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小さい者たちの一人の価値 (2)

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80. 小さい者たちの一人の価値 (2)

【聖書箇所】マタイの福音書18章8~14節

ベレーシート

●マタイの福音書18章は、この世において、「小さい者たち」である御国の民(=教会)がつまずくことなく、いかにしていのちある共同体として建て上げられていくべきかをイェシュアは教えています。前回に続いて、「小さい者たちの一人の価値」についてイェシュアがどのように語っているかをみていきたいと思います。

●今回のテキストは8~9節と10~14節の二つに分かれます。一つは「あなた自身がつまずくことがないように」というメッセージであり、もう一つは「小さい者たちの一人を軽んじたりしないように気をつけなさい」というメッセージです。前者の理由は「あなたがいのちに入る」ためであり、後者の理由は「小さい者たちの一人が滅びることは、天におられるあなたがたの父のみこころではない」からです。

【新改訳2017】マタイ福音書18章8~14節
8 あなたの手か足があなたをつまずかせるなら、それを切って捨てなさい。片手片足でいのちに入るほうが、両手両足そろったままで永遠の火に投げ込まれるよりよいのです。
9 また、もしあなたの目があなたをつまずかせるなら、それをえぐり出して捨てなさい。片目でいのちに入るほうが、両目そろったままゲヘナの火に投げ込まれるよりよいのです。
10 あなたがたは、この小さい者たちの一人を軽んじたりしないように気をつけなさい。あなたがたに言いますが、天にいる、彼らの御使いたちは、天におられるわたしの父の御顔をいつも見ているからです。
11 ☆
12 あなたがたはどう思いますか。もしある人に羊が百匹いて、そのうちの一匹が迷い出たら、その人は九十九匹を山に残して、迷った一匹を捜しに出かけないでしょうか。
13 まことに、あなたがたに言います。もしその羊を見つけたなら、その人は、迷わなかった九十九匹の羊以上にこの一匹を喜びます。
14 このように、この小さい者たちの一人が滅びることは、天におられるあなたがたの父のみこころではありません。


1. 自分自身がつまずくことがないように

●テキストの8~9節には、「あなたの手か足があなたをつまずかせるなら、それを切って捨てなさい。また、もしあなたの目があなたをつまずかせるなら、それをえぐり出して捨てなさい。」とあります。字面だけを読むと怖い感じがしますが、そのみことばの真意(強調点)はどこにあるのでしょうか。

●それを考えていく前に、神が置かれる「つまずき」をあなたは知っているでしょうか。そのつまずきとは、イェシュア自身です。イェシュアも「わたしにつまずかない者は幸いです」と言われましたが、彼こそが「つまずきの石、妨げの岩」なのです。使徒パウロも、使徒ペテロも同様にそのことを手紙の中に記しています。

【新改訳2017】ローマ人への手紙 9章31~33節
31 しかし、イスラエルは、義の律法を追い求めていたのに、その律法に到達しませんでした。
32 なぜでしょうか。信仰によってではなく、行いによるかのように追い求めたからです。彼らは、つまずきの石につまずいたのです。
33「見よ、わたしはシオンに、つまずきの石、妨げの岩を置く。この方に信頼する者は失望させられることがない」と書いてあるとおりです。

【新改訳2017】Ⅰペテロの手紙2章6~8節
6 聖書にこう書いてあるからです。「見よ、わたしはシオンに、選ばれた石、尊い要石を据える。この方に信頼する者は決して失望させられることがない。」
7 したがってこの石は、信じているあなたがたには尊いものですが、信じていない人々にとっては、「家を建てる者たちが捨てた石、それが要の石となった」のであり、
8 それは「つまずきの石、妨げの岩」なのです。彼らがつまずくのは、みことばに従わないからであり、また、そうなるように定められていたのです。

●ここで分かることは、イェシュアのいう「小さい者たち」とは、神の置かれた「つまずき」を乗り越えてイェシュアを信じた者たちだということです。イェシュアは「わたしがあなたがたに話してきたことばは、霊であり、またいのちです」(ヨハネ6:63)と言われました。しかし、弟子たちのうちの多くの者が「これはひどい話だ。だれが聞いていられるだろうか」(同、6:60)と言って、イェシュアの語ることばにつまずき、離れていきました。その後にイェシュアはこう言われたのです。「父が与えてくださらないかぎり、だれもわたしのもとに来ることはできない」と(同、6:65)。そのようにして、イェシュアのもとに来た者こそ、イェシュアのいう「小さい者たち」なのです。したがって、今回のマタイ18章8~9節の「あなた」とは、まさにそのような者たちに対して語っているのです。

