娘シオンの栄光
2. 娘シオンの栄光
【聖書箇所】イザヤ書 1章1~18節
ベレーシート
「王は二度来ます」。最初の王の来臨は「布にくるまって飼葉桶に寝ているみどりご」としての姿でした。それは「しるし」です。「飼葉桶」が示しているのは、その王が多くの人々から拒絶されるというサインであり、「布にくるまって」が示しているのは、死んで埋葬される王のサインです。ローマ総督ピラトが「ユダヤ人の王、ナザレ人のイェシュア」とイェシュアの十字架に掲げたとき、ユダヤ人の祭司長たちはピラトに「ユダヤ人の王と書かないで、この者はユダヤ人の王と自称したと書いてください」と頼みました。しかし、その願いはまかり通りませんでした。当時の宗教指導者は、神に油注がれた王イェシュアを認めず、苦しめて死に葬ったのです。しかし二度目の王の来臨(再臨)は公正と義をもって地を治めるためであり、多くの人々が「天の雲とともに来るのを見る」ことになるのです(マタイ26:64)。今回は、王であるイェシュアが再臨された後の「メシア王国」の姿、特に「娘シオンの栄光」に目を留めてみたいと思います。「娘シオン」とは「エルサレム」(イェルーシャーライム:יְרוּשָׁלַיִם)のことです。そこは「主の家の山、主の山、ヤコブの神の家」でもあり、かつてヤコブが見た夢(創世記28章)の成就でもあるのです。
1.「娘シオンの栄光」
【新改訳2017】イザヤ書2章1~5節
1 アモツの子イザヤが、ユダとエルサレムについて見たことば。
2 終わりの日に、主の家の山は山々の頂に堅く立ち、もろもろの丘より高くそびえ立つ。そこにすべての国々が流れて来る。
3 多くの民族が来て言う。
「さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を私たちに教えてくださる。私たちはその道筋を進もう。」それは、シオンからみおしえが、エルサレムから主のことばが出るからだ。
4 主は国々の間をさばき、多くの民族に判決を下す。彼らはその剣を鋤に、その槍を鎌に打ち直す。国は国に向かって剣を上げず、もう戦うことを学ばない。
5 ヤコブの家よ、さあ、私たちも主の光のうちを歩もう。
●1節で「アモツの子イザヤが、ユダとエルサレムについて見たことば」とあります。「見たことば」とは面白い表現です。普通ならば「聞いたことば」となるはずです。「見たことば」は「ハッダーヴァール・アシェル・ハーザー」
(הַדָּבָר אֲשֶׁר חָזָה)で聖書の中ではここにしか出て来ません。新共同訳は「幻に見たこと」としています。イザヤがユダとエルサレムについて「終わりの日」に起こる出来事を、神の啓示として見たのです。それは肉体の目ではなく、霊の目によって見たということです。ここでの「見た」(ハーザー:חָזָה)は預言的完了形で、イザヤが見たことは必ずそうなることを意味しています。
●2節の「終わりの日に」の原文は、「終わりの日になると」(ハーヤー・ベアハリート・ハッヤーミーム:הָיָה בְּאַחֲרִית הַיָּמִים)です。これは単なる未来を指すことばというよりも、イザヤにおいては「メシア王国」の到来を意味します。「終わりの日になると」もイザヤ書ではここ一回限りです。イザヤ書ではむしろ同じ意味の「その日(に)」(バッヨーム・ハフー:בַּיּוֹם הַהוּא)が使われます。2節以降は、その「メシア王国」のすばらしさが描かれているのです。
(1) 「主の山」は地の中心となり、そこから主の教えが出る
●「終わりの日に、主の家の山は山々の頂に堅く立ち、もろもろの丘より高くそびえ立つ」とあります。「主の家の山」とは、かつてアブラハムがイサクを全焼のささげ物として献げようとしたモリヤの山で、そこに神殿が建てられたゆえに「主の家(=神殿)の山」と呼ばれました。そこ(エルサレム)が、メシア王国において地の中心となるのです。そこに「すべての国々(=コル・ハッゴーイム:כָּל־הַגּוֹיִם)」、また「多くの民族」(=アンミーム・ラッヴィーム:עַמִּים רַבִים)が流れて来るのです。なぜなら、そこにメシアである王イェシュアがおられ、そして「全イスラエル」すなわち「イスラエルの残りの者」もそこにいるからです。
●二つの動詞「堅く立つ」(クーン:כּוּן)と「高くそびえる(上げる)」(ナーサー:נָשָׂא)の分詞は、他のもろもろの山に対する「主の家の山」の優位性を表しています。かつて、神に逆らう者たちがバベルの塔を建てようとしたとき、主によって全地に散らされました。しかしメシア王国では全く逆の現象が起こるのです。つまり「すべての国々」「多くの民族」が主の家の山に来て、主の教えを聞くようになるのです。
