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天地創造以前からあった知恵(2)ー箴言の最高峰ー

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箴言は「父から子への知恵」、主にある家庭教育の根幹を学ぶ最高のテキストです。

19. 天地創造以前からあった知恵(2)ー箴言の最高峰ー

【聖書箇所】8章28〜36節

ベレーシート

  • 22〜27節では知恵の先在性が扱われていましたが、28〜31節では、「知恵であるわたし」が、万物を「組み立てる者」であることが強調されています。30節に「わたしは、組み立てる者」(「エフイェ・アーモーンאֶהְיֶה אָמוֹן)とあります。モーセが自分を召し出した神に対してその名を聞いたとき、神は「わたしは、『わたしはある』という者である」と言われました。「わたしは、『わたしはある』という者である」はヘブル語で「エフイェ・アシェル・エフイェ」(אֶהְיֶה אֲשֶׁר אֶהְיֶה)と表記されますが、ここでは知恵を「エフイェ・アーモーン」(אֶהְיֶה אָמוֹן)としています。
  • 「アーモーン」の多くは、人物の固有名詞「アモン」として聖書の中に出てきますが、箴言では「組み立てる者、熟練工、名匠、匠、巧みな者、技術者」として使われています。知恵は万物の「名匠」なのです。

1. 万物の名匠としての知恵

  • 宇宙にしても、地球の生態系にしても、人間にしても、そのすべてが言葉では言い表せないほど緻密に、かつ精巧に造られています。そのデザインは決して偶然にできたものではなく、知恵である方によって造られているのです。私たちが目にするものは、そのごく一部に過ぎません。目に見えるものは、目に見えないものによって支えられているのです。それゆえ私たちは、使徒パウロと共に「見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」と言わなければなりません。
大祭司の装束.JPG
  • 聖書の中で「知恵」(「ホフマー」חָכְמָה)ということばが最初に登場するのは出エジプト記28章3節ですが、そこでは、神が「知恵の霊を満たした、心に知恵のある者たち」に大祭司の聖なる装束を作らせるようにアロンに命じています。そこで彼らは金色や、青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布を用い、巧みなわざでエポデを作りました。
  • この「巧みなわざ」が重要です。神の幕屋も巧みに設計されて造られています。幕屋の製作のために神に名指しで召し出されたのは「ウリの子ベツァルエル」でした(出31:1)。彼は金や銀や青銅の細工を巧みに設計しました。そのために彼に神の知恵が授けられました。ちなみに「ウリの子」(בֶּן־אוּרִי)とは、「光の子」を意味します。「ベツァルエル」(בּצַלְאֵל)は、「神の陰をもって」という意味で、「ウリの子ベツァルエル」で、「神の光の陰をもって、本体である光を示す者」という意味と考えられます。「知恵が与えられる」ということは、神の目に見えない本源的なものを、目に見える形で写し出すことのできる能力を意味するのです。幕屋そのものが、神の目に見えない本体(実体)を目に見える形として表わした写しなのです。
  • 「知恵であるわたし」とは御子イェシュアのことです。彼は御父のデザインを目に見える形に創造された方です。そこには緻密さと測り知れないかかわりの秘儀が隠されています。と同時に、神のご計画とみこころ、そして御旨と目的とが表されているのです。そこにはなんと神の喜びと楽しみがあるのです。そのことが箴言8章30~31節に記されています。

【新改訳改訂第3版】箴言8章30~31節
30 わたしは神のかたわらで、これを組み立てる者であった。
わたしは毎日喜び、いつも御前で楽しみ、
31 神の地、この世界で楽しみ、人の子らを喜んだ。


【新共同訳】箴言8章30~31節
30 御もとにあって、わたしは巧みな者となり/
日々、主を楽しませる者となって/絶えず主の御前で楽を奏し
31 主の造られたこの地上の人々と共に楽を奏し/
人の子らと共に楽しむ。


●日々の創造において、「知恵であるわたし」は喜び、御父の御前で「楽しみ」つつ創造したようです。そして特に、主の造られた地上の人々と共に楽しんだことが記されています。その「楽しみ」は「共に楽を奏し」とありますから、エデンの園にはそうした神と人との楽しみがあったことを示唆しています。

●「人の子ら」は「ベネー・アーダーム」(בְּנֵי אָדָם)です。エデンの園においては、アダムの子らと共に楽を奏して楽しみ喜ぼうという本来の神の御計画があったのです。


2. 知恵を得よ。これを無視してはならない

  • 32節から「子どもらよ。今、わたしに聞き従え」とあります。ここでは今までのように、子どもらの父である「私」ではなく、「わたし」となっています。つまり、父を越えて、「知恵」そのものが語っているということになります。その内容を一言で言うならば、「知恵を得よ」ということです。「ホフマー」(חָכְמָה)の動詞「ハーハム」(חָכַם)で、知恵を得るという意味になります。知恵を得るとは、神の永遠のご計画とみこころ、神の御旨と目的を知り、それにあずかることを意味します。「悟りがなければ、滅びうせる獣に等しい」(詩篇49:20)とあるように、知恵を得ることを、決して「無視し、なおざりにし、捨ててはならない」のです。なぜなら、知恵を得ることは知恵ご自身を見出すゆえに幸いであり、かつ、永遠のいのちを得るからです。
  • 詩篇90篇でも、作者は「自分の日を正しく数えることを教えてください。そうして私たちに知恵の心を得させてください。」(12節)と祈っています。

3. 創造主を幼い頃から教えること

  • 2013年4月に「創造主訳聖書」が出版されました。この聖書はすでに訳されている尾山令仁訳の「現代訳聖書」にある「神」の部分を「創造主」に換えて出版されたものです。聖書の神は一般的日本人の神の概念とは異なるということがその出版理由です。日本において「神」というとき、それは一般に八百万の神や汎神論の神であって、聖書の創造主ではありません。「神」という言葉を「創造主」とすることで、聖書の真理を直截に伝えようとする意図があるようです。とても良い試みだと思います。ただ一つ残念なことは、この聖書の活字のサイズが小さいためか、親切に携帯用の小さなルーペが付いています。しかしこれを用いて読んでいく方がとても大変です。「ビックリするほどよくわかる!」はずの「創造主訳聖書」が、「ビックリするほど読みにくい!」のです。
  • 確か、堀越暢冶(ほりこし のぶじ、1926年生まれ)牧師が、幼いうちから、神を創造主として教えるべきことを強調しておられました。私も同感です。聖書の話は「アブラハム」からでもなく、「エデンの園」からでもなく、「天地創造」からでもありません。箴言では「天地創造」の前から話が始まっているのです。スケールが壮大ですが、この発想こそが神の「光」「知恵」「栄光」などについての理解を助けてくれるはずです。
  • 「いつくしみ深き友なるイエス」が信仰者のかたわらにいつもいて、慰めと励ましを与えてくださるという自分周辺の狭い世界に閉じこもりがちな信仰から、永遠から永遠に広がるよりスケールの大きな神のご計画を知る信仰へと羽ばたくためには、信仰の視座をシフト(転換)する必要があるのではないかと思います。

【新改訳改訂第3版】ヨハネの黙示録 4章11節
主よ。われらの神よ。あなたは、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方です。あなたは万物を創造し、あなたのみこころゆえに、万物は存在し、また創造されたのですから。

  • このみことばの中にある「あなたのみこころゆえに」という部分に、創造主の偉大なご計画と壮大な神の御旨だけでなく、被造物に対する創造主の喜びと好意(「ラーツォーン」רָצוֹן)を感じ取れるようになりたいものです。

2015:12.2


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