****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

天の御国には「幸いな人」が住む(後半)

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6. 天の御国には「幸いな人」が住む(後半)

【聖書箇所】マタイの福音書5章7~12節

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  • 前回は「八つの幸い」を二つに分けて、その前半の部分である「四つの幸い」について取り上げましたが、今回はその後半の部分を取り上げます。タイトルは「天の御国には『幸いな人』が住む」(2)です。今回も前回と同様に、エドゥアルト・シュヴァイツァーの「八つの幸い」の後半の訳文を紹介しておきます。

7 あわれみ深い者たちに救いがある。なぜなら彼らはあわれみを見出すであろうから。
8 清い心の者たちに救いがある。なぜなら彼らは神を見るであろうから。
9 平和をうち立てる者たちに救いがある。なぜなら神の子らと呼ばれるであろうから。
10 義のゆえに迫害される者たちに救いがある。なぜなら天国は彼らのものだから。

  • 天の御国は、上記に記されているように、「あわれみ深い者たち」「きよい心の者たち」「平和をうち立てる者たち」「義のゆえに迫害される者たち」によって成り立っているところだということです。今度は新改訳で同じ部分をゆっくりと読んでみましょう。

【新改訳改訂第3版】マタイの福音書5章7~10節
7 あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるから。(未来形)
8 心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るから。(未来形)
9 平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。(未来形)
10 義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。 (現在形)

  • 後半の幸いな者たちにある四つの面は互いに密接につながっています。そもそも八つの幸いのすべては、天の御国においては、幸いな一人のうちに八つの面があることをすでにお話ししました。しかも「八」という数はイェシュアの象徴数です。詩篇1篇の冒頭にある「幸いなのは、その人」(「アシュレー・ハーイーッシュ」אַשְׁרֵי הָאִישׁ)の「その人」が、御子イェシュアを預言的に指し示しているように、マタイの山上の説教の冒頭にある八つの幸いが、すべてイェシュア自身のうちにあることは明らかです。なぜなら、イェシュアこそ御国の王だからです。同様に、御国を構成する者たちもイェシュアのうちにある八つの幸いを持っているのです。
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  • では早速、後半にある「幸いな人たち」を順に取り上げていきたいと思います。

1. あわれみ深いとはどういうことか

(1) 「あわれみ深い」という語彙 

  • 八つの幸いな者たちの後半は、「あわれみ深い者たち」から始まります。「あわれみ深い」を意味するギリシア語は形容詞の「エレエーモーン」(ἐλεήμων)の複数形「エレエーモネス」(ἐλεήμονες)です。「あわれむ」という動詞の「エレエオー」(ἐλεἐω)は新約聖書で29回。共観福音書ではマタイが7回、マルコが3回、ルカは4回です。興味深いことに、共観福音書で共通しているのは盲人の「ダビデの子よ。あわれんでください」という嘆願です。イェシュアは盲人の目を開眼しています。ちなみに、ヨハネの福音書には「あわれむ」という動詞が使われていません。

(2) 「あわれみ」は神の重要な属性の一つ

  • 形容詞の「エレエーモーン」(ἐλεήμων)をヘブル語に戻すと「ラフーム」(רַחוּם)です。これが名詞になると男性形では「レヘム」(רֶחֶם)、女性形では「ラフマー」(רַחְמָה)です。この「あわれみ」は神の重要な属性の一つです。以下のみことばによれば、「あわれみ深い」という神の属性が最初に置かれています。

【新改訳改訂第3版】出エジプト記34章6節
【主】は彼の前を通り過ぎるとき、宣言された。
「【主】、【主】は、あわれみ深く(רַחוּם)、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、」

