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取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ

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75. 善悪の知識の木から取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ

【聖書箇所】 創世記2章17節

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【読み】
ウーメーーツ ハッアト ーヴ ヴァーア ー トーハル ミッメー キー ベーム アホルー ミッメー ート ターート

【文法】
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【翻訳】

【新改訳改訂3】
しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。
【口語訳】
しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう。
【新共同訳】
ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。
【岩波訳】
善悪を知る木、これから(実を)取って食べてはならない。これから取って食べる日、あなたは必ずや死ぬであろう。
【NKJV】
but of the tree of the knowledge of good and evil you shall not eat, for in the day that you eat of it you shall surely die.
【NIV】
but you must not eat from the tree of the knowledge of good and evil, for when you eat of it you will surely die."

【瞑想】

創世記2章17節は、聖書で初めて「死」ということばが登場する箇所です。しかも「死」を意味する「モート」が二つも重ねられて、「必ず死ぬ」と神が宣言しています。

エデンの園に置かれた人は、食べることにおいてなんら不足なく生きることができました。その園にあるものは思いのまま食べてよかったのです。また、エデンの園では「人はひとりでいるのはよくない」という神の思いから、人にふさわしい助け手(向き合う存在としての)が備えられましたのですが、ただ一つ、「善悪の知識の木」から取って食べてはならないという神からの禁止事項が与えられていました。ではなぜそのような木を園の中央に置くのかという疑問が起こりますが、それなしには神と人とが共に生きることができなかったからだと言えます。ところが次章の3章では、蛇が狡猾にもその禁止事項を神が本当に言われたのかと疑念を抱くような問いをエバにします。その上で「あなたがたは決して死なない」という知識を与えます。しかもその断言する理由は、「それを食べるとき、あなたがたの目は開け、あなたがたは神のようになり、善悪を知るようになる。だから神はそのことを禁止しているのだ」というものでした。

蛇が狡猾に語ったことばの中には、偽りの部分と真実な部分が織り混ざっています。偽りの部分は「決して死なない」という部分です。神は「それを食べるとき、必ず死ぬ」と言われました。真実な部分とは、後半の部分です。サタンの化身である蛇は人間よりも知識があります。それは、ルシファーという名で、御使いの頂点にいた存在だからです。「善悪の知識の木」から取って食べるなら、自分で善悪の基準を持つ存在となります。神の善悪ではなく、人間が自分で良しとする善悪の基準です。

ここでいう「善悪」という表現は「メリズモ」というヘブル語修辞法のひとつで、両極端なことばを結びつけることで、その中に納まるすべてのものを包括する修辞法です。たとえば「天と地」とか、「ダンからベエル・シェバ」も同様です。「ダンからベエル・シェバ」という表現は「北から南までのすべての領域」という意味です。ですからここでの「善悪」は、「善と悪に至るすべての知識の総称」を意味し、その木からの実を取って食べることは、「善悪」のすべての知識を、自分を基準にして自由に決定づけることができるということを意味します。人間がもしこの「善悪の知識」を持って自由にその基準を定めることができるならば、それは神のような存在となり、創造者である神と被造物である人間のかかわりの秩序を全く翻すことになってしまいます。

蛇が言ったことは本当なのです。もしそのような存在がエデンの園で永遠に生きることになったとしたら、エデンの園は地獄さながらです。神と顔と顔を合わせて共に向き合って生きることができなくなってしまった者が、神と同じ園の中に存在していること自体、不自然の何ものでもありません。神と人とが釣り合わないくびきを負うことになります。

人が蛇の言う事を信じて、神の唯一の禁止事項である「善悪の知識の木」から取って食べるそのとき、必ず、死ぬというのは、神と共に向き合って生きることができなくなるという交わりの断絶を意味します。それは人を神の似姿として造った神としては大変な苦しみとなったはずです。そこで、神は彼らをエデンの園から追い出し、いのちの木への道を守るために、エデンの東に、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれました。その意図が創世記3章22節に記されています。その意図とは、彼らが「いのちの木から取って食べ、永遠に生きないように」という配慮からです。

「死」の正体がなんであるのか、アダムとエバはまだよく分かっていません。エデンの園を追い出された後、次第にそのことを知らされていくのです。人間の罪によってもたらされた「死」の現実から、解放されて、再びエデンの園に住むことができるための壮大な救いのドラマが始まっていくのです。

神とのかかわりが断絶した罪あるままで、エデンの園で永遠に生きる・・それを考えるだけでも恐ろしいことです。ですから、「死」は神によって再び回復されるまでの「配慮に満ちた」処置、ある意味では「人類に対する祝福」とも言えるかもしれません。神の究極的な救いは黙示録22章4節にあるように「神の御顔を仰ぎ見る」ことです。目と目を合わせて、向き合うことのできる永遠の愛の交わりが天国だとすれば、神を拒絶し、神を信じない者が天国に行くようなことがあったとしたら(決してあり得ませんが)、永遠に最も気の毒な人だと言わざるを得ません。


2013.4.30


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