****** 教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

天の御国における幸いな人々

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4. 天の御国における幸いな人々

【聖書箇所】マタイの福音書5章3~10節

ベレーシート

  • 前回は、マタイの福音書5章1~2節に記されている「山上の説教」の舞台的背景を説明する記述の中に、神の驚くべき秘密が隠されていることを学びました。イェシュアの「教え」の働き(Teaching)、「宣教」の働き(Preaching)、「いやし」の働き(Healing)、そしてイェシュアのすべての⾏為(⾏動)の一つひとつ(前回は「⼭」「登る」「座る」「弟⼦」を取り上げました)、さらにはそれに付随する地名や人名などにも、すべて神の秘密が隠されています。そうした一つひとつの秘密のパズルが見事に組み合わされていることを知ることによって、私たちはますます神のご計画とみこころ、その御旨と目的の完成である「天の御国」(神の支配)のすばらしさに目が開かれ、その豊かさに驚かされるだけでなく、それが神の御子イェシュアによってもたらされているということをよりはっきりと確信することになると信じます。教会において、単に、主のための働き(奉仕)や愛の実践を強調されるだけでは、やがて燃え尽きてしまうはずです。むしろ神の心をみことばを通して知ることは決して無駄なことではなく、むしろ私たちの内から新たないのちがあふれ、流れるようになる近道であると信じます。
  • しかも、イェシュアが教え宣べ伝えられた「御国の福音」の秘密は、神がご自身を啓示するために選ばれたヘブル語によって、あるいは、ヘブル的概念に戻して解釈する時にはじめて見えて来ると信じます。これを、私は「ヘブル的視点から聖書を読み解く」という言い方をしています。新約聖書はギリシア語によって書かれましたが、それは「天の御国の福音」が翻訳された言語として、あらゆる国々の言語に翻訳される言語の「型」(あるいは代表)として位置づけられます。事実、私たちが読んでいる日本語に翻訳された聖書も「神の言葉」です。ギリシア語で書かれた聖書も然りですが、そのすべてをヘブル的ルーツに立ち帰って解釈することが不可欠な時代となって来ています。なぜなら、聖書のルーツはすべてヘブル的なものだからです。したがって、常にそこへ遡及(そきゅう=さかのぼること)しなければなりません。具体的には、日本語をギリシア語に、そしてギリシア語をヘブル語に戻して解釈していくことを意味しています。これからの私のマタイの福音書の説教は、そうした視点から読み解こうとする試みであることをご理解していただければと思います。
  • 本題に入る前に、前回、5章2節でイェシュアが「口を開いて、語られた」というところでお話しできなかったことを付け加えておきたいと思います。2節に、「そこで、イエスは⼝を開き、彼らに教えて、⾔ われた。」とあります。⼀⾒ 、当たり前のように思える表現ですが、ヘブル的視点から見るとき、当たり前でなくなるのです。イェシュアが⼝を開く前の状態(公生涯に入る前まで)は、主のみおしえである「トーラー」が常に瞑想されており、イェシュアの⼼には神のみおしえが絶えず反芻されていることを考えなければなりません。その延長線上において、⼝を開くことで、主のみおしえがあふれ流れるようにして出て来たことをイメージしてみてください。
  • そのイェシュアが「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」と言って、サタンの「あなたが神の子なら、この石がパンになるように命じなさい」という誘惑を退けました(マタイ4:4)。サタンの戦略は、石をパンにすることで多くの人々のニーズが満たされ、そのことによって多くの人々から受け入れられ、その程度で済ませようとすることへの誘惑でした。マタイの4章4節の「神の口から出る一つ一つのことばによる」ということばを、ヨハネ版にしますと、「わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。」(6:51)となります。それゆえ、イェシュアは人々に「なくなる食物(朽ちる食物)のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい(=尋ね求めることを意味します)。それこそ、人の子があなたがたに与えるものです。この人の子を父すなわち神が認証されたからです。」(ヨハネ6:27)と言われました。このことを悟った者こそ、はじめて主の祈りの中にある「日ごとの糧をきょうもお与えください。」(マタイ6:11、ルカ11:3)と祈ることができるのです。
  • ちなみに、この「主の祈り」は「御国が地上に来ることを祈る祈り」です。その御国がこの地上に実現(完成)するとき、その来るべき日には、必要欠くべからざる神のことばによって生かしてくださいという祈りなのです。神が与えようとするパンは、御国においてそこに生きる者たちに必要な神のことばなのです。それを「日ごとの糧」としています。私たちが生きるために必要な食物のための祈りではありません。しかも、その「日ごとの糧をきょうもお与えください」の「きょう」とは、昨日・今日・明日という意味での「今日」ではありません。主の定めの時としての「きょう」を意味します。「きょうダビデの町に救い主がお生まれになりました。」(ルカ2:11)とか、十字架上のイェシュアに対して「あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」と願った強盗に対するイェシュアの答えにある、「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」(ルカ23:42~43)にある「きょう」も、主の定めとしての「きょう」です。もし十字架上で死んだ日が「今日」という意味だとすれば、「あなたは今日、わたしとともによみにいます」ということになってしまいます。したがって、主の祈りの「きょう」という言葉は「主の定めの日」という意味で、御国が来た日を意味するのです。
  • 『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と言われたイェシュアが、今やそれを「生けるパン、いのちのパン」として、ご自身の口から語ろうとしているのです。それがマタイ5章2節の「口を開いて、語る」という意味です。しかしこの「パン」にあずかった多くの民衆と弟子たちは、この奇蹟(パンの奇蹟)が意味することを正しく理解せず、悟らなかったとヨハネは記しています。しかも、すばらしい奇蹟の恵みにあずかった弟子たちの多くの者が、この奇蹟が意味するイェシュアのメッセージに対して「これはひどいことばだ。こんなことを誰が聞いておられようか。」とつぶやき、イェシュアの元から離れ去ったとも記しています。
  • 私が大学1年の時に、教会に行ってはじめて聖書を手にして読みました。まずマタイの福音書の最初の1章にある系図はまったく分かりませんでしたが、数ページ飛ばして5章から読み始めた時に、すごいことが書かれていることを知りました。この基準から見れば、自分は罪人だと突きつけられたからです。同時にすごい本だと思いました。というのは、人間の真の姿を包み隠すことなく記している本だと気づかされたのです。私は聖書を読み始めてから、聖書が自分の人生に深くかかわるようになるということを直感的に感じました。そして、私が今日まで神に対してつまずくことなく来られたのも、ただただ神の選びとあわれみのゆえであったと信じています。
  • さて、前置きが長くなりましたが、これは決して付け足しではなく、これから話そうとすることと密接な関係があるからです。つまり、山上の説教とは「きょう」の話なのです。つまり神の定めとしての「きょう」、つまり、御国がこの地上に実現することを前提とした話だということです。その「山上の説教」には「八つの幸い」について記されています。「八つの幸い」の個々の幸いを取り上げる前に、総論的な観点、その全体像をまず見たいと思います。この「八つの幸い」はきわめて美しい整った構成を持っています。

