****** 教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

宗教的混淆主義による暗黒時代

士師記の目次

15. 宗教的混淆主義による暗黒時代

【聖書箇所】 17章1節~18章31節

はじめに

  • 「ダンからべエル・シェバまで」と言えば、イスラエルの領地は北限をダンとし、南限をベェル・シェバとすることを意味します。しかし、はじめから北限はダンではありませんでした。士師の時代に彼らの一部がそこに移住したのです。その経緯が士師記18章に記されています。
    画像の説明
  • 士師記17章~21章は、17章6節、および21章25節(士師記の最結部)にある「そのころ、イスラエルに王がなく、自分の目に正しいと見えることを行なっていた。」という定型句に挟まれています。この表現はイスラエルがいわば無法状態であったことを示しています。神がヨシュアにカナン侵入前に語ったことば、すなわち「わたしのしもべモーセがあなたに命じたすべての律法を守り行え。これを離れて右にも左にもそれてはならない。それは、あなたが行く所ではどこででも、あなたが栄えるためである。」(ヨシュア記1:7)から大きく軌道を外してしまった状態を示しています。
  • かつてアダムとエバがエデンの園で「善悪の知識の木」から取って食べたことで罪に落ちましたが、それは善悪の基準を人間がもってしまうことを意味しています。その実態が士師記17~21章に記されているのです。

1. 宗教的混淆主義

  • 今回の瞑想箇所である17章と18章には、俗にいう「恵まれる」という箇所がひとつもありません。イスラエルの伝統的な宗教的語彙と同時に、異教の偶像礼拝的営みが無意識的に混淆しています。
  • 17章の登場人物「ミカ」のヘブル語表記は「ミーハーイェフー」מִיכָהיְהוּです(17:1)。簡略化して「ミーハー」מִיכָהですが、その意味は「神のような者」です。しかし何一つその名前の実体を表わすものがこの人にはありません。母親のもの(銀千百枚)を盗み、そのことで母が盗んだ者を呪っているのが耳に入るのを知ると、それを母親に返しています。母親はその中から息子のために聖別して主にささげ、自分の息子のために、彫像と鋳像を造っています。
  • ミカの家は母子家庭のようで、かなり資産のあった家のようです。自分の家に主の宮があり、レビ人を祭司として迎え入れたことから分かります。
  • 伝統的な宗教用語である「聖別」「主にささげる」「主の宮」「レビ人」「祭司」「任命」という語彙。それと「彫像」と「鋳像」の偶像。特に、ミカが作った「エポデとテラフィム」(17:5)はまさに宗教的混淆をよく表わしています
  • 一見、宗教用語を使いながらも何ら違和感なく異教の偶像と混淆させている状況は、一つの家の中に神棚があり、仏壇があるというまさに日本の宗教的事情と似ています。クリスチャンホームでありながら、子どものために七五三やひな祭り、五月の節句を祝っているようなものです。日本人が正月になると神社に初詣をし、葬儀は仏式、結婚式はキリスト教式で行うようなもので、こうした混淆主義がなんら抵抗なく無意識の中で行われているのが日本の宗教的特徴です。良く言えば宗教的寛容さがあるように見えますが、悪く言えば宗教的淫乱です。
  • 士師記17章以降はまさにそうしたイスラエルの宗教的混淆状態を描いているのです。それは、神によって神ご自身の救いの計画とこの世にまことの神をあかしすべく選び出された神の民が、神の聖を喪失してしまった姿なのです。

2. ダン族の北方移動のいきさつ

  • ダン部族の一部が本来割り当てられた地を自分たちのものとすることが出来ずに、北方の地に移動する経緯の中にも、17章の宗教的混淆主義と密接な関係があったことが18章に記されています。
  • ダン部族は諸氏族全体の中から五人の者を選び、新しい土地を偵察し調査するために派遣しました。その際、ミカの家に立ち寄り、ミカが勝手に雇った祭司から神のみこころを知ろうとしました。偶像礼拝そのものが「自分(たち)ために」なされるものであるゆえに、祭司の口から出たことばは「安心して行きなさい。あなたがたのしている旅は、主が認めておられます。」(18:6)でした。
  • ここには祭司が主に伺ったという記録は一切ありません。すべてが最初から神の律法から逸脱しているために、人間の都合の良いことだらけがまかり通っていきます。神は沈黙しておられます。「主が認めておられます」と言ったミカの家の祭司は、やがてダン部族のよりよい条件の方を選んで、ミカの家から出てダン部族の祭司となりました。神のみこころは一切なしです。すべては人間が自分で良いと思うことを神のみこころと結びつけていくところに、偶像礼拝の恐ろしさがあります。
  • これらのことから、私たちは自分自身を吟味する必要を迫られます。宗教的、信仰的表現を使いながら、自分勝手な、自分に都合の良いように歩んでいないかどうか、霊的点検を迫られます

2012.5.8


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