者たちが少ないことを言っています。だからこそ、「収穫の主に、ご自分の収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。」と命じています。
  • 「収穫の主」(「バアル・ハッカーツィール」בַּעַל הַקָּצִיר)という語彙は旧約聖書にはないことばです。「バアル」を「オーナー(Owner)」とする英語の訳もあります。おそらくこれは天の父のことで、その天の父に「働き手を送ってくださるように」とは、収穫の働きの主導権が天の父にあることを示しており、働き手を「送って」と訳された言葉は「シャーラハ」(שָׁלַח)ですから、この働き手というのは神から「遣わされる」という使命感を持った人ということになります。そのような働き手が起こされるように祈りなさいと命じられています。それは働き手が神のご計画と心を一つになるためです。
  • 「祈りなさい」と訳された言葉ですが、マタイの福音書にだけでも5回(5:44, 6:6, 9、9:38、24:20)あります。9章38節以外はすべて普通の祈りを示す「プロセウコマイ」(προσεύχομαι)の命令形ですが、9章38節だけは「デオマイ」(δέομαι)の命令形が使われています。それはヘブル語の「憐れむ」を意味する「ハーナン」(חָנַן)のヒットパエル態の命令形です。ヒットパエル態とは自発性、主体性を表します。ということは、収穫の主に自発的にイェシュアと同じ深いあわれみの心をもって、「あわれみを乞いなさい、懇願しなさい、嘆願しなさい」という意味になります。
  • 今日私たちは、イェシュアの「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、ご自分の収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。」という言葉を聞いて、どのように応答したらよいでしょうか。私たちは神のご計画とみこころによって御国を受け継ぐ者とされました。それは神のあわれみです。しかし収穫のための働き手はまだまだ少ないのです。しかもその働き手は、神から遣わされる者でなければなりません。使徒パウロも「遣わされることがなければ、どのようにして宣べ伝えるのでしょうか。」(ロマ10:15)と言っています。御国のための収穫(種蒔きも含めて)という神のご計画と目的は一つであっても、その働きは実に多様です。どんなに有能であっても、どんなに神からの豊かな賜物が与えられている人であっても、そういう人だけでは収穫の働きをすることができないです。「収穫の主」によって、神が遣わされる働き手、しかも神の憐みの心をもった遣わされる働き手が必要なのです。神のご計画を実現させるために、イェシュアはあなたをご自身の協力者となるようにと励ましておられるのです。その励ましに私たち一人ひとりが応える者となりましょう。 

2018.9.2


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