****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

受難と死と復活の予告が意味すること

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72. 受難と死と復活の予告が意味すること

【聖書箇所】マタイの福音書16章21~24節

ベレーシート

●前回、「この岩の上に、わたしの教会を建てる」というタイトルでメッセージをしました。「この岩(ペトラ)」とは、「あなたは生ける神の子キリストです」という告白です。この告白の上に、イェシュアは「わたしの教会を建てる」と言われたのです。しかし、イェシュアはそれをどのようにして建てるのでしょうか。そのことを扱っているのが、21節であり、また24節のみことばなのです。

【新改訳2017】マタイの福音書16章21節
そのときからイエスは、ご自分がエルサレムに行って、長老たち、祭司長たち、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、三日目によみがえらなければならないことを、弟子たちに示し始められた。

【新改訳2017】マタイの福音書16章24節
それからイエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。」

●「わたしの教会」を建てる上で、21節のことばはイェシュアがなさなければならないこと、そして24節のことばは弟子たちがなさねばならないことです。この二つが結び合うことによって、はじめて「わたしの教会」が建て上げられるのです。ところが、22~23節では、イェシュアがなさろうとすることを即座に邪魔しようとする言動が起こります。すなわち、ペテロの言動に働くサタンのしわざです。

【新改訳2017】マタイの福音書16章22~23節
22 すると、ペテロはイエスをわきにお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあなたに起こるはずがありません。」
23 しかし、イエスは振り向いてペテロに言われた。「下がれ、サタン。あなたは、わたしをつまずかせるものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」

●ペテロの言動は、「わたしの教会」を建てることを邪魔しようとするサタンの妨害です。この妨害は教会が地上から引き上げられる携挙の時まで続くことになります。イェシュアとその弟子たちの一行がピリポ・カイサリアに赴いたその目的は、いかにして「わたしの教会」を建てるかという神のご計画を、弟子たちに教えるためだったと言えます。そこで、「わたしの教会」という概念について簡単に学びたいと思います。

1. 「教会」、および「神の民」という概念

●「教会」(「エックレーシア」ἐκκλησία)という語彙が18節で、何の説明もなく登場しています。ここが初出箇所で、あとマタイ18章17節(2回)に使われているのみです。マタイ以外の福音書には出てきません。「教会」ということばが使われているのは、「使徒の働き」が23回、「パウロの手紙」は62回、「ヤコブの手紙」が1回、「ヘブル書」が2回、「ヨハネの手紙」が3回、「黙示録」が20回、新約聖書合わせて114回使われています(ただしペテロとユダの手紙を除いて)。

(1) 教会の特徴

教会の比喩.PNG

●パウロのいう教会(あるいは集会)は、旧約のイスラエルとは異なり、キリストを信じるユダヤ人と異邦人を構成員としています。その教会には、右図のように、「からだ」「花嫁」「建物」「家族」の四つの比喩と三つの共通点があります。四つの教会の比喩の中で、建物の比喩は、パウロの書簡にもペテロの手紙にも同様に使われています。パウロはⅠコリント3章10~11節、ペテロはⅠペテロ2章4~6節を参照のこと。

〔第一の共通点〕
●それらは、いずれも、神(キリスト)に支配されているということです。たとえば、からだは頭(かしら)を持ち、頭(かしら)の支配を受けています。その意味で、からだは頭に所有されているのです。頭のないからだは無益であり、いのちのないものです。同じく、花嫁は花婿を持つもので、花婿を持たない花嫁はありません。花婿が花嫁を迎えると、花嫁は花婿に所有されます。それゆえに、花嫁はキリストの花嫁と呼ばれるのです。建物も、土台(礎石)がしっかりしていなければ、建てることができません。家族も、父親がいなければ、家族としてのまとまりを保つことはできません。このように私たちは、教会に対するイェシュアの立場と関係を知るのです。イェシュア・メシアは、からだにとっては頭(かしら)であり、花嫁にとっては花婿、建物にとっては土台、家族にとっては父親(および父を代表する長子)なのです。

