****** 教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し完成します。******

失ったものを見つけるまで捜す

48. 失ったものを見つけるまで捜す

【聖書箇所】 15章1節~10節

はじめに

  • ルカの福音書15章の場面設定は、イエスの話を聞こうと次から次へと近寄って来つつあった取税人たち、そして罪人たちを目にしたパリサイ人たち、律法学者たちに対して語った三つのたとえ話によって構成されています。
  • ここにもヘブル的視点から見るならば、その特徴のいくつかを見ることができます。

(1) 三つのたとえ話はパラレリズム(並行法)

三つのたとえ話は「失ったものが見つかることで喜びがわき起こる」という同じテーマを三つの話(「迷子の羊」、「無くなった銀貨」、「放蕩息子」)を重ねることで強調されているということです。ヘブルの詩歌や格言などでは頻繁にパラレリズムが使われていますが、これはヘブル的表現の特徴です。特に、ここでは二・三行的単位ではなく、たとえ的(束的)な単位によっています。

(2) ヘブル的文体の特徴としての「接続詞」

日本語訳を見る限りにおいては分からない、文体的特徴が存在します。それはイエスがヘブル語で語ったことを示唆するものです。ギリシア語の原文では、1節ごとに、あるいは1節の中に複数の接続詞があるという事実です。ギリシア語の接続詞は「カイ」(καί)、「デ」(δέ)が使われます。たとえば、15:20だけを取り上げてみると五つの接続詞が使われています。
「(そこで)、彼は立ち上がって自分の父のところに来ました。(しかし)、彼がまだずっと離れた遠くにいるのに、彼の父は彼を見て、(そして)深くあわれみ、(そして)走って、彼の首に抱きつき、(そして)彼に何度も口づけした。」

このように「接続詞」が繰り返し繰り返し現れるような文章構造をギリシャ語ではもっていません。この「そして」の連続用法は気を散らすもので、時にはいらいらさせられます。ところが、接続詞「ヴェ」で結ぶのがヘブル語の固有の特徴となっています。たとえば、創世記1章2~5節をそのまま訳すならば以下のようになります。

「(そして)地は混沌であった。(そして)闇が深淵の面にあ、(すると)光があった。(そして)神はその光を見てよしとされた。(また)神の霊が水の面を動いていた。(そして)神は言われた。「光あれ」、(すると)光があった。(そして)神は光と闇を分けた。(そして)神はその光を昼と呼び、(また)闇を夜と呼んだ。(そして)夕があり、(そして)朝があった。」

「そして」「すると」「また」・・これらの訳語はみな同じ接続詞である「ヴェ」です。これがヘブル語文体の特徴です。ですから、イエスの語られたことばや話の中に、ギリシア語の接続詞が過剰に多く見られるならば、ヘブル的文書の資料から由来したものだと言えるのです。

  • このように新約聖書においては、特にイエスの語られたことばが記されている福音書においてはヘブル的視点から見直して解釈する必要があるのです。なぜならイエスはユダヤ人であるからです。そしてヘブル語で語っているからです。当然そこにはヘブル的表現や慣用句、ヘブル的思惟があるからです。

1. たとえ話の中心点はひとつ

  • イエスの語ったたとえ話は決して話を聞く人々に分かりやすく話したものではありません。そのたとえにある隠れた真意を尋ね求めることではじめて開かれてくる仕掛けになっているのです。
  • なぜ、理解し難いかといえば、神の世界の真理はこの世のものにたとえたちとても、そこには当然ながら、この世とは異なる異質な世界が存在しています。その異質な部分こそが実は最も重要なところです。イエスはある大切なことをたとえで語ったわけですから、そこにはひとつの意味しかないはずです。如何ようにも解釈できることを語るはずがありません。強調したい事柄があるはずです。その事が何かを正しく把握する必要がありますが、この世の常識とは異質な部分があることを忘れてはならないのです。

2. 迷子になった一匹の羊と失くなった一枚の銀貨

  • 二つのたとえ話に共通していることは、いなくなった1匹の羊のために羊飼いが、失くなった一枚の銀貨ために持ち主が、「見つけるまで捜す」という異常性です。その異常性は、前者の場合は「99匹の羊を野原に残してまで捜し歩くこと」であり、後者の場合は「あかりをつけて、家を掃いて、念入りに捜す」という行為に表されています。捜すなら必ず見つかるという確実性よりも、見つかるまで捜すという執念性(こだわり性)が強調されています。ちなみに、8節の「念入りに、丹念に」と訳された「エピメロース」έπιμελωςはここにのみ使われている副詞ですが、まさにこのことばが執念性を表わしています。
  • もうひとつの異常性は、見つかったら、友だちや近所の人たちを呼び集めて、「いっしょに喜んでください」と言うことを当然のこととしている点です。
  • そして、この異常性は天における喜びのしるしだとしていることです。二つのたとえの真意は、「ひとりの罪人が悔い改めるなら、天に喜びが湧き起こる」ということです。「天」も「神の御使たち」もユダヤ的には「神」と言い換えることができる表現です。神の世界の喜びはまさに、非常識的行為によってもたらされる、しかもそれが当然とされている世界なのです。
  • ルカの福音書全体のキーバースは19章10節です。今回のイエスの語られたたとえはそことリンクしています。

「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」

2012.4.12


a:3079 t:1 y:3

powered by Quick Homepage Maker 5.2
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional