****** 教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

巻き物を切り裂き、火で焼いたエホヤキム

文字サイズ:

40. 巻き物を切り裂き、火で焼いたエホヤキム

【聖書箇所】 36章1節~32節

ベレーシート

  • 主からのことばをエレミヤが口述したものを、弟子のバルク(バラクは別人)はそれを書き記しました。バルクは書記としての特別な賜物が与えられていました。そうした存在がいたことによって、感謝なことに、私たちは今もエレミヤ書を読むことができるのです。バルクの名前はすでに32章で登場していますが、出来事としては36章の方が先です。
  • 36章の主要点は、エホヤキム王が巻き物に記された主の御告げを聞きながら、王はその巻き物を小刀で切り裂いては、暖炉の火に投げ入れて焼き尽くした出来事です。主がユダの家に下そうと思っているすべてのわざわいを彼らが聞いて、それぞれ悪の道から立ち返るなら、彼らの咎と罪を赦すという主の約束も(36:3)、エホヤキムが巻き物を火で焼き尽くしたことでその道は消滅し、ユダとエルサレムに対する主のわざわいは決定的となったという、エホヤキムの治世第四年と第五年の裏話が36章です。

1. エレミヤの書記であり弟子であったバルクという人物 

  • バルクという人物についてここでまとめておきたいと思います。
    彼はネリヤの息子で、エレミヤの献身的な弟子であると同時に書記でした。バルクは終始エレミヤと行動を共にしていた忠実な随行者でした。エレミヤに語られた主のことばを筆記し、36章ではその筆記した巻き物を朗読もしています。非常にすぐれた能力の持ち主であったようです。
  • B.C.587年のエルサレム陥落後も、エレミヤと共にミツパに住んだと言われます。しかし陥落した二か月後にはバビロンの王が指名した総督ゲダルヤが暗殺され、彼に忠実であった者たちは暗殺者を捕えることができず、バビロンの王の怒りを恐れてエジプトに逃げる際に、エレミヤとバルクを連れて行ったようです(エレミヤ43:6参照)。

2. エホヤキムが断食を布告した意図 

【新改訳改訂第3版】エレミヤ36章9 節

ヨシヤの子、ユダの王エホヤキムの第五年、第九の月、エルサレムのすべての民と、ユダの町々からエルサレムに来ているすべての民に、【主】の前での断食が布告された。

  • なにゆえにエホヤキムは断食を布告したのでしょうか。実は、このことと巻き物を火で焼いたことは密接な関係があります。エホヤキムは最初からエジプトの傀儡王です。バビロンの王子ネブカデネザルは勢力を拡大して南下し、ユダの周辺国の支配権を握りました。エルサレムも攻略されましたが、ネブカデネザルの父がバビロンで死去したために、急遽、ネブカデネザルは帰国せざるを得なくなりました。その時に人質として捕らえて行ったのが、王族のダニエルたちです。
  • しかし再度、ネブカデネザルが王となってエルサレムに攻めてくるか分からないという状況の中で、エホヤキムは断食を布告しているのです。一見信仰的に見えますが、頼りにしているエジプトの支援も不確かな状況の中で断食を布告して、やがておとずれようとしているバビロンの危機に対処しようとしていたのです。そこに、主のことばを記した巻き物をもってバルク(当時、エレミヤは神殿の出入りを禁じられていたようです)が、書記シャファンの子ゲマルヤの部屋でエレミヤが語ったことばを読みました。それを聞いたゲマルヤの子ミカヤが王宮の書記の部屋に集まっていた首長たちにその内容を告げました。すると首長たちはこれは王に告げなければならないということになり、王が巻き物に記されていたことを聞いたのです。
  • エレミヤが語って来たことは、主がユダとエルサレムをバビロンの手に渡すということでした。断食まで布告して祈らなければならなかったエホヤキムの思いとエレミヤの言葉とは全く相容れないものでした。ですから王が巻き物を火で焼いたとしても決しておかしくはありません。
  • 巻き物は焼かれましたが、再度、巻き物を作るようエレミヤは主から告げられます。そしてエレミヤが口述したものを、しかもさらに内容を加えて、バルクは巻き物を完成させました(36:32)。

3. 主に隠されたエレミヤとバルク 

  • エホヤキムはエレミヤとバルクを捕えるように命令しましたが、「主はふたりを隠された」とあります(36:26)。かつて預言者エリヤもアハブに主のことばを告げた後に、「ヨルダン川の東にあるケリテ川のほとりに身を隠せ」(Ⅰ列王記17:3)と呼びかけたことがあります。
  • 神が私たちに「身を隠す」ようにと言われるとき、文字通りの意味も含まれますが、霊的には、主の御手の陰に隠れ、とぎすまされた矢として整えるという意味合いがあります。主のもとに、主のうちに隠れるとは、常に、主に「とどまる」ことを意味します。これは主イエスが弟子たちに語った重要な教えなのです。
    「わたしにとどまりなさい。・・人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」(ヨハネ15:4~5)

隠遁への招きは、私たちが主のとぎすまされた矢となるために必要なのです。

2013.3.29


a:3082 t:2 y:2

powered by Quick Homepage Maker 5.2
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional