呼び求める者の泉(エン・ハコレ)
士師記の目次
13. 呼び求める者の泉(エン・ハコレ)
【聖書箇所】 15章1節~20節
はじめに
- 士師記15章で取り上げたいことは、14節の「主の例が激しく彼の上に下った」ということと、サムソンが戦いのあとにひどく渇きを覚えて主を求めた時に、主は泉を備えて彼を生き返られたこと(18~19節)です。
1. 主の霊が注がれた士師たち
- 12人の士師たちの中で、特別に「主の霊」によってその働きをしたことが記されているのは4人の士師たちです。
(1) オテニエル
3:10「主の霊が彼の上にあった(「ナータン」נָתַן。」
(2) ギデオン
6:34「主の霊がギデオンをおおった(「ラーヴァシュ」לָבַשׁので、」
(3) エフタ
11:29「主の霊がエフタの上に下った(「ハーヤー」הָיָהとき、」
(4) サムソン
①13:25「主の霊は、彼を揺り動かし(「パーラム」פָּלַם)はじめた(「ハーラル」חָלַל)。」
②14:6, 19/15:14「主の霊が激しく彼の上に下った。(「ツァーラハ」צָלַח)」
- サムソンの場合には繰り返し「主の霊」が「激しく下った」ことが記さています。「激しく下った」と訳されている動詞は「突入した、突進した」という意味の「ツァーラハ」צָלַחで、他に「成功する」とか「成し遂げる」という意味もあります。サムソンは人並みはずれた力を与えられたましたが、それは「主の霊が彼の上に激しく下った」結果でした。サムソンは「主の霊」(「ルーアッハ アドナイ」רוּחַ יהוהなしにはなにひとつ神の働きをすることはできなかったのです。
2. 「呼び求める者の泉」を備えておられる主
- 15章のもうひとつ顕著なことは、はじめてサムソンが主を「呼び求めて」いるということです。主の働きをする者はだれでも、働きの後で強い渇きを持ちます。つまり、力を消耗した結果としての渇きです。ここではサムソンが喉が渇いて主に水を求めています。しかしその水とは単に喉の渇きを潤す水だけでなく、霊的な力の回復のためのいのちの水をも意味しています。その証拠に、原文では水を飲んで「元気を回復した」という箇所が「彼の霊は帰った(戻った)「シューヴ・ルーアッハ」שׁוּב רוּחַとあるからです。
- 主は主を呼び求める者のために、今日も「エン・ハコル」、つまり「呼び求める者の泉」を備えておられます。新共同訳では「祈る者の泉」と訳しています。「泉」と訳さた「エン」は「アイン」で、普通は「目」を意味しますが、ここでは「源泉、泉」という意味で使われています。イエスが語られたように「わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」(ヨハネ4:14)を想起させます。
- 主のための働きの後には「主の霊」が消費され、枯渇します。それゆえ生き返るためには、主を呼び求めなければなりません。主は渇きを覚えて呼び求める者に対し、いつでも、どこでも、だれにでも、例外なく「エン・コルレ」を備えておられます。そして、その者の霊を再度び与えて元気を回復させてくださるのです。特に、主の働きを担う者たちはこの特権を用いなければ働きを続けることは到底できません。
主を待ち望む者は、新しく力を得、
鷲のように翼をかって上ることができる。
走ってもたゆまず、歩いても疲れない。(イザヤ40:31)
2012.5.1
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