●「あなたの手か足があなたをつまずかせるなら、それを切って捨てなさい。また、もしあなたの目があなたをつまずかせるなら、それをえぐり出して捨てなさい。」とあるのは、文字通りのことではなく、どんな代価を払ってでも、つまずきを取り除くべきことを教えているのです。ここでは身体の一部である「手、足、目」が取り上げられています。「手と足」は人の歩みや活動を表し、「目」は思考や判断を表すものとして解釈できます。特に、目はからだ全体に影響を与えます。アダムの妻が蛇にそそのかされて「善悪の知識の木の実」を食べてしまった原因は、彼女が自分の目で「見た」からです。それは自分の視点で物事を判断したことを意味します。そして彼女はそれを手に取って食べたのです。神の言われたことよりも、蛇の言うことを耳で聞いて、それを自分の目で見て、判断したことがつまずきのもとでした。そして、それが自分の行動(手と足)となって現れました。神のことばは霊的なものであり、いのちなのです。ですから、「もしあなたの目があなたをつまずかせるなら、それをえぐり出して捨てなさい」という厳しいことばが語られているのは、あなたが「霊の人として生きる」ためであり、あなたが「いのちに入る」ために他なりません。

●ところで、「いのちに入る」ことと「永遠の火(=ゲヘナ)に投げ込まれる」こととが対比されています。「いのちに入る」という表現は、「永遠のいのちに入る」ことと同義です。いずれも、天の御国における永遠のいのちに入ることを意味します。マタイ18章8節と9節の他には、25章46節に「こうして、・・正しい人たちは永遠のいのちに入るのです」とあります(「羊と山羊のたとえ))。ところで、ここでの「正しい人たち」とは誰のことでしょうか。本筋からはズレますが、ここでの「永遠のいのちに入ることのできる正しい人たち」について話しておきます。彼らはイェシュアを信じた者たちではありません。イェシュアが「これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです」と語っている人たちのことです。つまり、彼らとは、終わりの日に大患難を通らされるイスラエルの民に対して良くしてあげた異邦人たちのことです。この人たちはイェシュアに対する信仰のゆえに救われて御国に入るのではなく、「わたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたこと」が救いの基準になって御国に入るのです。彼らはイェシュアの再臨後にそのまま御国(永遠のいのち)に入ることができる者たちです。すなわち、天の御国(千年王国)の民とされるのです。そこで彼らは再臨された人の子イェシュアがメシアであることを知ることになるでしょう。

●一方、「最も小さい者たち」とは、獣と呼ばれる反キリストによって大患難を通らされるユダヤ人たちのことです。彼らに注がれた「恵みと嘆願の霊」(ゼカリヤ12:10)によって、イェシュアをメシアと信じた「イスラエルの残りの者たち」です。その者たちに良くしてあげた異邦人は「正しい者」とされ、永遠のいのちに入る(御国に入る、千年王国に入る)ことができるという話です。この人たちは教会の構成員ではありませんが、再臨の直前に、「最も小さい者たち」と言われるユダヤ人(イスラエルの残りの民)に良くしてあげたことで救われるのです。教会はイェシュアがメシアであると信じる信仰によって救われた者たちのことですが、このことが起こる時には教会はすでに携挙されています。神は最後の最後まで(メシアの再臨の時まで)、少しでも御国を継ぐことのできる(すなわち、救われる)人を捜している方であるということを、マタイの福音書を通して私たちは知ることができるのです。整理すると、マタイ18章で語られている「この小さい者たち」とは教会のことですが、マタイ25章で言われている「この最も小さい者たち」というのは、イスラエルの残りの者たちのことを指しているのです。

●話を元に戻します。「あなたの手か足があなたをつまずかせるなら、それを切って捨てなさい」とか、「あなたの目があなたをつまずかせるなら、それをえぐり出して捨てなさい」とは、どんな代価を払ってでも、つまずきを取り除くべきことを教えているだけでなく、それを積極的な表現に言い直すならば、あなたが「霊の人として生きなさい」ということです。「霊の人として生きる」とはどういうことなのでしょうか。結論を言えば、それは「キリストの心を持って生きる」ことです。では、キリストの心を持つとはどういうことなのでしょうか。使徒パウロはⅠコリント人への手紙2章で、それは人間の知恵ではなく、神の知恵、すなわち、御霊のことばによって生きることだとしています。