(2) 「平和はみこころにかなう人々に」
●王であるメシアの教えによって、地に「平和」が実現します。これはイェシュアの初臨では実現されることはありませんでした。しかしメシア王国では、御使いが賛美したような「平和」が実現されるのです。
【新改訳2017】ルカの福音書2章14節
「いと高き所で、栄光が神にあるように。
地の上で、平和がみこころにかなう人々にあるように。」
●この平和は、今のこの世界の人々にもたらされることはありません。将来、この世の延長線上にもたらされるということもありません。それが地にもたらされるのは、神に油注がれたメシア、王なるイェシュアが再臨した後です。争い(戦争)のない真の平和を創り出せるのは、王なるイェシュアのみです。そしてイェシュアがメシアだと信じている者、つまり「みこころにかなう人々」のみが、この平和に与ることができるのです。では「みこころにかなう人々」とは、具体的にどのような人々を言うのでしょうか。
① 携挙された教会(メシアニック・ジューと異邦人からなる教会)
●【新改訳2017】Ⅰテサロニケ人への手紙4章16~17節
16 ・・号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きとともに、主ご自身が天から下って来られます。そしてまず、キリストにある死者がよみがえり、
17 それから、生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります。② 大患難時代に信仰を与えられながらも殉教する異邦人
●「数えきれないほどの大勢の群衆」(黙示録 7:9~17)、12章では「男の子」)
●①と②の人々は、ゼカリヤ書14章5節で「・・私の神、主が来られる。すべての聖なる者たちも、主とともに来る」と預言されている人々です。彼らは「霊とたましいとからだ」がすでに完成されています。③ 復活して御霊のからだを与えられる旧約の聖徒たち
●イスラエルの民の中で「あの書に記されている者」です。つまりダニエル書12章2節にある「ちりの大地の中に眠っている者のうち、多くの者が目を覚ます。ある者は永遠のいのちに」とされている者たちです。彼らは復活したあとで、イェシュアを知る人々です。④ イスラエルの残りの者
●獣が立ち上がる時に「恵みと嘆願の霊」が注がれ(ゼカリヤ12:10)、イェシュアをメシアと信じる人々です。額に神の印が押されることで、彼らは獣からいのちを守られます。そして王なる祭司としての務めを果たし、イェシュアが語った御国の福音を宣べ伝えて大勢の数えきれない異邦人を救いに導きます。メシア王国においては、彼らは長子的存在となります。●ダニエル書12章3節でこう預言されています。
「賢明な者たち(=イスラエルの残りの者)は大空の輝きのように輝き、多くの者(=大勢の異邦人)を義に導いた者(=イスラエルの残りの者)は、世々限りなく、星のようになる」⑤ 最も⼩さい者たちを助けた異邦人たち
●「最も⼩さい者たち」とは神の民として選ばれたユダヤ人たちです。彼らに対してした行為は報いられるのです。それをした異邦人は「羊」にたとえられます。「羊にたとえられる祝福された者たち」が世界の基が据えられたときから定まっており、御国を受け継ぎます。ただしイェシュアをメシアと信じてはいないため、彼らは御国に入ってからイェシュアを知るようになる異邦人です。マタイ25章参照。⑥ メシアが再臨された後でメシアを信じて「生き残った者」のすべて(異邦人)
●ゼカリヤ書14章16節に「エルサレムに攻めて来たすべての民のうち、生き残った者はみな、毎年、万軍の主である王を礼拝し、仮庵の祭りを祝うために上って来る」とあります。
●⑤と⑥は、メシア王国で主をさらに知ることになります。それゆえ、以下の警告的預言が語られています。【新改訳2017】ゼカリヤ書14章17~19節
17地上の諸氏族(מִשְׁפָּחָה)のうち、万軍の主である王を礼拝しにエルサレムに上って来ない氏族(מִשְׁפָּחָה)の上には、雨が降らない。
18 もし、エジプトの氏族(מִשְׁפָּחָה)が上って来ないなら、雨は彼らの上に降らず、疫病が彼らに下る。これは、仮庵の祭りを祝いに上って来ない諸国の民(הַגּוֹיִם)を主が打つ疫病である。
19 これが、エジプトの罪への刑罰となり、仮庵の祭りを祝いに上って来ないすべての国々(כָּל־הַגּוֹיִם)の罪への刑罰となる。
