****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

富める者と貧しい者への関心

〔D〕ルカ独自の記事

2. 富める者と貧しい者に対する関心

(1) ルカの福音書における「富める者」、「貧しい者」とは誰か

  • ルカの語っている貧しい者(プトーコス)とはだれを指しているのか。イエスがナザレで公に語った最初のことば(ルカ4章18~19節)には、貧しい者の運命を逆転するという福音が語られている。「捕らわれ人」「盲人」「しいたげられている人々(圧迫されて傷ついた人々)」は、すべて「貧しい人々」に含められている。それらはみな貧しさの現われであり、すべて「福音」を必要としている。「貧しい者」とは、しばしば不利な立場に置かれている人々すべてを指す集合的なことばである。ルカにとって貧しい者とは、社会的カテゴリーである。脚注
  • 逆に、「富める者」(プルーシオス)とは、貪欲な者、貧しい者を搾取する者、金儲けに夢中になり、宴会の招待をも断ってしまう者(ルカ14章8~9節)、ラザロが門のところにいても気がつかない者(16章20節)、快楽的な生き方をしており、それゆえに富への心使いによって心が閉ざされてしまう者(8章14節)である。また、マモン(富)の奴隷であり、崇拝者である。また、彼らは、傲慢で、力を持ち、それを乱用する。とりわけ彼らは不敬虔であり、この世のことに夢中であるため、「神の前に富まない者」(12章21節)、あるいは「神の目には貧乏人」である。ルカ6章24~25節は「富んでいる者」に対する呪いのことばである。

(2) ルカ固有のたとえの多くはお金の問題にかかわっている

No.聖書箇所たとえ話ルカ特有
17章41節~50節二人の債務者
212章13節~21節愚かな金持ち
314章28節~30節塔を築こうとする者
415章8節~10節失われた銀貨
516章1節~13節不正な管理人
616章19節~31節金持ちとラザロ
718章18節~25節金持ちの役人
819章1節~10節取税人ザアカイ
921章1節~4節レプタ二枚をささげた貧しいやもめ
  • 「貧しい者」「富める者」-この二つの世界は固いバリア(障壁)によって分けられており、富める者は貧しい者を軽蔑し、貧しい者たちは悲しみの中に自らを閉じ込めてしまいがちであった。
  • 以上のように、ルカ固有のたとえの多くはお金の問題にかかわっている。また、6章20節、24節では貧しい者への祝福と富む者へののろいが対照されている。イエスは貧しい人々に福音を伝えるよう遣わされた(4章18節、7章22節)。御使いたちがキリストの誕生を最初に知らせた羊飼いたちも貧しい人々であった(2章8節以下)。祝宴を催す時、金持ちや友人、親族ではなく、「貧しい人、不具の人、足なえ、盲人たち」を招くようにという指示まで与えられている(14章12節~14節。21節)。マリヤもその賛美で「飢えた者を良いもので満ち足らせ」と歌っている(1章53節)。ルカの描くイエスは、常に、貧しい者と共にいるのである。
  • イエスのたとえは、富や財産そのものに向けられたのでなく、そこから生じる危険と、それらによって危険にさらされている人々に向けられている。愚かな金持ちのたとえは、富により頼む金持ちの心理を見事に描写している。金持ちの役人はイエスのもとを去って行った(18章18節以下)。それに対し、財産を放棄したザアカイの姿を見て、イエスは「きょう,救いがこの家に来ました」と語っている(19章8~9節)。また、神に対し最も多くささげたのは、金持ちではなく貧しいやもめであった(21章1~4節)。