【新改訳2017】Ⅰコリント2章7,12~16節
7 私たちは、奥義のうちにある、隠された神の知恵を語るのであって、その知恵は、神が私たちの栄光のために、世界の始まる前から定めておられたものです。
12 ・・・私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神からの霊を受けました。それで私たちは、神が私たちに恵みとして与えてくださったものを知るのです。
13 それについて語るのに、私たちは人間の知恵によって教えられたことばではなく、御霊に教えられたことばを用います。その御霊のことばによって御霊のことを説明するのです。
14 生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらはその人には愚かなことであり、理解することができないのです。御霊に属することは御霊によって判断するものだからです。
15 御霊を受けている人はすべてのことを判断しますが、その人自身はだれによっても判断されません。
16 「だれが主の心を知り、主に助言するというのですか。」しかし、私たちはキリストの心を持っています

●パウロに与えられた啓示はすべて聖霊によるものです。そのことばは聖霊による知恵の言葉であり、人間の知恵のことばではありません。人間の知恵とは、人の目の見るところ、耳の聞くところ、心の思うところによるものです。アダムの妻が蛇にそそのかされて、アダムとその妻が「善悪の知識の木」から取って食べたそのときから、人間は霊によって神を知ることができなくなってしまいました。生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらはその人には愚かなことであり、理解することができないのです。御霊に属することは御霊によって判断するものだからです。

●「生まれながらの人間」とは「霊の人」ではなく、「魂の人」(知情意)です。Ⅰコリント2章と3章には三種類の人について記されています。第一は「魂の人」(再生されていない人)、第二は「肉の人」(再生されているが、霊に従って歩まず、肉に従って歩もうとする人)、そして第三は「霊の人」(神の霊によって歩む人)です。パウロはこの「霊の人」を「内なる人」と言い、「肉の人」を「外なる人」と呼んでいます。そして、彼は「どうか御父が、その栄光の豊かさにしたがって、内なる人に働く御霊により、力をもってあなたがたを強めてくださいますように」(エペソ3:16)と祈っています。つまり、あなたの手や足、そして目がつまずきとならないためには、あなたが「霊の人」として生きる以外に、道はないのです。

2. 「小さい者たちを軽んじたりしてはならない」

●10節以降は、あなた自身ではなく、「小さい者たち」として表現される御国の民に対して、つまり、他者に対して、その一人を「軽んじたり」「見下げたり」しないように気をつけなさいと教えています。そして、その理由が二つ挙げられています。第一は、彼らには御使いたちが備えられているという理由から、第二は、彼らの存在が御父の喜びであるという理由からです。

【新改訳2017】マタイ福音書18章10~14節
10 あなたがたは、この小さい者たちの一人を軽んじたり(=見下げたり)しないように気をつけなさい。あなたがたに言いますが、天にいる、彼らの御使いたちは、天におられるわたしの父の御顔をいつも見ているからです。
11 ☆
12 あなたがたはどう思いますか。もしある人に羊が百匹いて、そのうちの一匹が迷い出たら、その人は九十九匹を山に残して、迷った一匹を捜しに出かけないでしょうか。
13 まことに、あなたがたに言います。もしその羊を見つけたなら、その人は、迷わなかった九十九匹の羊以上にこの一匹を喜びます。
14 このように、この小さい者たちの一人が滅びることは、天におられるあなたがたの父のみこころではありません。

(1) 小さい者たちには御使いが備えられている

●10節の「天にいる、彼らの御使いたちは、天におられるわたしの父の御顔をいつも見ているからです。」とはどういうことでしょうか。「見ている」とは、御使いが人に仕えるため、常に神の指示を仰ぐために備えているという意味です。詩篇91篇1節には「いと高き方の隠れ場に住む者 その人は全能者の陰に宿る」とあります。この詩篇91篇は「守りの詩篇」と言われています。1節は、「いと高き方である主をあなたが自分の住まいとした」ことを述べています。その者に対する主の約束が以下に記されています。

10 わざわい(רָעָה)はあなたに降りかからず、疫病(נֶגַע)もあなたの天幕に近づかない。
11 主があなたのために、御使いたちに命じて、あなたのすべての道であなたを守られるからだ。
12 彼らはその両手にあなたをのせ、あなたの足が石に打ち当たらないようにする。

●イェシュアの生涯はその最初から最後まで御使いたちに守られていました。特に公生涯に入ってからは、聖霊による油注ぎが与えられました。新約時代は聖霊が私たちの中におられるので、御使いたちの助けは必要なくなったと解釈している人たちがいます。果たしてそうでしょうか。御使いが忙しく天と地を行き交っているのは旧約時代だけのことでしょうか。もう御使いは必要ないのでしょうか。しかし、聖書によれば、御使いは主を信じる人のために今も「仕えて」くれている霊です。新約のへブル人への手紙1章14節に、「御使いはみな、奉仕する霊であって、救いを受け継ぐことになる人々に仕えるために遣わされているのではありませんか。」とあります。