  • 「ラーハム」の名詞「レヘム」(רֶחֶם)は、胎、子宮、同情を意味します。子宮や胎はからだの中で唯一他者のために存在する器官です。そこからどんな相手であっても自分の内深くに受け入れる、抱き続けるという意味になるだけでなく、自分の血と肉、いのちまでも分け与えることを意味します。
  • 「エレエオー」(ἐλεἐω)の類義語に「かわいそうに思う、深くあわれむ」を意味する「スプランクニゾマイ」(σπλαγχνίζομαι)があります。新約では12回、そのうちの5回がマタイの福音書で使われています(9:36/14:14/15:32/18:27/20:34)。この語彙が登場した後には、必ず具体的な行為が発動されています。この語彙をヘブル語に換言すると「ラフマー」(רַחְמָה)の複数形「ラハミーム」(רַחֲמִים)に満たされた(נִתְמַלֵּא)状態となります。つまり、「かわいそうに思う」という「あわれみ深さ」は、不幸な人や弱者に対して心を動かされることを意味すると同時に、罪の赦しの大きさと深く結びついています。例えば、マタイ18章のたとえ話に「一万タラントの借金を免除された人」が登場します。しかし彼は百タラント貸していた仲間の者を捕まえて、借金を返すまで牢に投げ入れました。そのことに対するさばきが、以下のように記されています。

【新改訳改訂第3版】マタイの福音書18章32~33節
32 そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『悪いやつだ。おまえがあんなに頼んだからこそ借金全部を赦してやったのだ。
33 私がおまえをあわれんでやった(ἐλεἐω)ように、おまえも仲間をあわれんでやる(ἐλεἐω)べきではないか。』
※ここでの「あわれんでやる」のヘブル語訳が「ラーハム」(רָחַם)です。

(3) 終末における「定めの時」に現わされる「あわれみ」

  • 主のあわれみは、終末における「定めの時」において目に見える形で現わされます。

【新改訳改訂第3版】詩篇102篇12~14節
12 しかし、【主】よ。あなたはとこしえに御座に着き、あなたの御名は代々に及びます。
13 あなたは立ち上がり、シオンをあわれんでくださいます(רָחַם)。今やいつくしみ(חָנַן)の時です。定めの時(「モ―エード」מוֹעֵד)が来たからです。
14 まことに、あなたのしもべはシオンの石を愛し(רָצָה)、シオンのちりをいつくしみます(「慕います」חָנַן)。

  • 13節の「あなたは立ち上がり、シオンをあわれんでくださいます(רָחַם)。」とは、イスラエルの子孫を再び約束の地と神の元に連れ戻すことを意味しています。しかもそのシオンの再建は、究極的に神が栄光のうちに現われることとも深く関係しています。
  • イェシュアは「あわれみ深い者たち」は、やがて「あわれみを受ける」と約束されました。ここでの「受ける」は未来形の受動態です。つまり、御国が完成する時に神からの「あわれみ」を受けることが約束されています。「主の祈り」の中に以下の祈りがあります。

【新改訳改訂第3版】マタイの福音書6章12節
私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。

  • 上記の祈りは、マタイ5章7節にある「あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるから。」という主の約束を背景にしたものと言えないでしょうか。他者に対する「あわれみ」の心は、私たちが神からどれほどの赦しが与えられたかを計るバロメーターでもあります。私たちは、他者に対して、あわれみの心を出し惜しみしていないかどうかを今一度探ってみる必要があります。

2. 心がきよいとはどういうことか

  • 「幸いな人」の第六は、「心のきよい人々」(5:8)です。ここでの「心のきよさ」とは、この世の価値観や偏見や妬みによって人を見ることなく、純粋にきよい思い、すなわち神の視点から人を見ることを意味します。また言葉にも偽りがなく、道徳的にも潔白であることを意味します。
  • 「きよい者」という語彙としてヘブル語では「バル」(בַּר)が使われます。「バル」は「息子、子」、および「穀物、麦」をも意味し、同じく名詞の「ボール」(בֹּר)は道徳的な意味での「潔白、きよさ」を意味します。形容詞としての「バル」(בַּר)は「混じりけのない、きよい」状態を意味します。

【新改訳改訂第3版】詩篇24篇3~5節
3 だれが、【主】の山に登りえようか。だれが、その聖なる所に立ちえようか。
4 手がきよく、心がきよらかな者、そのたましいをむなしいことに向けず、欺き誓わなかった人。
5 その人は【主】から祝福を受け、その救いの神から義を受ける。

