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幸いを神から受けるのだから、わざわいをも

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3. 幸いを神から受けるのだから、わざわいをも

【聖書箇所】2章1~13節

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ベレーシート

  • ヨブ記の「プロローグ」(1~2章)と「エピローグ」(42章7~17節)の枠組みだけを読むならば、日本昔話のように、その内容はだれもが理解しやすいストーリーです。しかしこの「ヨブ記」の著者の一番言いたいことはその間の部分(3章~42章6節)にあります。しかし、この部分を読み、瞑想することは、かなりの忍耐が求められそうです。そのことを構えながら、2章を味わいたいと思います。

1. 「自分の誠実を堅く保つ」と神に評価されたヨブ

  • 1章と似たような設定ではじまる2章。自分の子どもたちとすべての財産を失うというヨブの最初の試練の中で、神は「彼はなお、自分の誠実を堅く保っている」と評価しています。他の訳も見ておきましょう。

    【新改訳改訂第3版】2章3節にあるフレーズ
    彼はなお、自分の誠実を堅く保っている。
    【新共同訳】
    彼はどこまでも無垢だ。
    【口語訳】
    彼はなお堅く保って、おのれを全うした。
    【中澤訳】
    彼の全き心はゆるがないぞ。


    ●訳はいくぶんかニュアンスは異なりますが、試練の中にあっても、ヨブは神に対する自分の誠実(潔白さ)を堅く保持したというのが原意です。1章8節と2章8節の「潔白で」という訳語は形容詞の「ターム」(תָּם)ですが、2章3節と9節で「誠実」と訳された原語は「ターム」の名詞形「トゥッマー」(תֻּמָּה)です。「潔白」「無垢」とも訳されます。旧約では5回しか使われていない語彙ですが、5回のうち4回がヨブ記で使われています(2:3, 9/27:5, 31:6)。
    ●ちなみに、形容詞の「ターム」(תָּם)も14回のうち、7回がヨブ記で使われています(1:1, 8/2:3/8:20/9:20, 21, 22)。意味としては「潔白」の他に、「トゥッマー」(תֻּמָּה)は英語で「インテグリティ」(Integrity)と訳されています。まさに完璧な人格者とも言うべき人です。このような人物は地上にはいないというのが、神が認めるヨブの評価でした。


2. 神の評価に対するサタンの嫌疑

  • 主のヨブに対する評価に対してサタンは嫌疑をかけます。そのことばが、「皮の代わりには皮を持ってします」という表現です。これは新改訳の訳ですが、この表現はいったいどういう意味なのでしょうか。この箇所の解釈は難解とされています。というのは、「皮」(「オール」עוֹר)と「皮」の言葉の間にある前置詞である「バアド」()をどう訳すかで意味合いが変わって来るからです。「バアド」(בַּעַד)は「~を通して]「~のうしろ」「~のために」「~のまわりに」という意味ですが、「オール ベアド・オール」(עוֹר בְּעַד־עוֹר)は以下のように訳され、解釈されています。

    関根正雄氏は「皮の奥に皮があり」と訳しています。人の心は幾重にも皮で覆われていて、そう簡単には分からないもの。つまり、「裏には裏がある」という意味だと解釈しています。1章20節にあるように「裸でわたしは母の胎を出た、裸でかしこに帰ろう。主の御名はほむべきかな」などと敬虔ぶったことを言っているが、裸の奥に彼の本心があり、彼は自分の子どもたちすら自分の生命のためにはそれほど惜しいと思ってないのだ。神の攻撃が今度はもっと直接自分に向けられ、病気や死がやって来てはたまらないので、敬虔ぶったことを言って、神がこれ以上向かってこられるのをうまく回避しようとしているだけだ。それほど人間は髄の髄までエゴイストであり、信仰深いなどというのは偽善なのだ、と解釈しています

    中澤洽樹氏の「ヨブ記」(新訳と略註)によれば、その同じ箇所を「背に腹はかえられぬ」と訳しています。「背に腹はかえられぬ」とは、大切なことのためには多少の損害はやむを得ないという意味です。ここでのサタンの言い分は、「人は自分のいのちが危険にさらされれば、持っているものを何でも捨てるエゴイストに過ぎない」と解釈しています。