〔第二の共通点〕
●これら四つの比喩に例えられている教会は、いずれも、独自の始まりを持っているということです。
確かに、私たちがキリストにある選びを受けたのは「世界の基が据えられる前」(エペソ1:4) からでした。また、私たちは、ユダヤ人と異邦人からなる一つのからだを形づくる目的が「万物を創造した神のうちに世々隠されていた」(エペソ3:9)ことを知っています。したがって、神の選びも目的も、永遠の昔にすでに定まっていたことだと言えます。しかし、これらの選びと目的が明らかにされるには、神の定めの時があったのです。つまり、からだが目に見えるかたちとして存在するためには、その特定の日が定まっていたのです。それは、ペンテコステの日でした(使徒2:4)。この時、「キリスト・イエスご自身がその要の石」(エペソ2:20)となる建物の土台が築かれました。この時から、イェシュアをメシアと信じる者たちは花婿に対する花嫁となり、その立場を自覚するようになりました。また、イェシュアが「わたしの兄弟たち」(ヨハネ20:17)と言われた神の家族が共に生きるようにされたのも、この時からであったのです。

〔第三の共通点〕
●これら四つの比喩に例えられている教会は、いずれも、完成に向かって進んでいるということです。それは、終わりの日(携挙)に向かって、備えつつ、成長と発展の過程をたどりながら、必ず完成の時があることを物語っています。つまり、からだについては、一つ一つの部分(器官)が、愛によって、しっかりと結び合わされ、成長していくことが強調され、キリストの満ち満ちた身たけにまで達して「栄光のからだ」となります(エペソ4:13、16、ピリピ3:21)。花嫁については、「しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のない」ものとして身を装うことが強調され、やがては喜びのうちに迎え入れられる日(携挙)に婚姻することが約束されています(Ⅰテサロニケ4:17)。建物については、「組み合わされた建物」として、「ともに築き上げられ、御霊によって神の御住まい」(エペソ2:22)となることが強調されています。そして家族については、やがて人知をはるかに超えたキリストの愛が満ち溢れた家族としての交わりが完成します (エペソ3:18~19)。
 

(2) 神の民

●不思議なことですが、ペテロは「教会」ということばを用いず、以下のように「神の民」ということばを用いています。

【新改訳2017】Ⅰペテロの手紙2章9~10節
9 しかし、あなたがたは選ばれた種族王である祭司聖なる国民神のものとされた民です。それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです。
10 あなたがたは、以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、あわれみを受けたことがなかったのに、今はあわれみを受けています。

●ペテロは、キリストにある新しい民を、「選ばれた種族」「王である祭司」「聖なる国民」「神のものとされた民(神の所有とされた民)」、すなわち、旧約的な概念を継承した「神の民」と表現しています。マタイの福音書では、イェシュアが「教会」ということばを初めて使ったのは、ペテロに対してだと私たちは考えていますが、そのペテロ自身がこの「教会」ということばを、彼が語ったメッセージや手紙の中で一度も使っていません。何とも不思議なことですが、「教会」という語彙自体を使っているのはパウロ、ヤコブ、ヨハネです。とりわけ、「教会」という語彙を使っているのはパウロですが、それは彼には教会についての奥義が啓示されたからです。パウロのいう「教会」とペテロのいう「神の民」は、本質的には同義と考えられます。特にパウロの場合は一体性という教会の本質的な面が強調され、ペテロの場合は「王である祭司」(2:9)「聖なる祭司」(2:5)という「神の民」の機能的な面が強調されていると考えられます。

2. イェシュアの祭司的務め

(1) メシアの三つの務めとその関係

メシア.PNG

●イェシュアのいう「わたしの教会」とは、以上のような特徴をもっており、これをイェシュアが建てようとしているのです。そのためには、イェシュアがメシアとして祭司としての務めを果たさなければならないのです。預言者的務めはすでに果たされました。そしてやがて死と闇の勢力に打ち勝つ王的務めが果たされなければなりません。しかしそれはキリストの再臨後のことです。当時の人々はイェシュアに、その王的権威をもって、ローマの支配から自分たちを解放してくれることを期待していました。しかしその前に果たさなければならない務めがあります。それが祭司的務めです。そのことを教えている詩篇があります。ヘブル人への手紙の中に、それが引用されています。