1. 「すでに今」と「いまだ」の緊張関係を表す時制(御国における「現在形」と「未来形」)

  • 以下の図を観察すると、第一の幸いと第八の幸いの理由を示す動詞が現在形であること。そしてそれに囲まれるようにして他の幸いの理由を示す動詞が未来形であることが分かります。これは、「天の御国が近づいた」という福音における「すでに今」と「いまだ」との緊張関係を如実に表しています。すでに今手にできる幸いな現実と、やがて時が来た時に手にできる完全な幸いの約束です。この時制を知るだけでも、ここで語られている幸いとは、叱咤激励したり、私たちの努力で実現できたりするものではないことがわかります。天の御国はすでに近づいています(到着しています)が、その御国の祝福の実現は将来において確実に約束されているのです。なぜ確実なのかと言えば、それが神の約束だからです。

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2. 天の御国における幸いの八つの面

(1) 天の御国の幸いは、八つの面をもっている 

  • 天の御国はどのような人々によって成り立っているのでしょうか。それは「幸いな人々」によってです。「八つの幸い」は天の御国に住む人々の特権的幸いです。八つの中のどれかがあればそれで良いということではなく、天の御国に住む人々は八つのすべての面をもっているのです。いくつかがあればそれで幸いということではなく、八つのすべての面をもっている人々です。つまり、それは八つで一つなのです。以下の図はそのことを表しています。天の御国とは、八つの幸いのすべての面を持った民によって成り立っている神の支配(王国)なのです。

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  • 御国の王であるメシアは神のご計画を実現するために地上再臨されますが、それまでの間、御国の民はこの神のご計画を知りつつ、御霊の助けによって生き、かつ、待望することが求められています。

(2)「八つの幸い」はさらに二つのグルーブに分けられる 

  • 八つの幸いは二つに区分される(前半が3~6節、後半が7~10節)と言われます。その理由は以下の三つです(中澤啓介「マタイの福音書注解 (上)」、299頁参照)。
  • 理由(1) 6節と10節にそれぞれ「義」という語彙があること。
    理由(2) 前半の幸いな人々には、以下のようにすべてギリシア語の「ピー」(π)の文字で始まる語彙が用いられています。以下、原文は複数形ですが、ここでは単数形で示します。
    ①3節 「貧しい人」(「プトーコス」πτωχός)
    ②4節 「悲しむ人」(「ペンセオー」πενθέω)
    ③5節 「柔和な人」(「プラウス」πραΰς)
    ④6節 「義に飢え渇いている人」(「ペイナオー」πεινάω)
    以上、ひとつのまとまりがあります。ところが後半の7~10節はこのようにはなっていません。
    理由(3) 前半の四つが神に対する姿勢を表すのに対して、後半の四つは人に対しての姿勢を表しています。

(3) 八という数字は御国の数字

  • マタイ5章の「御国における幸いな人々」が「八つの幸いな面」を持っているのと同様に、マタイの福音書13章でも、天の御国の特徴が八つのたとえによって語られます。同じ構造を持っています。前半の①~④は群衆に対して、後半の⑤~⑧は弟子たちのために語られています。ちなみに、聖書で「八」(8)という数字はイェシュアの数字です。つまり、神のご計画がイェシュアの再臨によって実現することを象徴する数字だということを心に留めておきましょう。 

①「種を蒔くたとえ」(13:1~23)
②「毒麦のたとえ」(13:24~30)
③「からし種のたとえ」(13:31~32)
④「パン種のたとえ」(13:33)
⑤「畑に隠された宝のたとえ」(13:44)
⑥「真珠のたとえ」(13:45~46)
⑦「引き網のたとえ」(13:47~50)
⑧「一家の主人のたとえ」(13:51~52)


3. ギリシア語の「現在形」の理解―翻訳の問題として(ギリシア的表現とヘブル的表現)

  • 聖書をヘブル的視点から読み解いて行こうとするとき、ギリシア語の持っている特徴とヘブル語の持っている特徴をあらかじめ知っておくことが重要です。一例として、マタイ5章3節の「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。」(新改訳第三版)という部分をいろいろな訳で見てみましょう。以下は、原文のギリシア語とそれをヘブル語に戻したものです。

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①日本語の文法に准じた訳
【口語訳】「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。
【新改訳改訂3】「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。
【新共同訳】「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。
【フランシスコ会訳】「自分の貧しさを知る人は幸いである。天の国はかれらのものだからである。」
【NIV】 Blessed are the poor in spirit, for theirs is the kingdom of heaven.

②直訳、あるいは、逐語訳
【文語訳】幸福さいわいなるかな、心の貧しき者。天国はその人のものなり。
【岩隈訳】幸福だ、霊において貧しい人たちは、なぜなら、天の国は彼らのものだから。
【塚本訳】ああ、幸いだ。神に寄りすがる貧しい人たち、天の国はその人たちのものとなるのだから。
【永井訳】福さいはいなる者は霊に於て貧しき者〔なり〕。そは天国は彼等のものなればなり。

③意訳
【LIB】「心の貧しさを知る謙そんな人は幸福です。 天国はそういう人に与えられるからです。
【柳生訳】「神によろこばれるほんとうに幸福な人は、だれだと思うか。ほんとうに幸福な人、それは自我を捨てた人たちである。天国は彼らのためにあるのだ。

④私訳。
〔ギリシア語から〕幸いなことよ、霊の貧しい者たち、(なぜなら)天の御国は彼らのものだからです。
〔ヘブル語から〕 幸いなことよ、霊の貧しい者たち、(なぜなら)天の御国は彼らのものだから。

  • 3節の後半をヘブル語に戻すと以下のようになります。

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  • ヘブル語では所有を表わす前置詞の「ラー」(לָ)が、「彼ら」を意味する3人称複数の「ヘン」(הֶן)という代名詞の前に置かれているだけです。ところが、ギリシア語の原文には「~だからです」という存在を意味するbe動詞が用いられています。ギリシア語原文は以下の通りです。

画像の説明

  • 黄色のマーカーの部分の「エステイン」(ἐστιν)がbe動詞の3人称男性複数形です。その動詞の基本形(1人称単数)は「エイミ」(εἰμι)です。ちなみに、ギリシア語とヘブル語では基本形が異なります。ギリシア語の基本形は英語と同様に1人称単数男性が基本形 (つまり辞書で調べる時の形のこと)です。ところが、ヘブル語の基本形は3人称単数男性です。有名なイェシュアの自己証言である「わたしは、~です」という定式は、「エゴー・エイミ」(ἐγώ εἰμι)と表記されます。例えば、「わたしはいのちのパンです」を、英語では I am the bread of life. となりますが、ギリシア語では「エゴー・エイミ・ホ・アルトス・テース・ゾーエース」(ἐγώ εἰμι ὁ ἄρτος τῆς ζωῆς)となります。ところが、ヘブル語では「アニー・フー・レヘム・ハハッイーム」(החַַיּיִם אֲניִ הוּא לחֶֶם)と表記され、これで「わたしこそ生けるパン」となります。つまり、ヘブル語はbe動詞を使わないで表わすのです。それゆえ、ここからが重要です。ギリシア語も日本語もbe動詞の「~です」という語彙を伴って訳しています。なぜなら、それがないと文章として成立しないからです。ではなぜヘブル語にはそれがないのでしょうか。その理由は、神ご自身が、存在を意味する be 動詞の根源だからです。少し説明したいと思います。
  • 「主」がご自身の名前をはじめてモーセに啓示した箇所があります。それはモーセが主の名前を尋ねたからです。すでにここにユダヤ人特有の教育法である「問いかけ」の元祖があります。モーセが始めているというのは面白いです。その箇所は出エジプト記3章14節です。そこでは、主の名前が「エフイェ・アシェル・エフイェ」(אֶחְיֶה אֲשֶׁר אֶחְיֶה)となっています。「エフイェ」(אֶחְיֶה)は「わたしはある」という意味ですが、その語源となる動詞が3人称単数形「ハーヤー」(חָיָה)なのです。つまり、主が語られるとき、あるいは主とかかわる事柄には、そこに主がおられるので、存在を意味するbe動詞が必要ないのです。ヘブル語の「わたしこそいのちのパン」とは、「わたしがそれです」というbe 動詞の意味をすでに含んでいるのです。というのは、語っておられる方が永遠に存在される方であり、その方が語ることの中に永遠性が含まれているのです。したがってヘブル的表現の「わたしこそいのちのパン」という表現は、いつの時代においてもそのことばが変わることのない永遠性(=真理)をもっていることを意味しています。したがって、マタイ5章3節のギリシア語原文の「天の御国はあなたがたのものです」(3節、10節)というbe動詞の現在形には永遠性がこめられた意味合いをもっているということなのです。その中で、主の定めの時に、第二から第七までの「幸い」が実現すると言えます。

ベアハリート 

  • ギリシア語が英語や日本語と同様に、「~です」という意味を持つbe動詞を置くのは、文を完成させる上で文法上必要だからです。そこがヘブル語との違いです。ヘブル語では、たとえ将来において確実に実現することであるなら、完了形で記されることもあるのです。これは「預言的完了形」と言われます。そのような用法は他の言語にないと言えるのではないでしょうか。ギリシア語で表される現在形をヘブル的視点から見るとき、たとえヘブル語訳に現在形がなくとも、そこには出エジプト記3章14節に啓示された「エフイェ・アシェル・エフイェ」(「わたしは、『わたしはある』という者である」という意味)の主の名前に込められたゆるぎなき永遠的存在を理解する必要があります。実際に、上記の名前を正確に訳すことは至難のわざなのです。
  • 詩篇1篇にある「アシュレー・ハーイーシュ」(אַשְׁרֵי הָאִישׁ)として預言されているイェシュアは、聖書にあるすべての「アシュレー」定式の原型です。詩篇2篇では、「幸いなことよ。すべて主に身を避ける人(原文は複数)は。」となっています。「身を避ける」(「逃げ込む」「避け所とする」「ハーサー」חָסָה)者たちとは、主を「信頼する」ことを意味するヘブル的表現です。つまり「ハーイーシュ」である「イェシュア」を信頼する者たちを、天の御国では「霊の貧しい者たち」「悲しむ者たち」「柔和な者たち」「義に飢え渇く者たち」「あわれみ深い者たち」「心のきよい者たち」「平和をつくる者たち」「義のために迫害されている者たち」と称しているのです。次回から、御国の幸いな者たちについて、一つひとつ学んでいきたいと思います。重要なことは、そのような人にならなければ、天の御国に入ることができないということでは決してありません。むしろ、天の御国においてはそのような者とさせていただける御国の福音と神の恵みの福音が語られているのです。やがて自分が御国においてどのような者として祝福を受けるのか、その究極の姿を絶えず思い起こすことです。そしてそれが私たちの内にすでに始まっていることを心に留めたいと思います。                          

       

    2017.2.12


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