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宗教指導者たちとの論争 (1)「納税」

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96. 宗教指導者たちとの論争 (1)「納税」

【聖書箇所】マタイの福音書22章15~22節

ベレーシート

●イェシュアがエルサレムに入場してからのことをまとめると、まず「いちじくの木が枯れる」という奇蹟がありました。この奇蹟は、神殿を中心とするユダヤ教が神から破棄されてしまうということの預言的行為でした。その後に、イェシュアが宗教的指導者たちに対峙して語った三つのたとえ話はいずれも、ユダヤ人が神の遣わした者たちを拒んだことで、神の契約が新しい共同体である教会に移されてしまうことを預言するものでした。そして今回の箇所から、イスラエルの指導者たち(パリサイ人・サドカイ人・律法の専門家)とイェシュアとの論争がまとめられています。以下はその内容です。

(1) 納税の問題(パリサイ人)
・・「税金を納めることは律法にかなっているのかどうか」(22:15~22)
(2) 復活の問題(サドカイ人)
・・「復活はあるのかどうか」 (22:23~33)
(3) 律法の問題(律法の専門家)
・・「律法の中でどの戒めが一番重要か」(22:34~40)
(4) メシアの問題(パリサイ人)
・・「キリストはだれの子か」(22:41~46)

●上記の問題を、イェシュアは「天の御国」の視点から答えています。そのことを一つひとつ学んでいきたいと思います。今回は(1)の納税の問題、つまり「税金を納めることは律法にかなっているのかどうか」を扱います。

【新改訳2017】マタイの福音書22章15~22節
15 そのころ、パリサイ人たちは出て来て、どのようにしてイエスをことばの罠にかけようかと相談した。
16 彼らは自分の弟子たちを、ヘロデ党の者たちと一緒にイエスのもとに遣わして、こう言った。「先生。私たちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれにも遠慮しない方だと知っております。あなたは人の顔色を見ないからです。
17 ですから、どう思われるか、お聞かせください。カエサルに税金を納めることは律法にかなっているでしょうか、いないでしょうか。」
18 イエスは彼らの悪意を見抜いて言われた。「なぜわたしを試すのですか、偽善者たち。
19 税として納めるお金を見せなさい。」そこで彼らはデナリ銀貨をイエスのもとに持って来た。
20 イエスは彼らに言われた。「これはだれの肖像と銘ですか。」
21 彼らは「カエサルのです」と言った。そのときイエスは言われた。「それなら、カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい。」
22 彼らはこれを聞いて驚嘆し、イエスを残して立ち去った。


1. 「ことばの罠にかける」パリサイ人たち

●マタイ12章14節ですでに「パリサイ人たちは出て行って、どうやってイエスを殺そうかと相談し始めた。」とあります。それはイェシュアに「安息日に癒やすは律法にかなっていますか」と質問することで、訴える口実を得ようとしましたが、イェシュアはそれが律法にかなっているとして、片手の萎えた人を癒やされました。それで彼らは安息日を守らないイェシュアを「どうやって殺そうかと相談し始めた」のです。「相談した」とは「共謀した」という意味です。今回は、パリサイ人たちが納税の問題を取り上げています。

●パリサイ人たちはイェシュアに対して「ことばの罠にかけようと相談した」とあります。「ことばの罠にかける」、正確には「エン・ロゴス」(ἐν λόγος)、つまり「ことばによって、ことばで」罠にかけるということです。「罠にかける」(「パギデューオー」παγιδεύω)という語彙は新約でここ1回限りですが、ヘブル語では「ことばの矢を射掛ける」という表現になります。マタイ22章15節は詩篇64篇の成就と言えます。詩篇64篇には、神に敵対する者が苦いことばの矢を放ちますが、神も彼らに矢を射掛けられるのです。このことがマタイ22章15~22節に表されています。具体的には、パリサイ人たちが「カエサルに税金を納めることは律法にかなっているでしょうか、いないでしょうか。」と矢を射掛けたのに対し、「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい。」とイェシュアは彼らに矢を射掛けられたのです。