  • 4節にある「心がきよらかな者」(単数形)が「バル・レーヴァーヴ」(בַּר־לֵבָב)です。「だれが、【主】の山に登りえようか。だれが、その聖なる所に立ちえようか。」とこの詩篇は問いかけていますが、「主の山」と「聖なる所」は同義的パラレリズムとなっており、「エルサレム」を意味しています。そこにだれが「登る」のかという表現を、ヘブル的視点から考えるならば、この詩篇がイェシュアのことを預言的に啓示していることが分かります。なぜなら、へブル語で「登る、上る」という動詞「アーラー」(עָלָה)は、単に「登る」という意味の他に、「(いけにえを)ささげる」とか、「反芻する」という意味があるからです。「反芻する」動物はきよい動物であり、全焼のいけにえや罪のいけにえとして祭壇にささげられる牛や羊です。「主の山に登る」という行為は、やがて聖なる山エルサレムにおいて、神にささげられる神の小羊イェシュアを預言的に象徴しています。つまり、「だれが、【主】の山に登りえようか。だれが、その聖なる所に立ちえようか。」、それはイェシュアしかいないのです。しかも、その者は「心がきよらかな者」でなければならないのです。マタイの5章8節に「心のきよい者たちは幸いです。」とありますが、それをヘブル語にすると「アシュレー・バーレー・レーヴァーヴ」となります。「バーレー」は「バル」の複数形です。つまり、ここでの「心のきよい者」とはイェシュアにつながる者たちであることを意味しています。というのは、「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう。」(エレミヤ書17:9)とあるように、私たちの心は絶望的な状態にあります。しかし神は、イェシュアの血潮を通して、私たちの汚れた心をきよめてくださるのです。そのような者は幸いなのです。なぜなら、「心のきよい者」は、やがて神を見る(仰ぎ見る)からです。
  • マタイ5章8節の「見る」はギリシア語の「ホラオー」(ὁράω)が使われており、新約聖書において、「神を見る」というフレーズはこの箇所にしかありません。つまり、「神を見る」ということは終末論的希望なのです。旧約聖書では神を見た者は死ぬと考えられていました。したがって、御子イェシュアを除いては、「いまだかつて神を見た者はいない」のです(ヨハネ1:18、6:46、Ⅰヨハネ4:12)。神から出たイェシュアが神を説き明かされたことによって、「わたしを見た者は父を見たのです」と語られています。確かに今においても神を見て歩んではいますが、不完全であることは言うまでもありません。しかしやがては完全に「神の御顔を仰ぎ見る」ようになるのです(ヨハネの黙示録22:4、Ⅰコリント13:12)。
  • 「神を見る」の「見る」(「ホラオー」ὁράω)をヘブル語に戻す時、二つの語彙が用いられています。一つは「ラーアー」(רָאָה)の未完了形、もう一つは「ハーザー」(חָזָה)の未完了形です。この語彙の違いは何なのでしょうか。それは、前者が直接的であるのに対し、後者は間接的と言えます。間接的というのは、主ご自身に附随するものを見るということで、それが主ご自身の「麗しさ」や「力」や「栄光」であったり、あるいは、主のなされる「みわざ」や「復讐」であったりします。つまり、それらも含めて、やがてキリストの再臨によって完成される御国において「神を見る(仰ぎ見る)」ということが実現するのだと考えられます。エデンの園で主の御顔を避けた人間が、主の家において、「神の御顔を仰ぎ見る」(黙示録22:4)ことこそ、神のご計画の完成、救いの成就を意味しているのです。

