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宗教指導者たちとの対峙 (3)

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95. 宗教指導者たちとの対峙 (3)

【聖書箇所】マタイの福音書22章1~14節

ベレーシート

●イェシュアの公生涯の最後の一週間は、イェシュアがエルサレムに入場された時から始まり、死から復活された日にまで及びます。このわずかな期間に、イェシュアとユダヤの宗教指導者たち(サドカイ人の祭司長たち、パリサイ人、律法学者たち、長老たち)との問答が集中して繰り広げられます。時は過越の祭りですから、多くのユダヤ人たちが各地からエルサレムに集まって来ています。そうした民衆たちは、エルサレムの宗教指導者たちによって、神を冒涜した者としてイェシュアを「十字架につけろ、十字架につけろ」と激しく叫び続けるまでに扇動されていきます。イェシュアは弟子たちに対して、エルサレムの神殿と宗教システムが崩壊してしまうことを「いちじくの木が枯れる」ことで預言し(21~23章)、終末に起こる預言を語られます(24~25章)。そして、イェシュアがかつて弟子たちに預言した「受難と死と復活の出来事」(26~28章)へと進んで行きます。

●エルサレムに入場する前に、イェシュアが自分の「受難と死と復活の出来事」を弟子たちに三度も語っていたにもかかわらず、誰ひとりとしてそのことを理解した者はいませんでした。エルサレムに入って、イェシュアが三度にわたって宗教指導者たちに向けて語った「たとえ話」は、いずれも彼らが天の御国を拒絶することで、それが他の者たちに与えられるという内容なのですが、それは皮肉にも彼らに正しく受けとめられました。それゆえ、イェシュアが語ってきたご自身のメシアとしての告知―「長老たち、祭司長たち、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、三日目によみがえらなければならない」―が実現するのです。これは神の必然、つまり神のご計画において避けられない定めであったということです。こうした流れを理解しながら、宗教指導者たちに対する第三回目の「たとえ話」―「王が王子のために催した婚宴」(22:1~14)について学びたいと思います。

【新改訳2017】マタイの福音書22章1~14節
1 イエスは彼らに対し、再びたとえをもって話された。
2 「天の御国は、自分の息子のために、結婚の披露宴を催した王にたとえることができます。
3 王は披露宴に招待した客を呼びにしもべたちを遣わしたが、彼らは来ようとしなかった。
4 それで再び、次のように言って別のしもべたちを遣わした。『招待した客にこう言いなさい。「私は食事を用意しました。私の雄牛や肥えた家畜を屠り、何もかも整いました。どうぞ披露宴においでください」と。』
5 ところが彼らは気にもかけず、ある者は自分の畑に、別の者は自分の商売に出て行き、
6 残りの者たちは、王のしもべたちを捕まえて侮辱し、殺してしまった。
7 王は怒って軍隊を送り、その人殺しどもを滅ぼして、彼らの町を焼き払った。
8 それから王はしもべたちに言った。『披露宴の用意はできているが、招待した人たちはふさわしくなかった。
9 だから大通りに行って、出会った人をみな披露宴に招きなさい。』
10 しもべたちは通りに出て行って、良い人でも悪い人でも出会った人をみな集めたので、披露宴は客でいっぱいになった。
11 王が客たちを見ようとして入って来ると、そこに婚礼の礼服を着ていない人が一人いた。
12 王はその人に言った。『友よ。どうして婚礼の礼服を着ないで、ここに入って来たのか。』しかし、彼は黙っていた。
13 そこで、王は召使いたちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇に放り出せ。この男はそこで泣いて歯ぎしりすることになる。』
14 招かれる人は多いが、選ばれる人は少ないのです。」

●この「たとえ話」は内容的に二つの区分に分かれます。一つの区分は1~10節まで。もう一つの区分は11~14節までです。結婚の婚宴については共通ですが、主張点が異なっています。前者は本来招待されていた者が拒んだので他の者たちが招かれたという話。後者は婚宴において婚礼の礼服を着ていない人がいたという話です。

1. このたとえ話の要点は何か

●たとえ話を、各節を説明しながら、順を追ってゆっくりと味わってゆきましょう。太字の部分は聖書のテキストです。

1節 イエスは彼らに対し、再びたとえをもって話された。
「彼ら」とは「祭司長たち、パリサイ人たち」のこと。「再び」とは共通した内容のたとえ話が再度という意味で、三度目のたとえ話となっています。

2節 「天の御国は、自分の息子のために、結婚の披露宴を催した王にたとえることができます。
①「王」とは御父、「自分の息子」はイェシュアのこと。ここでは結婚の披露宴です。「ガモス」(γάμος)は「結婚式、婚礼」を表しますが、その複数形は「結婚の披露宴、婚礼の祝宴」を表わします。ここでは複数形となっています。また、マタイの福音書25章の「10人の娘」のたとえ話の中にあるのも「ガモス」の複数形で、「婚礼の祝宴」の意味。
②黙示録19章7節は「ガモス」の単数形で「婚礼」を意味し、19章 9節の「婚宴」は「ト・ディプノン・トゥー・ガムー」(τὸ δεῖπνον τοῦ γάμου)とあり、単数の「ガモス」の「ティプノン」(δεῖπνον)、つまり「結婚の祝宴」を意味し、この二つの語彙で「婚宴」と訳されています。子羊の「婚宴」ということで、メシアが地上再臨されて行われる「婚宴」を意味します。

3節 王は披露宴に招待した客を呼びにしもべたちを遣わしたが、彼らは来ようとしなかった。
●「来ようとしなかった」は未完了形。つまり「何度も頼んだにもかかわらず、一向に来ることを拒み続けた」との意味。王が遣わしたしもべたちを拒むことは、王を、拒むことを意味します。

4節 それで再び、次のように言って別のしもべたちを遣わした。『招待した客にこう言いなさい。「私は食事を用意しました。私の雄牛や肥えた家畜を屠り、何もかも整いました。どうぞ披露宴においでください」と。』
①ここで「招待した客」とはすでに断った人たちです。その者たちに対して、王は再度別のしもべを遣わしました。
②この訳には、「私は食事を用意しました」の冒頭にある「さあ」(Ἰδοὺ=「見よ」הִנֵּה)という語彙が訳出されていません。それは、これから語ることに注意を向けさせる引かせる常套句です。旧約では預言者たちが終わりの日のことを語る時に使われています。つまり神のご計画の最終的目的に目を向けさせる語彙なのです。
③「私の雄牛や肥えた家畜を屠り」とは、婚宴の内容をより具体的に伝えています。「雄牛」と「肥えた家畜」とは同義です。王子の婚宴のために家畜を手間暇かけて育てて来たという王の思いが伝わってきます。つまり、婚宴は、王が王子のために長い期間を費やしてきて、最初の料理である雄牛が屠られ、料理が備えられたということです。
④「何もかも整いました」は完了形で、招く側としてはすべてが「すでに整った」のです。あとは招いた人たちを招き入れるだけです。

5節 ところが彼らは気にもかけず、ある者は自分の畑に、別の者は自分の商売に出て行き、
①「彼ら」とは「祭司長たち、パリサイ人たち」のこと。「気にもかけず」とは「無視する」こと。
②王の招待よりも、「自分の畑」、「自分の商売」に精を出す姿は、私利私欲がすべてに優先しているということで、「もしひれ伏して私を拝むなら、これをすべてあなたにあげよう」(マタイ4:9)というサタンの誘惑の言葉に従った者を指すのかもしれません。神よりも金の欲に支配されてしまった者をたとえているのかもしれません。

6節 残りの者たちは、王のしもべたちを捕まえて侮辱し、殺してしまった。
●「残りの者たち」とは、私利私欲に走っている指導者たちにうまく操られた手下かもしれません。

7節 王は怒って軍隊を送り、その人殺しどもを滅ぼして、彼らの町を焼き払った。
●遣わしたしもべが殺されたことを知った王は、怒って、しもべたちを殺した者を滅ぼし、彼らの町をも焼き払いました。それは王に対する反逆とみなしたからです。

8節 それから王はしもべたちに言った。『披露宴の用意はできているが、招待した人たちはふさわしくなかった。
●ここで王は招待を断った人たちに対してではなく、しもべたちに語っています。何か新しいことを伝えるためです。「招待した人たちはふさわしくなかった」の「ふさわしくなかった」も未完了形で、「依然として変わることなくふさわしくなかった」というニュアンスです。「ふさわしい」は「価値がある」という意味。マタイの福音書10章にしばしばこの「ふさわしい」(「アクシオス」ἄξιος)が使われています(10,11,13,13, 37, 37,38節)。つまり、ここのたとえ話では「神の基準に全く合致しなかった」ということなのです。

9節 だから大通りに行って、出会った人をみな披露宴に招きなさい。』
●ここで、王のしもべたちに新しい指示が与えられます。「大通り」と訳されていますが、原文では「もろもろの道の出口(「ディエクソデュース」διεξόδουςの複数)に行って」となっています。町の出口には多くの人が出入りしているからです。そこに行って、「みな披露宴に招きなさい」と王はしもべたちに命じたのです。

10節 しもべたちは通りに出て行って、良い人でも悪い人でも出会った人をみな集めたので、披露宴は客でいっぱいになった。
①ここに「良い人でも悪い人でも」(いずれも複数)とあります。もし「悪い人たち」というのが、王の招きを断った人たちやしもべを殺した人たちで、町の出口から逃げようとしていた人たちだとすれば注目すべきことです。このような「悪い人たち」も再度集められる可能性があるということを示しているからです。御国の福音においては、イェシュアをメシアとして受け入れなかった人々にも再度招かれるチャンスがあることを教えているからです。そのような人々のことを、「イスラエルの残りの者」と言います。事実、メシアの地上再臨の前に、この「イスラエルの残りの者」には、神の「恵みと哀願の霊(聖霊)」によって神に立ち返る時が訪れるからです。彼らが神に立ち返るという出来事は、まさに復活するような出来事に匹敵するのです。
②ここで、この「たとえ話」の前半の内容が終わっています。次の11~14節は、新しい主題が含まれています。つまり、王に招かれるという恵みは、その婚宴にふさわしい服が王から与えられるという前提があって、以下の内容が語られているのです。

11節 王が客たちを見ようとして入って来ると、そこに婚礼の礼服を着ていない人が一人いた。
●「客たち」と訳されていますが、原文では「宴席で横になっている人々」となっています。当時のユダヤ教の宴会は現代とは異なり、横になって食べていました。現代の私たちのイメージからすると異様な光景です。そこに集められた人々を王は見渡すと、その中に一人だけ「婚礼の礼服を着ていない人」がいたのです。「着て」は「着衣」という名詞です。「婚礼の礼服」と訳された言葉は「エンドュマ・ガムー」(ἔνδυμα γάμου)です。ヘブル語では「ビグデー・ハトゥッナー」(בִּגְדֵי חֲתֻנָּה)です。王から与えられた服を「着衣していない」人がいたのです。

12節 王はその人に言った。『友よ。どうして婚礼の礼服を着ないで、ここに入って来たのか。』しかし、彼は黙っていた。
①この婚礼の礼服については、後で述べたいと思います。
②ここでは、王から「友よ」とまで言われています。なぜ婚礼の礼服を着ていないのか、王はその者に尋ねていますが、答えず、黙ったままでした。なぜ「黙っていた」のでしょうか。服を着ないでいたら目立ってしまうことは明らかなのに・・・。事の真相がもしも大勢の人々が婚宴に来たので、一人だけ婚礼の礼服を渡すのを忘れたのだとしたら・・。どのような結果になるでしょうか。そのことを示すことばが13節です。

13節 そこで、王は召使いたちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇に放り出せ。この男はそこで泣いて歯ぎしりすることになる。』
●ここでの王の言葉は、極めて厳しい宣告が語られているように聞こえます。しかし実際は、婚礼の礼服を着ていない人に対する非難の言葉ではなく、この人に礼服を与え損なった召使いたちに対する言葉です。婚宴には礼服を着ていなければ入ることはできないはずです。ですから、礼服を着ていない人がいたのは召使いたちの責任です。礼服を着ていなければどうなるのかを、召使いたちに言った言葉が、「その手足を縛って、外の暗闇に放り出せ(アオリスト命令形)。(そうすれば)、この男はそこで泣いて歯ぎしりすることになる」(未来形)です。ここでの「泣いて歯ぎしりすることになる」というフレーズは、イスラエルの民に対する最終的な神のさばきを表わすマタイの常套句で、「号泣して嘆き悲しむ」ことを表わしています。(7回中6回がマタイにー8:12, 13:42,50, 22:13, 24:51, 25:30)。それゆえ、この言葉を聞いた召使いたちは急いで彼に礼服を着せ、丁重にもてなしたのではないでしょうか。そもそも、披露宴に集めたのは王であり、しかも良い者も悪い者もともに集めたのです。王の側に手落ちがあったならば大変なことになるのです。このたとえ話で、後に婚礼に招かれた人々とは異邦人であり、その異邦人に対する神の恵みの計らいを示していると考えられます。

14節 招かれる人は多いが、選ばれる人は少ないのです。」
●「招かれる人は多い」とは神に選ばれたイスラエルの民のことです。そのイスラエルの民から選ばれる人が少ないことを神が悲しまれているのが、このことばではないかと思われます。

2. 賦与される婚礼の礼服

●天の御国における婚礼に着る礼服は、自分のものでなく、王から与えられる服であるということを知ることが重要です。婚礼の礼服をヘブル語では「ビグデー・ハトゥッナー」(בִּגְדֵי חֲתֻנָּה)と言います。「ハトゥッナー」(חֲתֻנָּה)とは「婚礼」を意味し、「礼服」の「ビグデー」(בִּגְדֵי)は「ベゲッド」(בֶּגֶד)の連語形です。旧約では特別な人しか着ることのできなかった服です。「ベゲッド」の初出箇所は、イサクの嫁となるリベカが、エリエゼルの申し出を受けたときに贈られた衣装(創世記24:53)、他にはヤコブが父イサクから祝福をもらうために着たエサウの衣(創世記27:15)、ヨセフが着ていたあや織りの長服(創世記37:32)、そして、大祭司の聖なる装束です。

【新改訳2017】創世記3章21節
神である【主】は、アダムとその妻のために、皮の衣を作って彼らに着せられた

●罪を犯したアダムとその妻のために、神である主は「皮の衣」を作って着せられました。それは神の恩寵を指し示す預言的行為です。特に注目すべきは、皮の衣を作るためには動物を屠って血を流す必要があることです。「血を流す(注ぎ出す)ことがなければ、罪の赦しはありません」(へブル9:22)とある通り、いのちの代価である血によって罪が覆われるということが「罪の赦し」なのです。神がアダムとエバに与えた衣は血を流すことによって作られた「皮の衣」でした。これは、やがてキリストの十字架の贖いの血を信じるすべての者に与えられるキリストの義の衣を表しています。

●エデンの園で「皮の衣を着せる」という神の恩寵的行為は、新約においては御国のたとえの中に、「最高の衣を着せる」「キリストを着る」「新しい人を着る」という表現で表わされています。

ルカの福音書15章22節(新改訳2017)
「ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い衣を持って来て、この子に着せなさい(ένδύωの命令アオリスト)。手に指輪をはめ、足には履き物をはかせなさい。』 」 

ガラテヤ人への手紙3章26~27節(新改訳2017)
「あなたがたはみな、信仰により、キリスト・イエスにあって神の子どもです。キリストにつくバプテスマを受けたあなたがたはみな、キリストを着た(ένδύω)のです。ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もありません。あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって一つだからです。 」

エペソ人への手紙4章22~24節(新改訳2017)
「その(キリストの)教えとは、・・あなたがたが霊と心において新しくされ続け、真理に基づく義と聖をもって、神にかたどり造られた新しい人を着る(ἐνδύω)ことでした。」

●特に①は、すべてを失って帰郷した「放蕩息子」に対する父の思い、すなわち「急いで一番良い衣を持って来て、この子に着せなさい」ということばこそ、創世記3章21節のことばの新約版です。自分の子である者に着せる「一番良い衣」とは、御父の最も愛する御子が十字架で流された身代わりの血による「紅の衣」であり、それは同時に「義の衣」「白い衣」「救いの衣」「愛の衣」「あわれみの衣」と言えるのです。

3. パウロの言う「着る」という概念

●新約の使徒たちの中でも、「着る」(「エンデュオー」ἐνδύω)という語彙を最も使っているのは使徒パウロです。彼は「着る」を二つの意味で使っています。その一つは、洗礼にあずかった者はキリストを自らその身に着た (アオリスト=過去)という「すでに」の恵みです。その恵みを土台として自発的、主体的な命令(促し)がなされます。もう一つは「いまだ」の恵みで、それはキリストが再臨される時に着る恵みであり、「朽ちることのない着物を身に着る」ことを意味しています。

(1) 「すでに」の恵みとして (アオリスト)

①【新改訳2017】ガラテヤ人への手紙3章27節
キリストにつくバプテスマを受けたあなたがたはみな、キリストを着たのです。

②【新改訳2017】コロサイ人への手紙3章10節
新しい人を着たのです。新しい人は、それを造られた方のかたちにしたがって新しくされ続け、真の知識に至ります。

①【新改訳2017】ローマ人への手紙13章14節
主イエス・キリストを着なさい。欲望を満たそうと、肉に心を用いてはいけません。
②【新改訳2017】コロサイ人への手紙3章12節
ですから、あなたがたは神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者として、深い慈愛の心、親切、謙遜、柔和、寛容を着なさい
③【新改訳2017】エペソ人への手紙6章11, 14節
11 悪魔の策略に対して堅く立つことができるように、神のすべての武具を身に着けなさい
14 そして、堅く立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け

(2) 「いまだ」の恵み(未来形)

●ここで扱う恵みは、これからの恵みです。「すでに」の恵みの他に、「いまだ」の恵みがあるのです。使徒パウロはこの恵みにあこがれていました。

①【新改訳2017】Iコリント人への手紙15章53節
この朽ちるべきものが、朽ちないものを必ず着ることになり、この死ぬべきものが、死なないものを必ず着ることになるからです。(同義的パラレリズム)

②【新改訳2017】IIコリント人への手紙5章1~6節
1 たとえ私たちの地上の住まいである幕屋が壊れても、私たちには天に、神が下さる建物、人の手によらない永遠の住まいがあることを、私たちは知っています。
2 私たちはこの幕屋にあってうめき、天から与えられる住まいを着たいと切望しています。
3 その幕屋を脱いだとしても、私たちは裸の状態でいることはありません。
4 確かにこの幕屋のうちにいる間、私たちは重荷を負ってうめいています。それは、この幕屋を脱ぎたいからではありません。死ぬはずのものが、いのちによって呑み込まれるために、天からの住まいを上に着たいからです。
5 そうなるのにふさわしく私たちを整えてくださったのは、神です。神はその保証として御霊を下さいました。
6 ですから、私たちはいつも心強いのです。ただし、肉体を住まいとしている間は、私たちは主から離れているということも知っています。

●上記の箇所は、将来に備えられている恵みについてです。「御国の福音」です。「私たちの地上の住まいである幕屋」とは何でしょう。それは私たちの「からだ」です。その「幕屋が壊れて」とは「肉体の死」を意味しています。たとえ肉体的な死を経験したとしても、「私たちには天に、神が下さる建物、人の手によらない永遠の住まいがあること」を私たちは知っているとしています。「知っている」とは、信仰によって確信しているということです。「幕屋」「建物」「住まい」と言葉は異なりますが、それは神と人とがともに住む家のことを言っています。「神の下さる建物」のことを、「人の手によらない、永遠の住まい」、「天から与えられる住まい」と言い換えながら(パウロはあるひとつの事柄を別の言葉で言い表すユダヤ的修辞法の達人です)、そこに注意を向けさせています。そしてパウロはそれを「着たい」と切望しているのです。

●このパウロのうめきは、私たちのうめきとは異なります。天からの住まいを着たいゆえのうめきなのです。神とともに永遠に住む家(建物)は、人の手によらない住まいです。その住まいは神の恵みによってすでに保障されていますが、「いまだの恵み」です。それゆえ、パウロははっきりと勧めています。「こういうわけで、あなたがたはキリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。」(コロサイ3:1)。 このパラダイムにシフトする(転換する)ことこそ、「御国を受け継ぐ者たち」、「御国を慕い求める者たち」の霊性と言えるのではないでしょうか。この霊性を、キリストの花嫁である教会が信仰によってしっかりと保っていなければならないのです。

2021.1.31

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