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呼びかける一つの声

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109. 呼びかける一つの声

【聖書箇所】 イザヤ書40章8節

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【読み】
ール コーー バミドゥール パンー デフ アドーイ ヤッシェル バーアラーヴァー メシッー レーローヌー

【文法】
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【翻訳】

【新改訳改訂3】
荒野に呼ばわる者の声がする。「主の道を整えよ。荒地で、私たちの神のために、大路を平らにせよ。」
【口語訳】
呼ばわる者の声がする、「荒野に主の道を備え、さばくに、われわれの神のために、大路をまっすぐにせよ。」
【新共同訳】
呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え/わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。
【岩波訳】
呼ばわる者の声がする、「荒野に整えよ、ヤハウェの道を。まっすぐにせよ、荒地に、われらの神のための大路を。」
【中澤訳】
一つの声が呼ばわる。「荒野にヤハウェの道をひらき、砂漠にわれらの神の街道をしけ。」
【NKJV】
Isa 40:3 The voice of one crying in the wilderness:"Prepare the way of the Lord. Make straight in the desertA highway for our God.
【NIV】
Isa 40:3 A voice of one calling: / "In the desert prepare / the way for the LORD {[3] Or <A voice of one calling in the / desert: | "Prepare the way for the LORD>}; / make straight in the wilderness / a highway for our God. {[3] Hebrew; Septuagint <make straight the paths of our God>}


二つの解釈に基づく翻訳
※40:3のフレーズで、「べミドゥバール」(荒野で)が「呼ぶ声」にかかるのか、あるいは「荒野で主の道を整える」にかかるのかで解釈が分かれるところです。その理由としては、ヘブル語特有のきれいなパラレリズムになっていないからです。しかしここは変則的であったとしても、「荒野」と「砂漠」が同義的パラレリズムであることと、6節にも別の「一つの声」が語っていることとを考え合わせると、口語訳、新共同訳、岩波訳、中澤訳のように、語り手を単に「呼ばわる声」とした方が自然です。しかしこの箇所が新約聖書で引用されるときは(四つの福音書)、すべて「荒野で叫ぶ声」となっているので、新改訳ではそれに対応する形に訳しているのだと思われます。

【瞑想】

3節の語り手である「呼ばわる声」がだれのことを指しているのかは明らかではありません。しかし聖書にはしばしばこうした「人称なき存在」が出てきます。しかも、この人称なき声はきまって神と民(人)のかかわりを建て上げるための知恵を与える存在なのです。ですから、その存在の声はとても励ましに満ちていることが多いのです。この人称なき存在はやがて啓示される聖霊なる方を暗示しています。

原文では、「呼ばわる」を意味する動詞「カーラー」קָרָשの分詞形が使われています。70人訳聖書はこれを意味の強いギリシャ語の「ボアオー」βοάωを訳語に当てて、「叫ぶ(者)」と訳しました。新約聖書も70人訳聖書から引用して「荒野で叫ぶ者の声」としています。果たして、この「声」は「叫ぶ者の声」だったのでしょうか。いささか疑問が残るところです。なぜなら、イザヤ書40章1節で、主は「慰めよ、慰めよ、私の民を。そしてエルサレムに優しく語りかけよ。これに呼びかけよ。」と語っているからです。「優しく」「ねんごろに」というイメージは、悲しみのどん底から再び立たせて行く慰めの声として、むしろ、人の心に触れるような励ましのことばして語られ、呼びかけられたように思います。それは、叫ぶ声ではなく、心の耳を澄まさなければ聞こえない呼びかけの声として語られたように思います。歯に衣を着せないバプテスマのヨハネの激しい言葉と重なってしまうと、どうしてもイザヤ書40章3節のことばもそのようなイメージで聞こえてしまいます。