3. 「平和をつくる」とはどういうことか

(1) 「平和をつくる」という様々な訳

  • 「幸いな人」の第七は、「平和をつくる人々」(5:9)です。新改訳は「平和をつくる」と訳していますが、他の聖書では、「平和をつくり出す」(口語訳)、「平和を実現する」(新共同訳)、「平和をうち立てる」(E.シュヴァイツァー訳)、「平和を築く」(宮平訳)などと訳されています。英語訳では「ザ・ピースメーカーズ」(the peacemakers)です。
  • 「平和をつくる者たち」と訳されたギリシア語の「ホイ・エイレーノポイオイ」(οἱ εἰρηνοποιοί)は、新約聖書ではこの箇所にしか使われていない語彙です。これをヘブル語にすると「ロードゥフェー・シャローム」(רֹדְפֵי שָׁלוֹם)となります。「ロードゥフェー」(רֹדְפֵי)は、動詞「ラーダフ」(רָדַף)の強意形の分詞複数形です。この「ラーダフ」(רָדַף)の本来の意味は「追う、迫害する」という意味ですが、強意形ピエル態では「追い求める」という意味になります。したがってヘブル的ニュアンスとしては「平和を追い求める者たち」という意味になります。興味深いことに、この「ラーダフ」(רָדַף)が、「幸いな人」の第八である「義のために迫害されている者」にも使われているのです。詳しくは後で説明します。
  • 神の御子イェシュアの十字架の血潮によって神との和解がなされました。この土台に基づいて人と人の和解が成立します。ですから、人との平和を追い求め続けることは神のみこころであり、やがて神から「神の子ども」と呼ばれるようになるのです。なぜなら、天の御国には、平和を追い求め、平和をつくろうとして来た者たちがいるところだからです。
  • 天の御国であるメシア王国の特徴の一つは「普遍的な平和」です。イザヤ書11章6~16節には以下のように、メシア的王国における普遍的平和が描かれています。
    ① 人間と自然界における平和 (6~9節)
    ② イスラエルと諸国民との平和 (10節)
    ③ エフライムとユダの平和―全イスラエルの回復と平和―(11~16節)
  • キリストの地上再臨によって、「普遍的平和」がすべての領域において実現します。神と人のかかわりにおいて、また人と人とのかかわりにおいて、また人間と動物とのかかわりにおいて、また神の民と異邦人とのかかわりにおいて、また、神の民であるエフライム(北イスラエル)と南ユダとのかかわりにおいて、天と地のすべての領域において、神のシャーロームが回復します。そのことを指して「普遍的平和」ということばを使っています。神のご計画における「主の家」では一切の争いが駆逐され、普遍的平和が地上に実現されるのです。そのご計画が実現されるまで、キリストの平和を受けた者が、自分の周囲にいる人々のみならず、自然界や世界におけるさまざまなところにおいて「平和をつくる」「平和を追い求める」ことが求められています。そのことに参与する者たちのことを、ここでは「平和をつくる者たち」「平和を築く者たち」「平和を追い求める者たち」などと言われています。このような働きができる者は、「あわれみ深い者」であり、「心のきよい者」です。でなければ、とてもできないことです。

(2) 神の子どもと呼ばれるとは

  • 「神の子どもと呼ばれるようになる」とは単なる立場の問題ではありません。なぜなら、神の子どもとされることは、イェシュアを信じることによってすでにその立場に置かれているからです。しかしここでの「神の子どもと呼ばれるようになる」とは、立場的な意味においてではなく、実質的な意味において神の子どもと呼ばれるのです。つまり「神の子ども」と呼ばれるにふさわしい完全な者となることを意味しています。御国(メシア王国)において争いはなくなります。なぜなら、御国は「平和を追い求める」者たちで満たされているからです。朽ちることのない新しいからだが与えられることで、神の平和を実現できる者に変えられてしまうからです。
  • そしてここでの「神の子ども」は、ヘブル語では「ベーン」(בֵּן)の複数形ですが、それは単に「子」を意味するだけでなく、御国を構成する「息子、娘」「子孫」「市民」「弟子」を含めた意味合いをもっています。