●「射掛ける」と訳されたヘブル語の「ヤーラー」(יָרָה)は、本来は「教える」(トーラーの語源)という意味ですが、神のさばきの領域でこの語彙が用いられる時には、「射掛ける」「投げ込む」(出15:4)という意味になります。出エジプトしたイスラエルの民を追ってきたファラオの戦車とその軍勢を、主は海の中に投げ込まれました。そのように、イェシュアに対して「ことばの罠にかけよう」(=ことばの矢を放った)としても、逆に矢を射掛けられてしまい、沈められてしまうのです。そのことは、これから展開する四つの論争のすべてにおいて同じです。その結果、「もうだれも、あえてイエスに質問しようとはしなかった」(22:46)となります。

●もう一つの例を話しましょう。イェシュアが律法学者たちとパリサイ人たちの共謀によって矢を射掛けられたことがありました。姦淫の場で捕らえられたひとりの女がイェシュアのもとに連れて来られて、「先生、この女は姦淫の現場で捕らえられました。モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするよう私たちに命じています。あなたは何と言われますか。」 (ヨハネ8:4~5)と尋ねられた言葉がそれです。これもイェシュアを告発するための彼らの陰謀でした。これに対してイェシュアはどう対処されたでしょうか。イェシュアは沈黙を保っていましたが、しつこく問い続ける彼らに対して、次のように彼らに矢を射掛けられたのです。「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい」と。すると彼らは年長者たちから、ひとりひとりとその場を立ち去り、最後にはだれもいなくなってしまいました。これが「矢を射掛ける」ということです。律法学者とパリサイ人たちの告発は、イェシュアの語った一言で、しかも、予期せぬ形で、不意に封じられたのでした。

●ルカの福音書2章1節に「全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストゥスから出た」とあります。ローマの治世下にあるすべての住民は住民登録をせよという勅令が出たために、人々はそれぞれ自分の町に行って登録しなければならなかったのです。そのためにヨセフとマリアはベツレヘムに行かなければなりませんでした。ローマ帝国はユダヤ人に対し、住民登録に従って「人頭税」を課したのです。ローマの支配下にいる限り、その支配から逃れることはできません。今日においても同様です。日本に住む者であれば、必ず、税金を払う義務と責任があります。もし払わないと、どこまでも追いかけてきて、徴収されます。

●今回登場するパリサイ人たちは、自分たちの弟子たちを、ヘロデ党の者たちと一緒にイェシュアのもとに遣わしています。ここにも彼らの画策があります。というのは、パリサイ派とヘロデ党とは、ローマ帝国に対して対局の立場にありました。しかしここでは結託しています。ある目的が同じなら、それを実現するために結託しようとするのはいつの時代でも同じです。イェシュアを罠にかけようとした質問は「カエサルに税金を納めることは律法にかなっているでしょうか、いないでしょうか」でした。このことばのどこに罠が潜んでいるのでしょうか。それはこういうことです。ローマの皇帝に納税することが「律法にかなっていない」と答えるとすれば、それはローマに反逆する者だと受け止められ、ヘロデ党の者たちが黙っていません。当然、ローマ当局に訴えることになります。なぜなら、彼らはカエサル(=皇帝)への納税に異議を唱えることはしなかったからです。一方、「律法にかなっている」と答えるならば、ローマの支配に反発している者たちは黙っていません。パリサイ派は皇帝に納税することに反対だったからです。ローマ貨幣に「神の子ティヴェリウス」という文字が刻まれていることが、彼らにとって屈辱だったのです。

2. 「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい」

【新改訳2017】マタイの福音書 22章18~21 節
18 イエスは彼らの悪意を見抜いて言われた。「なぜわたしを試すのですか、偽善者たち。
19 税として納めるお金を見せなさい。」そこで彼らはデナリ銀貨をイエスのもとに持って来た。
20 イエスは彼らに言われた。「これはだれの肖像と銘ですか。」
21 彼らは「カエサルのです」と言った。そのときイエスは言われた。「それなら、カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい。」

●イェシュアの答えは、納税が律法にかなうか、かなわないかというものではなく、「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい」というものでした。これはヘロデ党の人たちにも、パリサイ人たちにも偏ることのない答えとなっています。ここに神の知恵があります。しかしそれは表面的な理解です。詩篇64篇にもあるように、神に敵対する者たちが矢を射掛けるときには、同時に神の矢も射掛けられるのです。それでは、イェシュアの答えにある「射掛けられた矢」とはいかなるものでしょうか。それは、「神のものは神に返す」という矢です。神が射掛ける「矢」とは「神のことば」のメタファー(隠喩)です。

3. 「神のものは神に返す」

神の支配.PNG

●イェシュアが語られた「神のもの」という概念は、天の御国の概念で語られていることを知る必要があります。使徒パウロはこう言っています。

【新改訳2017】使徒の働き17章26~28節
26 神は、一人の人からあらゆる民を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、住まいの境をお定めになりました。
27 それは、神を求めさせるためです。もし人が手探りで求めることがあれば、神を見出すこともあるでしょう。確かに、神は私たち一人ひとりから遠く離れてはおられません。
28 『私たちは神の中に生き、動き、存在している』のです。・・・・

●これは異邦人であるアテネの人々に語った説教の中のことばです。ここでは、すべての人、すべての国と領域、すべての時代とその区分は、神によって支配されていることを語っています。このような考え方はヘブライズムです。世界のすべては神の支配(統治)のもとにあるという考え方です。それは、人のすべてはアダムから始まるのであって、いかなる時代であっても、いかなる国であっても、神はただ一人(「エハード」אֶחָד)であり、それゆえ人々は神を求めることができるのです。それゆえ、「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に」ということが、神にとっては対立概念ではなく、両立可能な概念と言えます。神が支配し統治している世界においては、そのことが許容されているのです。

●「神のもの」というフレーズを聖書で検索すると、その範囲は多岐にわたっています。「神のもの」の「もの」は所有を意味します。それはヘブル語の前置詞「レ」(לְ)で表されます。それゆえ、神のもの(所有)を正しく理解して、神をたたえることが重要なのです。

(1) 神の統治(=さばき「ミシュパート」)

①【新改訳2017】申命記 1章17節  
裁判では人を偏って見てはならない。身分の低い人にも高い人にもみな、同じように聞かなければならない。人を恐れてはならない。さばき神のものだからである(כִּי הַמִּשְׁפָּט לֵאלֹהִים)。
※「さばき」と訳された「ミシュパート」(מִשְׁפָּט)は、単に人を調停するさばきだけでなく、神の支配・統治概念です。それが全地と人とに及んでいるのです。

②【新改訳2017】詩篇 47篇7~9 節
7 まことに神は全地の王。ことばの限りほめ歌を歌え。
8 神は国々を統べ治めておられる。神はその聖なる王座に着いておられる。
9 国々の民の高貴な者たちは集められた。アブラハムの神の民として。まことに地の盾神のもの(כִּי לֵאלֹהִים מָגִנֵּי־אֶֶרֶץ)。神は大いにあがめられる方。
※「地の盾」とは諸国の支配者たちのことです。すべての諸国の支配者たちは神の支配下にあります。

③【新改訳2017】ヨブ記 12章16節
・・・迷い出る者(שָׁגַג)も、迷わす者(שָׁגָה)も神のものだ(לוֹ)。
※詩篇119篇118節に「あなたは、あなたのおきてから迷い出る者を、みな退けられます。」とありますが、同67節には「苦しみにあう前には、私は迷い出ていました。しかし今は、あなたのみことばを守ります」とあります。つまり、「迷い出る者」にも、また「迷わす者」にも、神の摂理的な支配があるのです。それは愛に基づく懲らしめのためです。

(2) 神の属性

①【新改訳2017】ヨブ記 12章13節
知恵(ָחָכְמָה)と(נְּבוּרָה)は神とともにあり(עִמּוֹ)、思慮(ֵעֵצָה)と英知(תְּבוּנָה)も神のものだ(לוֹ)。
※神が統治する上で必要な神の属性が挙げられています。それは「知恵・思慮・力・英知」です。

②【新改訳2017】ヨブ記 12章16節
(עֹז)と英知(תְּבוּנָה)は神とともにあり(עִמּוֹ)、

③【新改訳2017】ダニエル書 2章20節
ダニエルはこう言った。
「神の御名はほむべきかな。とこしえからとこしえまで。
知恵(ָחָכְמָה)と(נְּבוּרָה)は神のもの。

④【新改訳2017】ヨハネの黙示録 19章1節
その後、私は、大群衆の大きな声のようなものが、天でこう言うのを聞いた。「ハレルヤ。救い栄光は私たちの神のもの

⑤【新改訳2017】Ⅱコリント人への手紙 4章7 節
私たちは、このを土の器の中に入れています。それは、この測り知れない力神のものであって、私たちから出たものではないことが明らかになるためです。

⑥【新改訳2017】Ⅰコリント人への手紙 3章23節
あなたがたはキリストのもの(לַמַּשִׁיחַ)、キリストは神のものです。

⑦【新改訳2017】エペソ人への手紙 1章14 節
聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。このことは、私たちが贖われて神のものとされ、神の栄光がほめたたえられるためです。

⑧【新改訳2017】Ⅰペテロの手紙 2章9 節
しかし、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです。

⑨【新改訳2017】Ⅰペテロの手紙 3章1 節
同じように、妻たちよ、自分の夫に従いなさい。たとえ、みことばに従わない夫であっても、妻の無言のふるまいによって神のものとされるためです。


ベアハリート

●今回の箇所から、イェシュアがパリサイ人たちに語られたことば、すなわち、「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい」こそが、神が射掛けられた矢なのです。それは、今日の私たち一人ひとりに対しても射掛けられています。「カエサルのものはカエサルに」、つまり、この世においての義務と責任を正しく理解して、それをこの世において果たすべきです。私たちはその義務と責任から解放されることはありません。と同時に、私たちはイェシュアの血による贖いによって買い取られ、「神のもの」とされた者です。ということは、私たちのうちには何もない。すなわち、「」の状態、あるいは「子ども」の状態であることを悟るべきです。

【新改訳2017】ヨハネの黙示録3章14~17節
14 また、ラオディキアにある教会の御使いに書き送れ。『アーメンである方、確かで真実な証人、神による創造の源である方がこう言われる──。
15 わたしはあなたの行いを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。
16 そのように、あなたは生ぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしは口からあなたを吐き出す。
17 あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、足りないものは何もないと言っているが、実はみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸であることが分かっていない。

●アジアにある七つの教会のひとつである「ラオディキア教会」に宛てられた手紙です。この教会は、自分たちは霊的にも精神的にも「富んでいる、豊か(裕福)になった、足りない(乏しい)ものは何もない」と思っていました。しかしこの教会に対して、主は「実はみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸である」と言っているのです。このことを私たちは正しく理解しなければなりませ。神の民とされた者はすべて神に依存しているということを決して忘れてはならないのです。それゆえ、神から与えられた恵みの管理者として、私たちのすべてをもって、それを神のために用いなければなりません。神の御国のご支配に対して、またそのご支配による民の「救いと栄光」が、神の「知恵と力」「思慮と英知」に基づいてなされていることに、感謝と賛美を絶えず主にささげる者となりましょう。このことが「神のものは神に返す」という真意であり、私たちに絶えず求められていることなのではないでしょうか。

2021.2.14
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