【新改訳2017】ヘブル人への手紙2章6~10節
6 ある箇所で、ある人がこう証ししています。「人とは何ものなのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とはいったい何ものなのでしょう。あなたがこれを顧みてくださるとは。
7 あなたは、人を御使いよりもわずかの間低いものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせ、
8 万物を彼の足の下に置かれました。」神は、万物を人の下に置かれたとき、彼に従わないものを何も残されませんでした。それなのに、今なお私たちは、すべてのものが人の下に置かれているのを見てはいません。
9 ただ、御使いよりもわずかの間低くされた方、すなわちイエスのことは見ています。イエスは死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠を受けられました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。
10 多くの子たちを栄光に導くために、彼らの救いの創始者を多くの苦しみを通して完全な者とされたのは、万物の存在の目的であり、また原因でもある神に、ふさわしいことであったのです。

●引用された詩篇というのは詩篇8篇です。それは、全地が神によって支配されたヴィジョンを見たダビデが、「あなたの御名は全地にわたり、なんと力に満ちていることでしょう」と賛美している預言的な詩篇です。そのダビデが詩篇8篇の中で「人」とか、「人の子」と言っているのは、私たち人間のことではなく、また最初のアダムでもなく、最後のアダムであるイェシュアのことを指しています。そして、「あなたは、人を御使いよりわずかに欠けがあるものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせてくださいました。あなたの御手のわざを人に治めさせ、万物を彼の足の下に置かれました。」とあります。「これに栄光と誉れの冠をかぶらせ」という預言は、10節にある「多くの子たちを栄光に導くために、彼らの救いの創始者を多くの苦しみを通して完全な者とされた」、つまり、十字架の贖いの御業がなされたことで成就しているのです。それなのに、「今なお私たちは、すべてのものが人の下に置かれているのを見てはいません」とあります。これは王としての務めがまだなされていないことを示しています。しかし、やがてキリストが再臨される時にそれが実現されます。つまり、メシアとしての王的務めがなされる前に、祭司的務めが果たされなければならないことを示しているのです。イェシュアがなぜ人となってこの世に来てくださったのか、その究極の目的は祭司的務めを果たすためだったのです。祭司的務めが正しくなされることを通して、やがてすべてのものが人(メシア)の足の下に置かれるという王としての務めを見ることになるのです。その逆ではありません。このことがイェシュアの時代の人々、および弟子たちにも理解できなかったことなのです。

(2) 神の定めとしての「受難と死と復活」

【新改訳2017】マタイの福音書16章21節
そのときからイエスは、ご自分がエルサレムに行って、長老たち、祭司長たち、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、三日目によみがえらなければならないことを、弟子たちに示し始められた。

●「しなければならない」と訳されたギリシア語の「デイ」(δεῖ)は、「必ず~することが決まっている、決定的にそうなっていて変えられない、不可避である」という意味です。それは、「エルサレムに行く」ことも、「長老たち、祭司長たち、律法学者たちから多くの苦しみを受ける」ことも、「殺される」ことも、そして、「三日目によみがえる」ことも、すべて回避することのできない神の決定的な定めとしてなされるということです。

●当時の多くのユダヤ人たちは王なるメシアを待ち望んでいました。彼らは長い間異邦人の支配を受け、その支配の下で苦しんできたからです。しかし、神のみこころは神のみこころをなすための新しい神の民を創造することでした。そのために、まずイェシュアが祭司の務めを完全に果たすために、多くの苦しみと死と復活を通らねばならいことを弟子たちに予告しなければならなかったのです。これは神のご計画が実現するためにどうしても通らなければならない神の定めだったのです。事実、イェシュアは「死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠を受けられました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたもの」(ヘブル2:9)だったのです。しかし、重要なことはそのあとのことばです。「多くの子たちを栄光に導くために、彼らの救いの創始者を多くの苦しみを通して完全な者とされたのは、万物の存在の目的であり、また原因でもある神に、ふさわしいことであったのです」とあります。「ふさわしいことであった」とはどういう意味でしょうか。

