****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

呪いの詩篇をどう理解すべきかを考えること

44. 呪いの詩篇をどう理解すべきか

(1)

  • 詩篇を瞑想する上で最も困惑するのは「呪いの詩篇」(復讐を願う祈りの詩篇)に直面するときです。そうした詩篇を瞑想することに、心情的、あるいは人道的に抵抗を感じて嫌悪感を覚える人がいるかもしれません。困惑したり、嫌悪感を感じたりするならば、それを避けるという手がありますが、たとえそうだとしても、あえて自分の身をそこに置いてみることがあっても良いのではないかと思います。悪に対して私たちはどのように向き合い、対処したら良いのか。この問題は決して特殊な問題ではなく、私たち人間の普遍的な問題だからです。
  • 聖書の神は祝福に満ちた神です。それゆえ、私たちも神を祝福し(これは賛美となる)、人を祝福することが求められています。この<祝福する>ことと対をなすのが<呪う>ことです。呪いは相手に対する禍を願い、復讐の祈りとなっていきます。そして恐るべき神のさばきが下るようにと切願します。もし神の御名を口実にして個人的な恨みや復讐を願っているとするならば、それには警戒(注意)が必要です。しかし、悪に対して、あるいは不当な扱いや迫害に対して、正義の立場から神の正しいさばきがなされることを願うことは道理にかなっています。しかし、自分で復讐や制裁を決して行なわずに、神にすべてをゆだねるということは信仰を要します。そしてこれは決してやさしいことではありません。
  • 詩篇の作者たちのすばらしさは、復讐が常に神の職分であるとみなしていたことです。悪を行なう者に対する心の思い、それがたとえどんなにひどい呪いの言葉であったとしても、最終的には、人にではなく、正しくさばきを行なわれる神にゆだねているところに希望があります。人の感情の激しさは私たちの本当の心を表しています。それを隠さずにありのままを述べることができ、しかもそれをそのまま受けとめてくださる神がおられることを味わうことも、詩篇の瞑想の醍醐味であると信じます。

(2)

  • 「メシア詩篇」と言われるものであっても、メシアには全くふさわしくない内容がその詩篇の中に含まれていることがあります。たとえば、自分を悩ます者に対しての呪いのことばがそうです。自分をそしった者に対して、絶対に赦さないという強い怒りが込められている場合はなおさらです。「あなたの敵を愛しなさい」と言われた主イエスの面影は全く感じられません。単に、メシアに関する箇所が出てくるというだけでは、その「メシア詩篇」たる重みを何ら感じません。「メシア詩篇」たる重み(その存在価値)はいったい何なのでしょうか。どのように受け止め、理解すれば良いのでしょうか。
  • 私はこう考えます。それは、人間のどろどろとした罪の泥沼の中にも、主イエス・キリストは共にいてくださり、共に苦しんでくださって救いを成し遂げようとしておられるということです。そのことに気づかされるとき、御子イエスが受肉された意味が分かるような気がします。そして大きな励ましが与えられます。そのことに目が開かれるようにと祈りつつ、瞑想の旅を続けましょう。

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