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取税人マタイの召命と食卓

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33. 取税人マタイの召命と食卓

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【聖書箇所】マタイの福音書9章9~13節

ベレーシート 

  • マタイ9章では目に見える様々な事柄の中にある、より本質的な事柄において焦点が現わされます。しかもそれは律法学者とかパリサイ人たちの軋轢の中で、天の御国というものがどういうものか、より明確にされていきます。1~8節では中風の癒しの背景に「罪の赦し」があることが明確化されました。罪の赦しの権威を与えられたイェシュアの証拠として癒しのわざを見せられた群衆は、「それを見て恐ろしくなり、このような権威を人にお与えになった神をあがめた。」とあります。その恐れは、まさにヨセフがみ使いによってマリアの胎に宿っているのは聖霊によることを知らされたときの「恐れ」(驚き)と同じ言葉が使われています。イェシュアに罪の赦しの権威を与えた神を、群衆は「恐れ」とともに「あがめた」とあります。この話を同じ町カペナウムにいた取税人マタイが耳にしていたかどうかは推測の域を出ませんが、次の「取税人マタイの召命」とそれに続く「食卓の場面」も驚くような出来事なのです。
  • イェシュアの言動は、当時、律法学者たちやパリサイ人たちに軋轢(あつれき)をもたらしました。律法学者とは律法の専門家で、当時の保守派と言われる律法(トーラー)だけを重んじる「サドカイ派」にも、また改革派と言われる律法と口伝律法(タルムード)を重んじる「パリサイ派」の中にもいました。すなわち、サドカイ派の律法学者もいれば、パリサイ派の律法学者もいたのです。ちなみに、使徒パウロの先生であったガマリエルは「律法学者で、パリサイ人」と紹介されています(使徒5:34)。しかし、いずれも彼らとイェシュアとは律法の解釈をめぐって対立が増してきます。このような点に留意しながら、今回の「取税人マタイの召命」とそれに続く「食卓の場面」での出来事を見ていきたいと思います。

【新改訳2017】マタイの福音書9章9~13節
9 イエスはそこから進んで行き、マタイという人が収税所に座っているのを見て、「わたしについて来なさい」と言われた。すると、彼は立ち上がってイエスに従った。
10 イエスが家の中で食事の席に着いておられたとき、見よ、取税人たちや罪人たちが大勢来て、イエスや弟子たちとともに食卓に着いていた。
11 これを見たパリサイ人たちは弟子たちに、「なぜあなたがたの先生は、取税人たちや罪人たちと一緒に食事をするのですか」と言った。
12 イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。
13 『わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」

  • この箇所から9節の「取税人マタイの召命」と10~13節の「食卓での出来事」の二つに分けて学んでいきたいと思います。

1. 取税人マタイの召命

9 イエスはそこから進んで行き、マタイという人が収税所に座っているのを見て、「わたしについて来なさい」と言われた。すると、彼は立ち上がってイエスに従った。

(1) マタイ(Μαθθαῖος)という名前

  • マタイという名前は本来「レビ」であったようです(マルコ2:14、ルカ5:27)。「シモン」がイェシュアによって「ペテロ」(=岩)と呼ばれたように、あるいは「トマス」が「デドモ」(=双子)と呼ばれたように、「レビ」もイェシュアによって「マタイ」と呼ばれた名前です。一般的に、マタイは「神の賜物」という意味とされています。マタイのヘブル表記はמָתַּיで、これは与えるという意味の動詞「ナータン」(נָתַן)の男性名詞「マッタン」(מַתַּן)の複数形に一人称の人称語尾がついたもので、正確には「わたしの賜物(複)」です。それが「神の賜物」という意味として理解されています。マタイという名前には「神による数々の賜物・恩恵が与えられた者」という意味が込められています。その背景には、彼が「取税人」であって、当時のユダヤ人から嫌われ憎まれており、使徒の候補としてはまったくふさわしくない者にもかかわらず、神の多大な恩恵を受けた者の一人として、自分の名前を「マタイ」と記しているのです。

(2) 収税所に座っている人物

  • 収税所とは今日の税務署のことです。当時は、カペナウムとカイザリヤとエリコの町に収税所があったようです。エリコの町の「取税人のかしらであったザアカイ」の話は有名です。マタイもカペナウムの町で、日常的にその仕事をしていたのです。聖書はそのことを「座っている」(ヘブル語では「ヤーシャヴ」יָשַׁב)と表現しています。
  • 取税人がユダヤの一般民衆から毛嫌いされ、さげすまれていたのは、その仕事がローマ帝国の手先として、仲間を裏切る仕事であっからです。取税人は定められていた額をローマに支払ってしまうと、残った余分の金額を全部着服することができるため、人々からできるだけ多くをかせごうとする誘惑がありました。ローマ帝国の権力を背後に持ち、ローマ軍の兵士たちの存在によって擁護された取税人たちは、人々を脅して、途方もない金額を支払わせることができました。一般の民衆が法外な税金によって苦しんでいる一方で、取税人たちは金持ちになったのでした。このように税金を取り立てることは最も憎むべき職業の一つだったのです。取税人は異邦人や遊女、罪人と同様に扱われていました。

(3) マタイを見られたイェシュア

  • イェシュアは収税所に座っている取税人の一人の人物に目を留められたのです。マタイとマルコでは「見て」のギリシア語を「ホラオー」(ὁράω)、ルカは「セオーマイ」(θεάομαι)という動詞を使っています。ギリシア語を「ホラオー」(ὁράω)は「目で見る」だけでなく、「頭や心をもって見る」という意味があり、一方の「セオーマイ」(θεάομαι)は「驚きをもって見る、見つける」ことを意味します。しかしヘブル語ではいずれも「ラーアー」(רָאָה)で訳されています。この動詞「ラーアー」の聖書の初出箇所は創世記1章4節で、「神はその光を良しと見られた。神はその光とやみとを分けられた」にあるように、イェシュアは光のうちにマタイを「見た」(רָאָה)と考えられます。つまり「光」とは神のご計画と御心、御旨と目的を表わす概念です。その視点から、イェシュアはマタイのうちに神が「良し」とされることを、すなわち、彼のうちに神のわざが現されるのをご覧になったのではないかと思われます。それがマタイの生涯に神の賜物として表わされてくるのです。
  • ちなみに、イェシュアからこのような召しを受けたのは、ペテロと呼ばれるシモンとアンデレ、ヤコブとヨハネが最初で、その後にはピリポとナタナエルが続きます。すべて共通しているのは、イェシュアが彼らに対して「目を留めて」(ἐμβλέπω)とか、「見つけて」(ερρίσκω)とか、「見て」(ὁράω)と記されていることです。イェシュアが彼らを見る目は神のご計画とみこころの視点からです。イェシュアが「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。」(ヨハネ15:16【新改訳2017】)と言われましたが、彼らの選びはまさに神の秘儀と言えます。
  • マタイは使徒の中でも特異な賜物が与えられていました。福音書を見るだけでもそれが分かります。1章のイェシュアの系図がそうです。私たちにとっては何の意味もないように見えるこの系図が、アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イェシュアに至る人物の中からあえて14代ずつ、しかも三つのグループによって記されているのは、イェシュアこそダビデ(דָּוִד)的メシアであることを示唆しようとしています。なぜなら、ダビデ(דָּוִד)の三つのヘブル文字を数にすると4+6+4=14となるからです。他にも、福音書の中に五つのまとまった説教をイェシュアの生涯の中にサンドイッチのように挟んでいます。これは旧約のモーセ五書を示唆し、内容はすべて「天の御国」の教えなのです。そしてマタイが好んで使う「主が預言者を通して言われた事が成就するためであった」という常套句は、イェシュアこそイスラエルの約束を成就する者であることを強調しています。このような福音書を書いたマタイは神からの特別な賜物を与えられていたとしか言いようがありません。そのことを知って(見て)、イェシュアは取税人マタイを「わたしについて来なさい」と召し出されたと言えます。

(4) 「わたしについて来なさい」

  • わたしについて来なさい」の「アコリューセオー」(ἀκολουθέω)には「同じ道を歩む」という意味があります。ヘブル語では「レハー・アハラーイ」(לְכָה אַחֲרָי)で直訳的には「わたしの後を歩きなさい」ですが、イェシュアが「わたしのあとに」という場合には、師の弟子となることが意味されています。イェシュアの弟子となりたいと思った人もいました。しかし彼らは従う前に「死者を葬ること」や「家族に別れを告げること」や、「他の事柄を処理してから」と願いました。しかし「わたしについて来なさい」というイェシュアの招きは、
    ①「すぐに何もかも捨てて主に従う」という意味、
    ②「主と堅く結びついて生死を共にする」という意味
    が含まれていました。


マタイ 4:20 「彼ら(シモン・ペテロとアンデレ)はすぐに網を捨ててイエスに従った。」
マタイ 4:22 「彼ら(ヤコブとヨハネ)はすぐに舟と父親を残してイエスに従った。」



マタイ10:38 「自分の十字架を負ってわたしに従って来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。」
マタイ 16:24 「それからイエスは弟子たちに言われた。『だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。』」

  • イェシュアの「わたしについて来なさい」とは、上記の意味において語られているのです。御国の弟子として選ばれるということは、これを主が可能にしてくれるのです。漁師であった弟子たちは元の仕事に復帰しようと思えばできました。しかしマタイの場合、そうすることは不可能でした。マタイのいさぎよさは神の豊かな賜物です。御国の働きにおいて、彼でなければできない賜物が与えられていました。

(5) 立ち上がってイェシュアに従ったマタイ  

  • 「わたしについて来なさい」とのイェシュアの招きに対して、それまでしていた収税所の仕事を捨てて,そこから立ち上がってイェシュアに従ったことは尋常的なことではありません。しかしイェシュアの招きのことばに、マタイの心に触れる何かがあったことは確かです。それについて聖書は何も語っていませんが、イェシュアに罪の赦しの権威が与えられていることを耳にしていたのかもしれません。自分では歩くこともできない中風の人をいやされただけなく、「あなたの罪は赦された」と聞いて、マタイは心の中で自分の罪も赦されたいと願ったかもしれません。いずれにしても、ここでマタイがすべてを捨ててイェシュアに従ったという事実(アオリスト時制)が強調されています。

2. 食卓の場面で 

(1) 天の御国と食卓との関係 

  • マタイがイェシュアの弟子になったあとで、マタイは食卓の大ふるまいを催します。福音書の中では、食卓の場面は比較的多いのですが、結構、そこでは「天の御国」についての新しい真理が語られていることが多いのです。特にルカの福音書はそれが顕著ですが、マタイの福音書でも「食卓」のことがすでに取り扱われています。「食卓」とは神のご計画が完成することで神と人とが共に住むことの祝宴を意味するのです。

【新改訳2017】マタイの福音書 8章11~12節
11 あなたがたに言いますが、多くの人が東からも西からも来て、天の御国でアブラハム、イサク、ヤコブと一緒に食卓に着きます。
12 しかし、御国の子らは外の暗闇に放り出されます。そこで泣いて歯ぎしりするのです。

  • 11節の「あなたがた」とは、12節の「御国の子ら」のことでイスラエルの人々です。天の御国で「アブラハム、イサク、ヤコブと一緒に食卓に着く」とは、彼らに約束されたことが成就してその祝宴が開かれることを意味します。終末論的祝宴のことです。異邦人の百人隊長のようにイェシュアの語ることばに神の権威を信じなければ、イスラエル人といえども神の約束にあずかることはできないということをここで教えています。
  • マタイが自分の家で食卓の大ふるまいをするのですが、それもやがて実現する天の御国の新しい真理が示されています。

10 イエスが家の中で食事の席に着いておられたとき、見よ、取税人たちや罪人たちが大勢来て、イエスや弟子たちとともに食卓に着いていた。

画像の説明
  • ここではイェシュアがマタイの家で「食事の席に着いておられた」という記述から始まっています。正確には、「食卓で横になる」という意味の「アナケイマイ」(ἀνάκειμαι)が使われおり、そこに大勢の取税人たちと罪人たちがやって来て、イェシュアとイェシュアの弟子たちと「ともに食卓で横になった」(συνανάκειμαι)とあります。まずイェシュアが「食卓に横になっていた」ところに、大勢の取税人たちと罪人たちがイェシュアの弟子たちと「ともに食卓に横になった」ということは、イェシュアはこの食卓の特別な客であったことを意味しています。これはまさに御国の食卓の風景の「型」を示唆しています。
  • マタイの家で催された食卓は、自分の身に起こったことを、仲間たちを呼んで証しするという意味もあったと言えますが、むしろ自分がイェシュアの弟子になったことで、今までの仲間に別れを告げる意図もあって開かれた食卓であったとも言えます。

(2) パリサイ人たちの反応 

  • しかしこの食卓がパリサイ人たちには理解できないことでした。そこで、

11 これを見たパリサイ人たちは弟子たちに、「なぜあなたがたの先生は、取税人たちや罪人たちと一緒に食事をするのですか」と言った。

  • 「これを見た」の「見た」はギリシア語の「ホラオー」(ὁράω)で観察の目です。イェシュアをじっと見つめて、落ち度や責めるべきことがないかを見る目です。そしてついに「イェシュアが取税人たちや罪人たちとともに食事をすることを見た」のです。実際に見たというよりも、知った、わかったに近いニュアンスです。ユダヤ人にとって、「一緒に食事をする」ということは親密な交わりを意味していました。取税人や罪人たち、ましてや異邦人とは決して食事をすることはありませんでした。取税人がなぜ嫌われていたかはすでに述べたので、ここでは罪人と言われる人たちがどういう人であったかを述べたいと思います。「罪人」という言葉には二通りの意味があります。一つは律法をパリサイ人のように厳格に守ろうとはしない人々、あるいは守れない人々のことで、これらの人々を「アム・ハーアーレツ」(עַם הָאָרֶץ)、略して「アム・ハーレツ」、つまリ「地の民」を意味していました。もう一つは、文字通り、いかがわしいことをして社会から断絶された人々です。イェシュアはそうしたパリサイ人の慣習を破られたのです。

(3) イェシュアの答え 

  • パリサイ人たちは直接イェシュアに聞かないで、弟子たちに尋ねました。しかしそれはイェシュア自身に向けられた問いでした。イェシュアの答えの中に「御国の福音」の新しい真理の教えがあるのです。ですからその教えに耳を傾けなければなりません。

12 イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。
13 『わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」

  • 「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。」ということばの意味は明白です。では何の説明も必要ないのかといえばそうではありません。ここでの「病人」とは「罪人」を暗に示しているからです。13節で「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」と釘を刺されているからです。パリサイ人たちは、自分たちは健康であり、義人であるから医者などはいらないと考えていました。
  • 自分を義人だと自称し、他の人々を見下していたパリサイ人と取税人が祈りをささげた話があります。

【新改訳2017】ルカの福音書18章10~14節
10 「二人の人が祈るために宮に上って行った。一人はパリサイ人で、もう一人は取税人であった。
11 パリサイ人は立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私がほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦淫する者でないこと、あるいは、この取税人のようでないことを感謝します。
12 私は週に二度断食し、自分が得ているすべてのものから、十分の一を献げております。』
13 一方、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神様、罪人の私を
あわれんでください。』
14 あなたがたに言いますが、義と認められて家に帰ったのは、あのパリサイ人ではなく、この人です。だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるのです。」

  • イェシュアの14節、すなわち「義と認められて家に帰ったのは、あのパリサイ人ではなく、この人です。」ということばは、パリサイ人にとってまさに青天(せいてん)の霹靂(へきれき)だったことでしょう。根底からパリサイ人の生き方が否定されたのです。「罪人」とは、取税人や罪人に限定されるべきではなく、パリサイ人をはじめとするすべての人を含んでいます。パリサイ人がその現実に気づいていないということが深刻な問題でした。今回のマタイの福音書9章13節の「『わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。」も辛辣なことばです。
  • ホセア書からの引用は、【新改訳2017】と【新改訳改訂第3版】ではかなり異なっています。

【新改訳2017】 ホセア6章6節
わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない。
【新改訳改訂第3版】では
わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。


特に異なっているのは、「あわれみ」から「真実の愛」という訳語に変わっていることです。ギリシア語原文では「エレオス」(ἔλεος)となっているので、「あわれみ」と訳すのが当然です。それは70人訳聖書から引用しているからです。しかし【新改訳2017】の場合、ヘブル語原文から訳しているようです。というのは、「真実の愛」というのは「ヘセド」(חֶסֶד)の訳語だからです。

画像の説明

  • ホセア6章6節にある「ヘセド」を【新改訳2017】では「真実の愛」、【新改訳第三版】は「あわれみ」、【新共同訳】は「」、【口語訳】は「いつくしみ」、【NKJV】【NIV】mercy、【TEV】 constant love,とそれぞれ訳しています。ちなみに「真実の愛」と言ってもピンときませんが、英語訳だと少しニュアンスがつかめそうです。「ヘセド」は神との契約における愛を表すことばですが、これが神に用いられるとき、以下のような意味を持つと思えばよいと思います。

    constant love・・・不変のゆるぎない愛
    steadfast love ・・確かな確固とした愛
    unfailing love・・・絶えることのない、裏切られることのない愛
    loving-kindness・・親切さ

  • それに対して、人間の側の契約の愛に対する誠実さ、真実さはまことにはかないものです。

【新改訳2017】ホセア書6章4 節
「エフライムよ、わたしはあなたに何をしようか。ユダよ、わたしはあなたに何をしようか。あなたがたの真実の愛(ヘセド)は朝もやのよう、朝早く消え去る露のようだ。」

  • イスラエルの民(人間)のヘセドは「朝もやのよう、朝早く消え去る露のようだ」とあるように、太陽が昇るとすぐに消えてしまうのです。しかし神のヘセドは一度契約を結んだ者に対して、どこまでも誠実なのです。イェシュアはパリサイ人に対してこのことを学べと言っているのです。
  • 最後にひと言。「わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない。」という表現は、前者を強調するためのヘブル的修辞法です。後者が否定されているのではありません。神がイスラエルを選んで契約を結ばれましたが、その契約に対する真実な愛が「取税人や罪人を招いて食卓を共にすること」に現れています。このことはキリスト再臨後のメシア王国でなれさることになるのですが、今ここにおいてもなされることが、神が喜びとすることなのです。そして、この神の喜びを私たちの喜びとすることこそ、天の御国の民としての私たちは学ばなければなりません。

2018.7.1


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