●この御使いたちは、人が神を知るために、神との交わりを持つために働かいているのではありません。その働きはむしろ御霊の働きです。御霊は私たちの霊・魂の部分に働かれる方です。しかし御使いの務めは私たちの身を守るための働きです。御使いの存在を信じていなくても、ひとたび救いを与えられた者に対して守っていてくださるのです。あなたは車を運転していて死にそうな目に遭ったことはなかったでしょうか。そんなときは御使いたちが守っていると考えたことはありませんか。もし、そのような信仰があれば、過剰な心配や不安から守られると信じます。それでも交通事故に遭ってしまったとしたら、そこには神の特別な計らいがあるのかもしれません。本来的には、私たちがこの世において神の務めを果たすまで、神は御使いたちを通してすべての道であなたを守られるのです。それほどに「小さい者たち」の存在は神にとって大切なのです。ですから、その存在の一人を「軽んじたり」「見下げたり」しないようにしなければなりません。それは神に敵対することになるからです。

(2) 小さい者たちは御父の喜びの存在

●12~13節は「迷った一匹の羊を捜す人」のたとえ話が書かれています。この話はルカの福音書15章に記されています。ルカは「一人」をとても重視していますが、ルカに限らず、マタイにおいても、神は「小さい者たち」と呼ばれる御国の民に対しては特に大切にしておられるのです。そのことを示しているのが、「父のみこころ」ということばです。

●一匹の羊が迷い出たら、その一匹のためにどこまでも行き、見つけるまで捜します。なぜなら、その一匹を見つけることは「父のみこころ」だからです。「みこころ」と訳されたギリシア語の「セレーマ」θέλημα)は「神の意思」という意味ですが、ヘブル語にすると「ラーツォーン」(רָצוֹן)となります。「ラーツォーン」とは、神の一方的な好意であり、神の喜びを表すことばなのです。神がご自身のご計画をなぜ実現し完成なさるのかといえば、それが神の「喜び」だからです。個人的なことですが、私は「神の栄光」よりも「神の喜び」という方が、神と自分の関係を考えるときにピンときます。私がかつてヨハネの黙示録4章の最後の聖句をヘブル語で読んだとき、何とも言えない感動に包まれました。そこを読んでみたいと思います。

【新改訳2017】ヨハネの黙示録4章10~11節
10 二十四人の長老たちは、御座に着いておられる方の前にひれ伏して、世々限りなく生きておられる方を礼拝した。また、自分たちの冠を御座の前に投げ出して言った。
11 「主よ、私たちの神よ。あなたこそ栄光と誉れと力を受けるにふさわしい方。あなたが万物を創造されました。みこころのゆえに、それらは存在し、また創造されたのです。」

●御座の前で賛美する二十四人の長老たちが、自分たちに与えられた冠を御座の前に投げ出して言ったのです。「あなたが万物を創造されました」とあります。これが、再度「みこころのゆえに、それらは存在し、また創造されたのです」と言い直されています。「万物」(「ハッコール」הַכֹל)の中に、私やあなたがいるのです。そして、その私やあなたが、「みこころのゆえに」存在しているのです。この「みこころのゆえに」、「ビルツォーハー」(בִּרְצוֹךָ)ということばに私は強烈な感動を覚えたのです。「みこころのゆえに」と訳されていますが、直訳は「あなた(御父)の喜びの中に」とも訳せます。神の「喜び」は、私たちの喜びのように簡単に消え隠れしてしまう喜びではありません。それは、神のご計画のすべてを動かし、実現させていく永遠の源泉です。それが神の「ラーツォーン」(רָצוֹן)なのです。御国の民とされた私たちが、御子イェシュアの尊い血の贖いのゆえに、この神の喜びの中に生かされ続ける者とされたことを感謝したいと思います。

ベアハリート

●今回は大きく二つのことを取り上げました。一つは「私自身がつまずくことがないように」、もう一つは「小さい者たちの一人を軽んじたりしないように気をつけなさい」というメッセージです。前者の理由は「私がいのちに入る」ためであり、そのためには人間の知恵ではなく、霊の人として生きることが目指されなければなりません。後者の理由は「小さい者たちの一人が滅びることは、天におられるあなたがたの父のみこころではない」、むしろ、「神の喜びの存在としてキリストにあって創造された」ことを感謝し、他者に対してもそのように扱わなければならないということです。二つとも重い課題ですが、そこには、私たちが霊の人として生きることが目指されています。しかしやがて来る天の御国はそれがまさに現実となる世界なのです。 「主よ、来てください」(マラナ・タ)  

2020.6.28
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