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定めの時のための幻を書き記せ

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2. 定めの時のための幻を書き記せ

【聖書箇所】 1章12節~2章4節

ベレーシート

  • ハバクク書1章12節から2章4節までは、第二回目のハバククの問いかけと、それに対する主の答えが記されています。今回の瞑想はこの部分からとしたいと思います。
  • 第一回目のハバククの訴え(問いかけ)は、暴虐と争いが起こって社会的秩序が保たれていないユダの現実、また、神の律法が全く機能を果たしていない中で、ハバククが神に救いを求めて叫んでいるにもかかわらず、神が何もなしてくださらないことに対して問いかけています。その問いかけに対する神の答えは、「わたしは一つの事をあなたがたの時代にする。・・見よ。わたしはカルデヤ人を起こす。」というものでした。それは、神がカルデヤ人を用いてユダの民を矯正するためですが、ハバククはそのことを正しく理解したようです。しかし、それはカルデヤ人(バビロン)が豊かになる事を意味しました。ユダのみならず、諸国民からの搾取のゆえに繁栄を喜び楽しんでいるバビロンの姿に対して、果たしてそんなことがずっと続くのかどうか、受け入れがたいこのことがハバククの神に対する問いかけでした。

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1. ハバククの第二の問いかけ(1:12~17)

【新改訳改訂第3版】ハバクク書1章12~17節
12 【主】よ。あなたは昔から、私の神、私の聖なる方ではありませんか。私たちは死ぬことはありません。【主】よ。あなたはさばきのために、彼を立て、岩よ、あなたは叱責のために、彼を据えられました。
13 あなたの目はあまりきよくて、悪を見ず、労苦に目を留めることができないのでしょう。なぜ、裏切り者をながめておられるのですか。悪者が自分より正しい者をのみこむとき、なぜ黙っておられるのですか。
14 あなたは人を海の魚のように、治める者のないはう虫のようにされます。
15 彼は、このすべての者を釣り針で釣り上げ、これを網で引きずり上げ、引き網で集める。こうして、彼は喜び楽しむ。
16 それゆえ、彼はその網にいけにえをささげ、その引き網に香をたく。これらによって、彼の分け前が豊かになり、その食物も豊富になるからだ。
17 それゆえ、彼はいつもその網を使い続け、容赦なく、諸国の民を殺すのだろうか。

  • ハバククの第二の問いかけの焦点は何でしょうか。神のミシュパート(統治)として神が据えられるカルデヤ人はユダの民を叱責するための神の道具であること、また、ユダが彼らによって決して滅亡してしまうことがないことを、ハバククは正しく理解しました。しかし、たとえ彼らが神の目的のために据えられることを理解したとしても、それによって彼らが豊かになり繁栄がもたらされ、その豊かさをさらに求めるために、容赦なく諸国の民を引きずり上げ、集めて喜び楽しむ「網」(=支配力)をいつまで行使し続けるのか、そこが問いかけの焦点でした。
  • ユダの叱責のための神の道具を12節、および15~17節で「」としていますが、その「彼」とはバビロンの王のことであり、「裏切り者」「悪者」(13節)、「人」(14節)とも表現されています。その彼が支配力によって豊かになるという現実に対して、ハバククは受け入れがたいものを感じていたのではないかと思われます。カルデヤ人(バビロン)が豊かさ(繁栄)の味を覚え、さらなる繁栄を求めて容赦なく諸国の民を殺し続けることがいつまでも続くのかどうか、ハバククは主に問いかけたのです。
  • 諸国から富を搾取することでもたらされる繁栄は、ハバククにとって耐え難いことだったと思います。詩篇73篇の作者である霊的な指導者も、「誇り高ぶる者をねたみ、悪者の栄えるのを見た」とき、「私自身は、この足がたわみそうで、私の歩みはすべるばかりだった」(73:2)と赤裸々に告白しています。この詩篇の作者にとっては、「悪者が、いつまでも安らかで、富を増している」ことに耐えられなかったのです。まさに作者の心は獣と同様の状態だったようです。もしこのことが人に知れたならば、多くの者がつまずきかねないことも知っていました。ハバククも同じ心境になっていたのではないかと思います。