●「多くの子たちを栄光に導く」ことと、「彼らの救いの創始者を多くの苦しみを通して完全な者とされた」こととは、神にとって釣り合うこと、バランスが取れ、採算が合うということなのです。「多くの子たちを栄光に導く」とはどういうことでしょうか。それは単に「多くの人が救われる」という意味ではなく、人が神に似せて、神のかたちに造られた目的を回復するということです。では、神のかたちとは何でしょうか。神は「われわれに似せて、われわれのかたちに人を造ろう」と言われましたが、「われわれに似せて」「われわれのかたちに」とはどういうことでしょうか。

●神はここで「われわれ」と複数形で語っています。聖書の中で神が何かを宣言するとき、常に「わたしは」という単数形を用います。したがって、神がここで「われわれ」と言ったのには、偶然ではなく、深い意味があります。神はここで「われわれ」と言ったのは外部の者に向かって語ったのではなく、 神御自身の内にある愛の交わりの中で語ったことを意味します。すでに御子がこの世に来られて、御子が御父とひとつであり、しかもそこに御霊の助けがあることを私たちに啓示してくださいました。その神が「われわれのかたちとして、われわれに似るように人を造ろう」と考えられたとするならば、人間もその永遠の愛の交わりの中に造られたことを意味します。神の被造物の中で人のみが神を知ることを許されているのです。したがって、神にふさわしいこととは何かと言えば、神と人とが愛において永遠に一つ(「エハード」אֶחָד)となるという目的が実現されることなのです。その目的のためになされることはすべて神にふさわしいことなのです。イスラエルの歴史を見るならば、そのような働きを担ったのは祭司たちでした。

●神のかたちに創造した人に与えられた務めは「祭司としての務め」です。祭司としての務めとは、神とともに歩み、神のみこころを知る務めです。そして神のうちにあるいのちを分け与えるという務めです。そのために、昼も夜も神のみおしえを口ずさむことを喜びとすること。神の家に住み、神のことばにとどまり、神の思いを自分の思いとし、神の心を自分の心とすることです。神を知ることを求め、神に感謝と賛美をささげるのも祭司としての務めであり、最初のアダムに与えられた務めであったのです。

●この務めを回復するために、神の御子イェシュアは「多くの苦しみと死と復活」というご自分にしかでき得ない神の定めをなさってくださったのです。それはすべての人のための完全な贖罪(罪の身代わりとしての死)を決定的(一回的)に成し遂げることでした。多くの苦しみと死を経験しなければならないにもかかわらず、それを私たちのために見合うこととして味わってくださったのです。それは私たちが単に天国に行けるためというわけではありません。本来、人間に与えられていた務めが回復され、ダビデが預言したように、主の御名が力強く全地に知りわたるためなのです。その意味では、キリストを信じて「クリスチャン」になるというよりも、「祭司の務めを回復された者」という言い方のほうがずっと重みがあり、新しく生まれた意味と目的が深く自覚されます。この祭司の務めはとても霊的なものであり、聖なるものです。ペテロはこの点を強調して、キリストにある新しい神の民を、「聖なる祭司」「王なる祭司」と表現したことを、私たちは改めて考えてみる必要があるのではないでしょうか。この「祭司の務め」を担う者のあり方を、イェシュアは以下のようなことばで述べています。

【新改訳2017】マタイの福音書16章24~25節
24 それからイエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。
25 自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者はそれを見出すのです。

●イェシュアの弟子はすべて祭司なのです。祭司は神の思いと人の思いを見分けなければなりませんが、このことについては、次回に学びたいと思います。

2020.3.01
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