ところで、「荒野で叫ぶ」にしても、「荒野で主の道を整える」にしても、なぜ「荒野」なのでしょうか。そこには深い意味が隠されているように思います。「荒野」(「ミドゥバール」מִדְבָּר)とは、ここではある特定の場所を意味してはいません。かつて神は、イスラエルの民をエジプトから連れ出して荒野に導かれました。なぜなら、荒野は神の民を養育し育成する最適な場所だったからです。神はそこで生存と防衛の保障を民に経験させ、契約を結び、律法(トーラー)を与えられました。荒野は一見厳しい場所ですが、神の恵みを経験できる場所でもあります。

しかし、神とのかかわりとしての成長段階としては、荒野はまだ幼少期、あるいは青年期でしかありません。荒野は神のみことばによって生きることを徹底的に訓練する場です。主イエスも公生涯に入られる前に、御霊に導かれて荒野に追いやられました。それは最終的な訓練を受けるためでした。イエスがサタンに答えたことば、すなわち、人はパンによって生きるのではなく、神の口から出るひとつひとつのことばによって生きるかどうかがチェックされる最終テストでした。とすれば、「呼びかける一つの声」も神の民を荒野の学校へと招く声なのです。

このように考える時、イザヤ書40章3節の人称なき存在の声である「主の道を整え、神のために、大路をまっすぐにせよ(備えよ)」ということばは、主の主権的恩寵によって赦しが与えられる者に課せられる新たな呼びかけとして理解することができます。つまり、それは、主とのかかわりを築かせるために、向きを変えて、神のみおしえ(トーラー)に従って歩ませるために、「主の御声を聞く生き方を身に着けよ」との呼びかけなのです。ちなみに、「整える」と訳されたヘブル語の「パーナー」פָּנָהは、本来、主に「振り向く」「向かう」「慕う」という意味です。主との親しい親密なかかわりを回復する動詞が、ここでは強意形のピエル態の命令形で「整えよ」とされているのです。

「整える」ということがどういうことか、次節(4節)のたとえで説明されています。
「すべての谷は埋め立てられ、すべての山や丘は低くなる。盛り上がった地は平地に、険しい地は平野となる。」と。ハイウェイ(高速道路)を作るときには、山は崩され、谷は埋められ、曲がった道路はまっすぐにされます。「すべての谷は埋め立てられ」とは私たちの失敗や挫折の経験による失望が希望に変えられることです。「すべての山と丘が低くされ」とは高ぶりが打ち砕かれることです。高低のある地や険しい地もなだらかな平地とされ、まっすぐにされるとは、アップダウンのない心の一途さを表わすたとえかもしれません。

詩篇84篇の作者は失意の経験を通して高ぶりが打ち砕かれました。そして、神に対する新しい思いが生まれてきたのです。それはシオンを思う心です。5節に「なんと幸いなことでしょう。・・その心の中にシオンへの大路のある人は」とあります。原文には「シオン」ということばはありませんが、「大路」ということばがシオン(エルサレムの別称で、ここでは神ご自身を意味しています)につながっている道だからです。

詩篇84篇のテーマは、神を中心とした生活への決意です。神を慕う心、神を思う心、これらは「シオンへの大路のある人」の心そのものです。そのような人は、
①『涙の谷を過ぎるときも、そこを泉のわくところとします。』(ここでの泉は賛美の泉とも言えます)
②『初めの雨もまたそこを祝福でおおいます。』(硬くなった、あるいは渇ききった心に恵みの雨が注がれます。それは豊かな収穫が約束された祝福のしるしです。)
③『力から力へと進む』(ルターはここを「勝利から勝利へ」と訳しています。)
これらは、まさに、詩篇1篇にあるような「何をしても栄える」という祝福です。神がすべてのことを相働かせて益としてくださる世界です。そのような人の人生において神の栄光が現わされます。また、多くの人々にも神の祝福を分かち与える人ともなるのです。

呼ばわる者の声。
荒野で主の道を整えよ。
砂漠で、私たちの神への大路を備えよ。(私訳)

【付記】
楽譜「ナハムー ナハムー アンミー」


2013.6.9


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