●このように、イザヤ書2章4節のある通り「主は国々の間をさばき、多くの民族に判決を下す」のです。そのようにして、仮庵の祭りを祝いに上って来る御国の民は、王の教えによって、「剣を鋤に、その槍を鎌に打ち直し、国に向かって剣を上げず、もう戦うことを学ばない」、つまり平和を学ぶのです。ここにも「王と民との麗しい関係」を見ることが出来ます。それは共存共栄のミシュパート(統治)です。
●ところで、3~4節は国々に対する預言ですが、5節では一転して「ヤコブの家」に対して呼びかけています。その内容は「さあ、私たちも主の光のうちを歩もう」です。
●「さあ、私たちも主の光のうちを歩もう」という呼びかけは、多くの異邦人が真理を求めて主の家の山にやって来るならば、彼らに遅れを取ってはならないという聖なる嫉妬心を呼び起こすことばとも言えます。長子的存在としての「イスラエルの残りの者」に祭司的責任の自覚を促す呼びかけです。それが「私たちも」に表されています。彼らが常に王なるメシアとともにエルサレムに住んでいることを思えばです。「主の光のうち(中)を歩む」とは、神のご計画とみこころ、みむねと目的にそった歩みであり、「キリストにあって、キリストによって、キリストのために歩むこと」を指していることは言うまでもありません。
●以下の「起きよ。光を放て」のフレーズも有名です。聖霊が「娘シオン」(=エルサレム、およびイスラエルの残りの者)を「あなた」として励ますために語っておられるのです。ですから、この「あなた」を「私たち」のこととして読んではなりません。それは「置換神学」の読み方であり、神のご計画とみこころ、みむねと目的を完全に見失わせてしまうものです。
【新改訳2017】イザヤ書60章1~3節
1 「起きよ。輝け。まことに、あなたの光が来る。主の栄光があなたの上に輝く。
2 見よ、闇が地をおおっている。暗黒が諸国の民を。しかし、あなたの上には主が輝き、主の栄光があなたの上に現れる。
3 国々はあなたの光のうちを歩み、王たちはあなたの輝きに照らされて歩む。
●重要な点は3節です。「国々はあなたの光のうちを歩み、王たちはあなたの輝きに照らされて歩む」とあります。まさに「イスラエルの残りの者」は、諸国の異邦人における「みこころにかなう人々」にとって、長子的存在となるからです。
2. あなたがたは喜びながら水を汲む
【新改訳2017】イザヤ書12章1~6節
1 その日、あなたは言う。「主よ、感謝します。あなたは私に怒られたのに、あなたの怒りは去り、私を慰めてくださったからです。」
2 見よ、神は私の救い。私は信頼して恐れない。ヤハ、主は私の力、私のほめ歌。私のために救いとなられた。
3 あなたがたは喜びながら水を汲む。救いの泉から。
4 その日、あなたがたは言う。「主に感謝せよ。その御名を呼び求めよ。そのみわざを、もろもろの民の中に知らせよ。御名があがめられていることを語り告げよ。
5 主をほめ歌え。主はすばらしいことをされた。これを全地に知らせよ。
6 シオンに住む者よ。大声をあげて喜び歌え。イスラエルの聖なる方は、あなたの中におられる大いなる方。」
●イザヤ書12章も1~6節と実に短いのですが、そこには貴重な宝が隠されています。1節の「あなた」は「イスラエルの残りの者」です。しかし3節の「あなたがた」とは彼ら以外の者たち(つまり①②③⑤⑥の者)です。「あなたがたは喜びながら水を汲む。救いの泉から」は重要です。「救いの泉」を口語訳では「救いの井戸」と訳していますが、「泉」も「井戸」も同義です。「救いの泉」とはメシアの象徴であり、泉と訳された「マヤーン」(מַעְיָן)は「尽きることのない源泉」を意味します。それがいつ実現されるのかといえば、「その日」すなわち「メシア王国」が到来してからのことです。
【新改訳2017】イザヤ書11章10節
その日になると、エッサイの根はもろもろの民(アンミーム:עַמִּים)の旗として立ち、
国々(גּוֹיִם)は彼を求め、彼のとどまるところは栄光に輝く。
●「その日になると」とは「エッサイの根」、つまりエッサイの子孫から出る「王なるメシア」は、国々の民の旗として立ち、国々(異邦人)は彼を求めるようになるという預言です。今回のイザヤ書12章にも「その日」という同じフレーズが1節と4節にあります。いずれもメシア王国が実現するその時に、という意味で使われているのです。また、4~6節には七つの呼びかけがなされています。
①「感謝せよ」(ヤーダー: יָדָה)
②「(御名を)呼び求めよ」(カーラー: קָרָא)
③「知らせよ」(ヤーダ:יָדַע)
④「語り告げよ」(ザーハル: זָכַר)
⑤「ほめ歌え」(ザーマル:זָמַר)
⑥「大声をあげよ」(ツァーハル: צָהַל)
⑦「喜び歌え」(ラーナン: רָנַן)
●これら上記の動詞は詩篇においても重要な用語です。これらの呼びかけは過去の出来事についてではなく、「メシア王国」で起こる「呼びかけ」であるということが重要な点です。ですから、私たちが詩篇を味わうことは、「御国の福音」の完成に対するさらなる期待を増し加えられることになります。その御国において、3節の「あなたがたは喜びながら水を汲む。救いの泉から」に目を留めてみましょう。
(1) 水を汲んだリベカ
●「水を汲む」の「汲む」と訳された動詞「シャーアヴ」(שָׁאַב)は、井戸から水を「汲み上げる」ことを意味します。この動詞は旧約で19回使われています。その初出である創世記24章では8回も使われています(数字の8はイェシュアの数です)。24章にはアブラハムの最年長のしもべエリエゼルが、アブラハムの生まれ故郷にイサクの嫁を探しに行くストーリーが記されています。彼が何を基準にしてイサクにふさわしい妻を捜そうとしたかが記されています。イサクにふさわしい妻と出会うことができるようにエリエゼルは神に祈ります。そのとき彼は不思議なことを言います。イサクにふさわしい妻とは、水を汲みに出て来る娘たちの中で、自分が「どうか、あなたの水がめを傾けて、私に飲ませてください」と言い、その娘が「お飲みください。あなたのらくだにも水を飲ませましょう」と言ったなら、その娘こそ、主が、主のしもべイサクのために定めておられた人だとしたことです。主が「イサクのために定めておられた人」だと確信できる条件が、自分にも、そしてらくだにも水を汲んで飲ませてくれる娘なのです。この条件がなぜイサクにふさわしい妻なのでしょうか。実は、ここに御国の福音の奥義が隠されているのです。
●ちなみに、アブラハムのしもべエリエゼルが長旅のために用意したらくだはなんと10頭でした。らくだは水80~130リットルを一気に飲むことができるそうです。そんならくだが10頭もいて、それに水を飲ませるとすればどれだけの水を汲まなければならないか。考えただけでも大変なことです。それだけの水を井戸から汲み上げるということは、細腕の娘では対応できません。つまり、かなりの生活力をもった娘でなければできません。そんな娘が水がめを肩に載せてエリエゼルの前に現れたのでした。そして、彼女は彼(エリエゼル)に水を飲ませただけでなく、すべてのらくだのために水を汲んだと記されています。この娘こそイサクの妻となるリベカです。聖書にはその娘について「非常に美しく、処女で、・・」とありますので、とてもスリムなイメージを抱きやすいのですが、リべカはなんと小言一つ言わずに、10頭のらくだに水を飲ませるほどの娘だったのです。
●「水を汲む」という労働は大変なものであったということです。しかしそのような過酷な労働がメシア王国においては「喜びながら救いの井戸から水を汲む」ようになるのです。もっとも、ここでの「水を汲む」というのは、実際の労働という意味ではありません。たましいではなく、霊において理解する必要があります。
ヨハネの福音書4章でヤコブの深い井戸に水を汲みに来たサマリアの女が登場します。その女にイェシュアが「わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」(4:15)と言ったとき、すかさずサマリアの女は「その水を私に下さい」と言いました。その求めた誤解の背景には、日々の水汲みの労働がいかに大変なことであったかを示唆しています。
(1)「水を汲む」ことの奥義
●水を「汲む」の「シャーアヴ」(שָׁאַב)の三つの文字には、神である父(אָב)を熱心に尋ね求める(שׁ)という意味が隠されています。また「シン」(שׁ)と「ベート」(ב)の二つの文字からなる親語根を持つ動詞だと考えるならば、その親語根に子語根(ה, ו, י, א, נ)を付け加えることで、その周辺に以下のような親戚関係にあたる語彙が浮かび上がってきます。
①「シャーヴァー」(שָׁבָה)・捕らわれる。
②「シューヴ」(שׁוּב)・・・ 返る、帰る。
③「ヤーシャヴ」(יָשַׁב)・・住む、とどまる。
④「ナーシャヴ」(נָשַׁב)・・風が吹く(氷を解かすような力)。
⑤「シャーアヴ」(שָׁאַב)・・(水を)汲む。
●上記の語彙から、以下のようなストーリーを組み立てることができます。
「とりこにされ、捕らわれていた」(①シャーヴァー: שָׁבָה)者たちが、神の主権的な聖霊の風が「吹く」(④ナーシャヴ: נָשַׁב)ことによって、捕らわれの力から解放され、はじめて彼らは主のもとに「帰る」(②シューヴ: שׁוּב)ことができます。その者たちはメシアの王的支配の下で祝福のうちに「住む」(③ヤーシャヴ: יָשַׁב)ことが許され、さらには、喜びながら、救いの井戸から尽きることのない永遠のいのちの水を「汲む」(⑤シャーアヴ: שָׁאַב)ことができるようになるのです。「永遠のいのちの水を汲む」とは「主を知る」ことを意味します。
●「その日」には、主を知ることが、海をおおう水のように、地を満たすようになるのです(イザヤ11:9)。「主を知る」ために終わりの日に立ち上がって来るのは、イェシュアのあわれみを受け、贖われた者たちなのです。このように見てくると、エリエゼルがなぜイサクの嫁の条件として「水を汲む」女を求めたかを知るのです。それは「御国の福音の奥義」だったのです。
●ユダヤ暦の第七の月の15日から七日間にわたる主の「仮庵の祭り」では、「水取りの儀式」がシロアムの池で行われました。大祭司がきれいな衣を着て金の杓子をもってシロアムの池から水を汲み、それを神殿にまで運びます。その時にイザヤ書12章を歌いながら、神殿までその水を運ぶ行列がなされるのです。
●仮庵の祭りの行事のハイライトは、神殿の祭司の庭にある祭壇の南西側に柳の木を立て、毎日、祭壇の周りを一周ずつ回るのです。ユダヤ人たちはエルサレムの西側にある「モツァ」という川縁から、毎日新しい柳の木を折って来ました。柳の木の枝は折られた瞬間に生気がなくなり、たった1日でも枯れてしおれてしまうからです。
最初の日に、あなたがたは自分たちのために、美しい木の実、
なつめ椰子の葉と茂った木の大枝、また川辺の柳を取り、
七日間、あなたがたの神、主の前で喜び楽しむ。(レビ23:40)
●このように6日間、新しい柳の木の枝を立てておき、仮庵の祭りの最後の日には特別な行事をしました。本来、祭壇がある神殿の祭司の庭は祭司以外には誰も入ることができない聖域ですが、しかしこの日(最後の日)だけは例外で、すべてのイスラエルの巡礼者たちに(女性と子どもたちにも)開放されました。普段は祭壇の周囲を1周しますが、仮庵の祭りの最後の日には、祭壇の周囲を7周回りました。この時、巡礼者たちは祭壇の周囲を回りながら、詩篇の祈りを切にささげました。イスラエルの人々は、水がないため渇いてしおれて行く柳の木の枝を横に、「ああ主よ、どうか救ってください。」(詩篇118:25)と叫びながら祈りをささげたのです。・・・荒野の民イスラエルにとって、水はいのちそのものであり、神の恵みを象徴するものです。水がなく枯れてしまう柳の木のように、神の特別な恵みがなくては枯れて、廃れてしまうしかないイスラエルを救ってください、という切なる願いをささげたのです。「どうか、救ってください。」とはヘブル語で「ホサナ」(ホーシーアー・ナー:הוֹשִׁיעָה נָּא)です。仮庵の祭りに使われる柳の木の別称は「ホサナ」です。ホサナは水を求めて叫び声を上げる柳の木を指すのです。その叫びにイェシュアは答えられたのです。
【新改訳2017】ヨハネの福音書7章37~39節
37 さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立ち上がり、大きな声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。
38 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」
39 イエスは、ご自分を信じる者が受けることになる御霊について、こう言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ下っていなかった(原文は「まだなかった」)
ベアハリート
●「あなたがたは喜びながら水を汲む。救いの泉から」(イザヤ12:3)とは、尽きることのない泉から流れ出る、救いの喜びに満たされることの預言です。しかしその救いの喜びとは、私たちが労苦して「汲む」ことではなく、神の恩寵として、腹の底から湧き上り、流れ出てくる生ける水であり、主を知ることの喜びなのです。「マイ(ム)・マイ(ム)・マイ(ム)・マイ(ム)・マイム・ヴェサソン」という歌があります。「マイム・ヴェサーソーン」(מַיִם בְשָׂשׂוֹן)は「喜びながら、水を(汲む)」という意味です。なんとこれはメシア王国(千年王国)に実現する「主を知ることの喜び」の預言的な歌です。私たちはこの歌を歌い、あるいは踊りながら、メシア王国の到来を待ち望みたいと思います。
三一の神の霊が、私たちの霊とともにあります。
2025.5.11
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