2. 神の定め(終わり)の時の幻を書きしるして、信じて待て

  • ハバククのこの問いかけに対する主の答えは以下の通りです。

    【新改訳改訂第3版】ハバクク書2章3節
    2 【主】は私に答えて言われた。幻を板の上に書いて確認せよ。これを読む者が急使として走るために。
    3 この幻は、定めの時について証言しており、終わりについて告げ、まやかしを言ってはいない。もしおそくなっても、それを待て。それは必ず来る。遅れることはない。


    ●2節も3節も第三版では改訂されている箇所です。第二版では「幻を書きしるせ。これを読む者が急使として走るために、板の上にはっきり書きしるせ。」となっていました。特に、改訂第三版のでは、「はっきり書きしるせ」が、「書いて確認せよ」と訳し直されました。間違って書き記していないかを確認せよ」というイメージです。つまり、書き記される内容がきわめて重要な事柄であることを伺わせる訳です。

    ●3節も、第二版では「この幻は、なお、定めの時のためである」となっていたのが、改訂第三版では「この幻は、定めの時について証言しており」となりました。つまり神のご計画のマスタープランにおける最後の時についての啓示だということが明確にされています。

(1) 幻を書きしるせ

  • 主から書き記せと言われた「幻」とは、「主の定められた時」のことであり、「終わりの日についてのこと」です。それは、神のご計画においてはメシア王国(千年王国)のことを意味します。
  • 詩篇73篇の作者がかかえた葛藤は、彼が「神の聖所に入り、ついに、彼らの最後を悟った」(73:17)ことで解決されたように、ハバククも同様に、主から示される「幻」(「ハーゾーン」חָזוֹן)を神の「定めの時」のものとして、つまり神のご計画の「終わり」について悟ることで答えを得たのです。その内容については2章5節以降に記されていますが、「幻」を板の上にはっきりと書き記す目的は、

①新改訳「これを読む者が急使として走るため
②新共同訳「走りながらでも読めるように
③フランシスコ会訳「それを読む者が容易に読めるように
④岩波訳「それを読みながら走るために
⑤ATD訳「よどみなく読めるように

  • これはいったいどういう意味なのでしょうか。いろいろな訳を並べてみると、新改訳は他の訳と比べて異色な訳です。原文には「急使として」という意味を持つ語彙はありませんが、この幻の啓示の重要性のゆえに、これを読んだ者が急いで人々に知らせなければという衝動に駆られる意味として意訳されているようです。
  • また、「走る」と訳された「ルーツ」(רוּץ)には、単に「走る」という意味だけでなく、「急いで走る、一心に走る」という意味合いがあります。詩篇119篇32節に「私はあなたの仰せの道を走ります。」とありますが、詩篇119篇の作者が急いで走らなければならなかった事柄とはいったい何だったのでしょうか。
  • 詩篇119篇は、バビロンの捕囚となったユダの民が神のトーラーに開眼し、「トーラー・ライフスタイル」が回復した告白が記されている詩篇です。まさに、主に対する霊的渇望がご自身の民の中から起こされること、これこそ主がご自身の民にバビロン捕囚という辛い経験をさせた愛の配慮でした。そうした文脈の中にある「走ります」(「ルーツ」&size(20){רוּץ})ということばは、神の民にとって自らの信仰的な自立に向けたアイデンティティ確立の急務とその熱意(献身)を表わす信仰的表現だと言えます。このことが確立されなければ、彼らは自分たちの存在の根拠と生きる希望を失う危機感を抱いていたことをうかがわせます。まさに「走ります」とは、信仰的アイデンティティの確立と深くかかわる事柄なのです。
  • 使徒パウロもピリピ人への手紙の中で、「一心に走る」ということばで、同じことを教えています。「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕えようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕えてくださったのです。兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。ですから、成人である者はみな、このような考え方をしましょう。」(3章12~15節)と勧めています。
  • 板に書かれた幻の内容が「終わりの時について告げられているもの」であるということが重要です。それは神のご計画の目的だからです。そのご計画の目的とは、メシアの再臨によってこの地に神の主権が確立され、神と人とが共に住むということの実現です。そのためにはメシアなるキリストが再臨する必要があるのです。

