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幸いなのは、心のきよい人々

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12. 幸いなのは、心のきよい人々

ベレーシート

  • 「幸いな人」の第六は「心のきよい人々」(5:8)です。原文を見てみましょう。

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  • この原文をヘブル語版を見てみましょう。

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1. 「心のきよい者」とは

  • 第五の「あわれみ深い者たち」以降にある者たち、つまり、「心のきよい者たち」「平和をつくる者たち」「義のために迫害をされる者たち」は、人に対する特質を表わしています。
  • ここでの「心のきよさ」とは、この世の価値観や偏見や妬みによって人を見ることなく、純粋にきよい思い、すなわち神の視点から人を見ることを意味します。また言葉にも偽りがなく、道徳的にも潔白であることを意味します。
  • 「きよい者」のことをヘブル語では「バル」(בַּר)という語彙が使われます。「バル」は「息子、子」、および「穀物、麦」をも意味し、同じく名詞の「ボール」(בֹּר)は道徳的な意味での「潔白、きよさ」を意味します。形容詞としての「バル」(בַּר)は「混じりけのない、きよい」状態を意味します。

【新改訳改訂第3版】詩篇24篇3~5節
3 だれが、【主】の山に登りえようか。だれが、その聖なる所に立ちえようか。
4 手がきよく、心がきよらかな者、そのたましいをむなしいことに向けず、欺き誓わなかった人。
5 その人は【主】から祝福を受け、その救いの神から義を受ける。


●4節にある「心がきよらかな者」(単数形)が「バル・レーヴァーヴ」(בַּר־לֵבָב)です。そのような心を持っている者はやがて神を見る(仰ぎ見る)ようになるということですが、これは御子イェシュアのことを預言的に示唆しています。

●「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう。」とエレミヤが語っているように、私たちの心は絶望的ですが、神はイェシュアの血潮を通して、この汚れた私たちの心をきよめることのできる方です。


2. 「神を見る」とは

  • ここマタイ5章8節の「見る」はギリシア語の「ホラオー」(ὁράω)が使われており、新約聖書で初めて使われています。新約聖書において、「神を見る」というフレーズはマタイ5章8節にしかありません。これは終末論的希望であり、御子イェシュアを除いて「いまだかつて神を見た者はいない」のです(ヨハネ1:18、6:46、Ⅰヨハネ4:12)。神から出たイェシュアが神を説き明かされたので、「わたしを見た者は父を見たのです」と語っています。
  • ギリシア語の「見る」を現わす二つの語彙の違いについて。一般的に、~の方に向く、~の方を眺める、たまたま視覚的にものを見るという意味では「ブレポー」(βλέπω)を使い、目に見えるその背景にあるものを理解する、知る、分かるなどの意味合いが入るときには「ホラオー」(ὁράω)を使うようです。つまり、神をより一層深く知り、より一層親しく交わることができ、主の麗しさを仰ぎ見るようになることを、ここでは「神を見る」と表現しているのです。
  • 「神を見る」の「見る」のヘブル語は二つの語彙で訳されます。一つは「ラーアー」(רָאָה)の未完了形、もう一つは「ハーザー」(חָזָה)の未完了形です。この語彙の違いは何かと言えば、前者が直接的であるのに対し、後者は間接的です。間接的というのは、主ご自身に附随するものを見るということで、それが主ご自身の「麗しさ」や「力」や「栄光」であったり、あるいは、主のなされる「みわざ」や「復讐」であったりします。つまり、それらも含めて、やがてキリストの再臨によって完成される御国においては、「神を見る」ということが実現するのです。今の世においても、霊的な意味において神を見て歩んではいますが、不完全であることは言うまでもありません。しかしやがては完全な「神の御顔を仰ぎ見る」ようになるのです(ヨハネの黙示録22:4、Ⅰコリント13:12)。


2017.3.10


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