4. 「義のために迫害されている」とはどういうことか

  • 「幸いな人」の第八は「義のために迫害されている人々」(5:10)です。義のために苦しむのは「迫害」です。「迫害されている者たち」(「デディオーグメノイ」δεδιωγμένοι)は完了形受動態分詞で、正確には「迫害されてきた者たち」という意味です。すでに迫害を受け、それに耐えてきた者たちのことが語られています。
  • 「義」(「ディカイオスネー」δικαιοσύνη)はマタイの福音書では重要な概念です。すでに5章6節の「義に飢え渇く者たち」で「義」という語彙が登場しています。
    ①「もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、入れません。」(5:20)
    ②「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(6:33)
  • 律法学者やパリサイ人にまさる義を求めるのでなければ、決して天の御国に入ることはできず、また、義を何よりも優先すべき第一のこととして求め続けるべきであることが強調されています。すべての必要はその付録として与えられることが強調されています。
  • 「義」とは神との正しい関係を表わす概念ですが、その関係に「飢え渇く」という積極的な姿勢を持つ者たちこそ、御国を構成する者たちなのです。「義」は神が人のために備えてくれた「救い」とも言える重要な語彙です。聖書における「義」は、御子イェシュアを信じる信仰によって与えられます。私たちの行いによる義ではありません。信仰による「義」(あるいは「救い」)です。信仰が神の賜物であるならば、義も救いも神の賜物なのです。
  • 第六の至福として「平和をつくる者」とは「平和を追い求める者」であることを学びましたが、第八の至福である「義のために迫害されてきた者」とは、「義を追い求めている者」とも解釈できます(ダヴィッド・ビヴィン著『イエスはヘブライ語を話したか』117~119頁、ミルトス発行)。というのは、ヘブル語の「ラーダフ」(רָדַף)という動詞が「迫害する、迫害される」という意味と「追い求める」という意味を持っているからです。これは一つの語彙の中に両義性をもつヘブル語の特徴です。その意味で解釈するなら、「義を追い求める者は幸いです。天の御国はその人たちのもの」となります。なぜなら天の御国は彼らのような者たちによって成り立っているからです。さらに、「義」を「救い」と言い換えるとすれば、「救いを追い求める者は幸いです。天の御国はこのような者たちによって構成されているから」となります。
  • これまで、ギリシア語で書かれたマタイの福音書がオリジナルであると信じられてきましたが、ヘブル語で書かれたマタイの福音書がオリジナルで、そのギリシアごの翻訳がだれかによってなされたものだという見解があります。事実、古代のキリスト教の教父たち(たとえば、エウセビオス、ヒエロニムスなど)がそのことを伝えているのです。それゆえ、ギリシア語をヘブル語に戻してみる時、ギリシア語では見えなかったことが見えてくるのです。これはこれからのキリスト教会における新しい課題なのです。そのためには、ギリシア語やヘブル語に対する深い知識が求められることは言うまでもありません。

ベアハリートイェシュアのために迫害されるあなたがたは幸い

  • 山上の説教の「八つの幸い」には、天の御国はどのような人によって構成されるのかということが語られています。ですから、そこでは、主の弟子たちがどう生きなければならないかという具体的な教えは語られていません。天の御国のヴィジョンが示されているのです。そのことをまず知ることが重要です。それを知るなら、そこから私たちがどう生きなければならないのか、主が望んでおられるみこころとは何かが見えて来るからです。以下に取り上げる部分もその一つです。そこで最後に、マタイの福音書5章11~12節を見たいと思います。

【新改訳改訂第3版】マタイの福音書5章11~12節
11 わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。
12 喜びなさい。喜びおどりなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々はそのように迫害したのです。

  • 11~12節はこれまでのような詩文体から散文体に変化しています。八つのパターンとは異なる、附随した事柄と考えることができます。つまり最後の第八の至福とは異なっていますが、「迫害」というテーマと関連して語られた事柄という理解です。11~12節には、「わたし」という人称と「あなたがた」という人称が出てきます。ここでの「わたし」はイェシュアのことであり、「あなたがた」とはイェシュアの弟子たちのことであることは明白です。テーマとしては第八の至福と関連していますが、イェシュアのために受ける迫害やありもしないことで悪口を浴びせかけられることは、当然予想されることとして語られています。しかし「喜びなさい。喜び踊りなさい。なぜなら、天ではあなたがたの報いは大きいから」とイェシュアは弟子たちを励ましています。このような励ましは、主の弟子たちによって書かれた手紙(パウロ書簡、ペテロ書簡)の中にも多く見ることができます。
  • 事実、「使徒の働き」にはイェシュアのために受けた信仰の試練が綴られています。その試練に対する心の備えは、主イェシュアに対する「終わりの日」における確かな約束への信仰です。それゆえに、イェシュア、および初代教会において使徒たちによって語られた「御国の福音」を正しく理解することが重要です。なぜなら、それに対する理解と悟りが勝利をもたらすからです。その一つの例を挙げたいと思います。

【新改訳改訂第3版】Ⅰペテロの手紙4章12~14節
12 愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく、
13 むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びおどる者となるためです。
14 もしキリストの名のために非難を受けるなら、あなたがたは幸いです。なぜなら、栄光の御霊、すなわち神の御霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。


2017.3.12


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