(2)「終わりについての幻」は必ず実現する

【新改訳改訂第3版】ハバクク書2章3節
この幻は、定めの時について証言しており、終わりについて告げ、まやかしを言ってはいない。もしおそくなっても、それを待て。それは必ず来る。遅れることはない。

  • 「それは必ず来る」と訳された部分の「それ」とは「終わりの事柄」です。「来る」(「ボー」בּוֹא)という動詞を二重にする(不定詞+未完了)ことで、「必ず来る」ことが強調されています。

    画像の説明

(3)「遅くなっても、それを待て」

  • 「待て」と訳された原語は「ハーハー」(חָכָה)です。ヘブル語には待望用語が多くありますが、「ハーハー」はその一つで(旧約で14回)、一縷の望みとして熱心に待つことを意味します。「待つ」ように命じられたているのは「終わりについての事柄」です。それは神のご計画の完成を意味します。
  • 「終わり」を意味するヘブル語は「ケーツ」(קֵץ)です。この「ケーツ」のゲマトリア(文字の数値)は「100+900」=「1000」です。「一日は千年のようであり、千年は一日のようです」(Ⅱペテロ3:8)、これが神の世界の単位です。ですから、「遅れることはない」と神が言われても、人間の数の感覚ではなく、神の感覚で理解しなければなりません。「遅くなっても、遅れることはない」という表現も私たちの感覚で理解しようとするならば、ある人々のように、「キリストの来臨の約束はどこにあるのか。・・・何事も創造の初めからのままではないか。」(Ⅱペテロ3:4)と言い張るのです。そうした者は、ハバクク書2章4節にあるように「心のまっすぐでない者」で、「心高ぶった」者と言えます(第三版では「彼の心はうぬぼれていて、まっすくでない」と訳されています。)。

3. 正しい人は信仰によって生きる

  • ハバクク2章4節にある「正しい人はその信仰によって生きる」とは、使徒パウロが言うような、救われるために必要なのは、「行ない」か、あるいは「信仰」か、という意味ではありません。ハバククの場合の正しい人(義人)とは、神の「幻」(「終わりについてのこと」)を信じる人のことであり、その人はその信仰によって「生きる」のだということを言わんとしています。換言するならば、「終わりの事柄」への信仰がその人に希望を与えて、力強く生かしめるということなのです。つまり「御国の福音」がその人を生かすようになるということです。
  • 第二次世界大戦において、日本では多くの教会の牧師たち(特に、ホーリネス教会の牧師たち)が治安維持法違反によって逮捕され、処罰されました。その中には獄中で天に召された牧師たちもいたのですが、なにゆえに彼らは逮捕されたのでしょうか。それを一言で言うならば、再臨されるキリストの王権を信じる彼らの信仰が、天皇の王権への反抗とみなされたからです。今日の信仰の自由を認められたクリスチャンには信じ難いことかもしれません。今日の私たちの信仰は、キリストの再臨に対する待望がボケています。私たちは、戦時中の弾圧にも屈しなかった信仰者たちの目がどこに向けられていたかを注視すべきです。彼らは、まさに、終わりの事柄に対する信仰によって生きる力を与えられていたのです。それは初代教会においても然りです。私たちはどうでしょうか。そのような信仰が果たして確立しているのでしょうか。


2015.6.13


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