    北森嘉蔵氏は口語訳の「皮には皮をもって」という部分について、財産が失われ、子どもたちが失われたことは、まだ皮の程度の苦難で、それに対するヨブの反応も皮程度のものであって、肉や骨にまでは入り込んでいないと解釈しています。皮程度の苦難であるゆえに、ヨブは自分の誠実を保っていられただけのことであり、それが彼の肉や骨に及ぶならば、話は別で、必ず、神を呪うに違いないと洞察しているのです。

  • いずれの解釈にしても、サタンの洞察には実に鋭いものがあります。神とサタンとの賭けは、より深刻さを増し、ヨブは悪性の腫物で全身が侵されます。「腫物」というヘブル語は「シュヒーン」(שְׁחִין)ですが、実は、ユダの王ヒゼキヤもこの病にかかっています。しかし預言者イザヤの「干しいちじくを患部の腫物に当てる」という療法によって彼は癒やされています。しかしヨブの場合、腫物によるかゆみが止まることはありませんでした。しかも悪性の腫物によって、ヨブのからだはヨブだと見分けがつかないほどに変わり果ててしまったのです。
  • ところで、「のろう」と訳された言葉は、原語で「祝福する」という「バーラフ」(בָרַךְ)が使われています。ヨブ記で「祝福する」の意味で使っているのは、1:10, 21/31:20/42:12ですが、「のろう」という意味で使われているのは、1:5, 11/2:5, 9のみです。ヨブの妻が言ったことばー「それでもなお、あなたは自分の誠実を堅く保つのですか。神を祝福して死になさい。」と訳すなら、まことに嫌味な言い方です。悪い言葉を使わずに、悪い意味をこめて言う表現を婉曲語法といいますが、それがヨブ記ではなんと4回も使われています。

3. 神の絶対主権を認めるヨブの信仰

  • 悪性の腫物による苦難の深刻さは、ヨブの妻をして「神をのろって死になさい」とまで言わせたほどだったのです。このことばで夫婦の袂は分かたれます。かつては素晴らしい家庭を築いていたわけですから、ヨブの妻もそれ相応の立派な妻であったと考えられます。その妻が直面する現実に耐え切れずに、ヨブを見捨ててどこかへ去ったと想像できます。
  • ところが、サタンの思惑とは逆にヨブの信仰は極まります。「幸いを神から受けるのだから、わざわいをも受けなければならないではないか」と言うヨブの信仰はまことに見上げたものです。御利益的な信仰が木端微塵に吹っ飛んでしまうような純粋な信仰です。無垢な信仰です。信仰の頂点です。ここから一気にエピローグ(42章)に飛べば、「めでたし、めでたし」と終わるのですが、そう簡単には問屋がおろさないようです。
  • すばらしいヨブの信仰告白ですが、北森嘉蔵氏はここで「すべてのこの事においてヨブはそのくちびるをもって罪を犯さなかった」(新改訳では、「罪を犯すようなことを口にしなかった」と訳していますが)という所の「くちびるをもって」という所に着目し、確かに「くちびるをもって」罪を犯さなかったが、「心の中では」ということが言外に含まれていると解釈し、この点で、聖書は非常に的確な表現をしているとしています。というのは、3章からヨブの内心の思いが口から出て来るからです。

4. ヨブを慰めるために申し合わせてやって来た三人の友

  • ヨブの身に起こった災難を聞いて訪れた三人の友人は、ヨブの変わり果てた姿を見て悲しみ、七日七夜、一言もヨブに話しかけませんでした。話しかけることができなかったというのが真実だったと思います。
  • この三人の友人の登場が、ヨブの口を開かせて自分の生まれた日をのろわせる契機となり、三人の友人の苦難に対する考え方を明らかにする動因となっています。ヨブ記の著者が言わんとすることは、まさにその彼らの苦難に対する考え方とヨブの苦難とを対峙させていることです。そのことが3章から31章までの内容なのです。

●研究項目「ヨブ記における『ネフェシュ』(נֶפֶשׁ)についての理解」

「ヨブ記」には36回の「ネフェシュ」についての記述があります。
2:4, 6/3:20/6:7, 11/7:11,15/9:21/10:1,1/11:20/12:10/13:14/14:22/
16:4/18:4/19:2/21:25/23:13/24:12/27:2, 8/30:16, 25/31:30, 39/32:2/33:18, 20, 22, 28, 30/36:14/41:13


2014.5.7


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