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子は父を映す鏡となれ

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箴言は「父から子への知恵」、主にある家庭教育の根幹を学ぶ最高のテキストです。

38. 子は父を映す鏡となれ

【聖書箇所】27章11節

ベレーシート

  • 箴言における「家庭生活」の格言として、11節を取り上げます。そこには、父が子によって映し出されるというかかわりが勧められています。御父が御子によって映し出されるという真理の型がそこにあります。それは神の「永遠の家づくり計画」と深くつながっている事柄です。主にある家庭生活をどのように建て上げるか、そのヒントが隠されているように思います。

1. 子が知恵を得ることは、父の心を喜ばせる

  • まずは箴言27章11節を見てみましょう。

【新改訳改訂第3版】箴言 27章11節
わが子よ。知恵を得よ。私の心を喜ばせよ。
そうすれば、私をそしる者に、私は言い返すことができよう。

  • 2012.5.3に設立した「クリスチャン・ホーム」の信仰継承を目的とした息の長い取り組みとしての「ヒナヤーヴ・ミニストリー」があります。三つのクリスチャン・ホームからスタートしましたが、このミニストリーは、主にある家庭教育を根幹としながら、共に励まし合っていくためのミニストリーです。
  • 「ヒナヤーヴ」(הִנַיָב)とは、詩篇127篇3節の「見よ。子どもたちは主の賜物」のヘブル語「ヒンネー・ナハラット・アドナイ・バーニーム」から、それぞれの頭文字を取って私が作った造語です。その詩篇の5節には次のように記されています。

詩篇127篇5節
幸いなことよ。矢筒をその矢で満たしている人は。
彼らは、門で敵と語る時にも、恥を見ることがない。


●ここで幸いな人というのは、「矢筒をその矢で満たしている人」のことです。「矢筒」とは「家庭」のこと。「矢」とは神からの賜物である「子どもたち」です。なぜ幸いなのでしょうか。

●詩篇127篇5節後半の構文は、直訳では「彼らは恥を見ることがない(あわてることがない)」が先にあり、その後に「なぜなら~だから」を意味する接続詞の「キー」(כִּי־)が置かれています。「彼ら」とは矢筒と矢にたとえられている親子です。つまり、互いに神のトーラーを通して教え学び合っている親子です。そうしたかかわりを築いている彼らは「恥を見ることがない」のです。なぜなら、彼らは門で敵(複数)を打ち負かすことができるからです。ここでの「敵」がだれを指しているのか定かではありませんが、おそらく、主にある幸いな親子(家庭)を破壊しようとする存在(偶像、この世の価値観など)、あるいは、トーラーや神の知恵を良しとしない者たちかもしれません。

●このように解釈すると、箴言27章11節の「わが子よ。知恵を得よ。私の心を喜ばせよ。そうすれば、私をそしる者に、私は言い返すことができよう。」というみことばを理解できるかも知れません。


2. 子は親を映し出す鏡

  • 「自分の口でではなく、ほかの者にあなたをほめさせよ。自分のくちびるでではなく、よその人によって。」(箴言27:2)とありますが、ここで言われていることは11節とリンクします。つまり、父は子によってたたえられるという考え方です。父と子は一つの家の中で多くの時間を過ごすことになるため、必然的に子は親の価値観の影響を受けることになります。子のふるまいを見るならば、その子の親がどんな親かを知ることができます。
  • 子は親を写し出す鏡なのです。御子が御父を映し出しているように、子どもは親を映し出す存在なのです。そんな親子を紹介しましょう。

●私が北海道で開拓伝道を開始した時、教会のメンバーは2名。つまり、私と妻だけでした。すぐに私の母が洗礼を受け、1年ほどしてから娘が受洗しました。ですから、家族の4人からなる教会(数にすると二倍の成長ですが)となりました。そんな中に一人のクリスチャン女性(当時80歳近くになるかならないかのお歳でした)が、時折、集会に来られてはそのまましばらく私の家に泊まって数週間一緒に過ごしてくれました。時折というのは、その方の息子さんが北海道に住んでおられ、東京からその息子さんのところに来られている期間、私たちの教会の集会に参加して、励まして下さったのです。私は彼女の口を通して、「枯れ木も山の賑わい」ということわざを初めて知りました。その方は長い間ご主人に仕えた夫人で、ご主人が亡くなられてから、教会に行くようになり、信仰を持たれた方です。ですから長い間、信仰生活を送ってきたわけではありません。信仰を持たれてわずか数年でしたが、私どもの教会の支えとなって下さった方でした。彼女は和紙を用いて財布や本の表紙を作るのが得意でした。毎日、聖書を読み、祈り、讃美歌の歌詞を瞑想しては、そこから受けたことを文書にして綴じておられました。

●そんな彼女と生活を共にすることで、私も自分が年老いたなら彼女のような輝いた生き方をしたいと思わせられる、そのような方でした。彼女が天に召されてからすでに20年近くになります。ところが召された翌年から、彼女の娘さん(その方もクリスチャンで鎌倉在住)から、毎年の春に、決まって南国の「文旦」が送られてくるのです。まさに「子は母を映す鏡」、「この母にしてこの子あり」です。ですから、今でも私どもは「枯れ木も山の賑わい」と謙遜して言っておられた彼女の励ましを、娘さんを通して受け続けているのです。

●こうした親子(母と娘)の麗しいかかわりは、私からすると、神の知恵によるひとつの作品のように思えるのです。

「わが子よ。知恵を得よ。私の心を喜ばせよ。」

2016.2.6


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