(3) 富(マモン)によってもたらされる人間の普遍的危機

  • イエスはルカ12章33節で「朽ちることのない宝を天に積み上げなさい」と言われた。宝とは、その人にとって価値ありとするもの、依存の対象、関心の的、満足を与えるものである。人はだれでも、例外なしに、有形無形の宝を持っているものである。「あなたの宝のあるところに、あなたの心がある。」(34節)とあるように、その宝がその人の心であり、その人の生きる目的になってくる。
  • 自分のために宝を持つことが悪いことだと、イエスは言っておられない。むしろ宝なしに人間は生きられないのである。それを見出そう、得ようとすることが、生きることの原動力となる。大切なことはイエスがその宝を地上にたくわえること(見出すこと、求めること)を警告されているのである。「自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい」なぜなら、そこでは虫とさびで、きず物となり、また盗人が穴をあけて盗むからである。
  • 地上の宝とは、具体的に、子ども、夫、妻、親、尊敬する人物、健康、安定した生活、自分の才能、能力、技能、仕事、所有物、ある経験・・等。このような地上の宝はいつも失う危険をはらんでいる。いつ失うかわからないために、どこかに喪失の不安を抱えて生きている。だからその不安ゆえに、依存する対象にますます執着するようになる。貪欲になる。自分の宝を地上のものに見出そうと私たちがもがくことは、つまりそれらのものに信頼を置くならば、究極的には幻想の運命に終わることを、イエスは警告しているのである。この世のものはみな恒久性がない。やがてはみな朽ち果て、失われるのである。 
  • 富それ自体は罪ではない。神からの与えられたものであり、正しく管理しなければならない。しかし、富に対する私たちの態度が危険なのである。罪は富を用いて私たちのうちに貪りを引き起こす。私たちの目をくらませ、判断を狂わせ、私たちの生活を支配してしまう。力をもって、私たちを引きずっていく。主は、そのことをよく考えるように私たちに迫っておられるのである。「あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」(ルカ12章13節)。
  • 富は私たちの思いと行動を束縛する強い力を持っている。それは全人格を捕らえる力を持つものである。そして私たちを神から引き離すすさまじい威力なのである。富は人間の考え方に3つの影響を及ぼす。
  • ① 
    富は、誤った独立心を助長する。この世に物質的に恵まれている人はお金さえあれば何でも手に入る。何か困ってもお金さえあれば解決がつくと考えている。
    ② 
    富は、人をこの世に縛り付けてしまう。望むものがすべて世にある者は、来たるべき世に、天におけるものに何の興味も示さなくなる。見えるものだけに心を奪われ、見えないものの価値が薄れる。
    ③ 
    富は、人を利己主義にする。貪欲、物欲はどんなに多くもっていても満足はしない。一度、安楽でぜいたくを味わうとそれを失うことを恐れ、失われまいといつも緊張し、心配が耐えない。そして他人に分け与えるよりもいっそう富に執着するようになる。
  • ●例話・・・〔ひとりの農夫の話〕
    ある日、その農夫がニコニコと喜びながら帰ってきた。というのは、一番いい牛が二頭の子牛を産んだのであった。一頭は赤い牛、もう一頭は白い牛だということを奥さんや家族に知らせた。彼は「そのとき、急に時期が来たら一頭を売ってその売上金はうちに、もう一頭分は主の働きのためにささげよう」と言った。すると奥さんは「どちらをささげるつもりか」と尋ねられ、すると彼は言った。「そんなことは今心配しなくてもよい、時期が来るまで両方とも同じように育てよう。」と。
     それから数ヵ月後、男はなんとも哀れな、悲しい顔つきをして帰ってきた。彼の奥さんが「何か心配事でもあるのですか」と聞くと、「悪い知らせだ。主にささげた牛が死んでしまった」。・・奥さんは「でも、この前、どちらを主の牛とするかお決めになりませんでしたよ」と言ったが、彼は「いや、白いやつにしようとずっと決めていたんだ。そしてその白いやつが死んでしまった。主の牛が死んだんだ」と。
  • 果たしてこの話を笑うことができるだろうか。死ぬのはいつも主の牛なのである。ふところ具合が淋しくなると、まず先に削られるのは主のものなのである。
  • 神と自分との間に「モノ」(富、お金、財産)が入ってくるとき、むさぼりになる。むさぼりとは偶像礼拝である。富はこのようにすさまじい力をもって私たちを捕らえ、支配してしまうデーモン的な力である。私たちはこの誘惑に自分の力で勝つことはできない。
  • イエスは、金持ちが天国に入ることは、らくだが針の穴を通る以上に難しいと言われた。それは富のもつデーモン的な力のゆえである。しかし金持ちは決して天国に入れないと言われたのでない。人にはできないが、神にはできるのである。たとえば、ザアカイがそうである。彼はイエスと出会ってから天に宝を見出した。ルカの福音書はまさに富める者に呼びかけているのである。

脚注
●ディヴィッド・ボッシュ著『宣教のパラダイム転換<上>』(新教出版社、170~176頁参照)。174~175頁にかけて、次のように記されている。

  • 「ルカ4章18~19節はイザヤ書61章1~2節からの引用である。これはまずバビロン捕囚直後の失望したユダヤ人にまず語られたものである。ここで注目すべきことは、ルカは、イザヤ書61章1節と2節の間に、イザヤ書58章6節の『しいたげられている者たちを自由の身とし』ということばを挿入している。これはルカが意図的に挿入したものである。『しいたげられた者たちを自由の身とし』という句は、明らかに社会的な面を示している。というのも、イザヤ書58章6節は、富める者が貧しい者を搾取するという社会的矛盾を批判している文脈に置かれているからである。富める者は断食の日にさえ、自分の好むことをし、労働者を圧迫している(3節)。そのような中で預言者は『わたしの好む断食は、これではないか。悪のきずなを解き、くびきのなわめをほどき、しいたげられた者たちを自由の身とし、すべてのくびきを砕くことではないか。飢えた者にはあなたのパンを与え、家のない貧しい人々を家に入れ、裸の人を見て、これに着せ、あなたの肉親を世話することではないか・・・』と語る。このように『しいたげられた人』とは、経済的に破綻した者、奴隷になった者、貧困の束縛から逃れる希望のない者を指す。そしてそれは、ヨベルの年、あるいは『主の恵みの年』のみが、彼らにその悲惨から逃れる道をもたらすことができるのである。」

powered by Quick Homepage Maker 5.2
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional