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幼子イェシュアを主にささげた両親

3. 幼子イェシュアを主にささげた両親

【聖書箇所】 ルカの福音書 2章21節~24節

【新改訳改訂第3版】ルカ
2:21 八日が満ちて幼子に割礼を施す日となり、幼子はイエスという名で呼ばれることになった。胎内に宿る前に御使いがつけた名である。
2:22 さて、モーセの律法による彼らのきよめの期間が満ちたとき、両親は幼子を主にささげるために、エルサレムへ連れて行った。
2:23 ──それは、主の律法に「母の胎を開く男子の初子は、すべて、主に聖別された者、と呼ばれなければならない」と書いてあるとおりであった──
2:24 また、主の律法に「山ばと一つがい、または、家ばとのひな二羽」と定められたところに従って犠牲をささげるためであった。



ベレーシート

  • この箇所は4節しかありませんが、「幼子の命名と割礼」、および、「胎のきよめと長子の贖い」についてとても重要な事柄が記されています。イェシュアの両親は律法に忠実でした。イェシュアの命名、割礼、長子の贖い、そして祭りの慣習に従って毎年エルサレムへ巡礼したこと(ルカ2:41~42)がそのことを物語っています。

1. 命名と割礼(ルカ2章21節)

  • 幼子は「イェシュア」という名で呼ばれました。これは御使いがそのように命名することを彼らに命じたからです。命名は誕生から八日目、割礼の時に行われました。その慣習はアブラハムが改名したことと契約のしるしである割礼に由来するようです。改名を行なうとは、単に名前を変えるということ以上に、自分自身の「生き方の変革」を意味しました。アブラハムの場合は「神の御前に全き者として歩む」という自覚的、主体的な生き方が求められ、そして自らもその生き方をしようとしたのです。アブラハムと妻のサラ」の改名の秘密については、
    こちらを参照のこと
  • 今日、契約に必要なものは印鑑(ハンコ)です。しかしアブラハムの場合は紙ではなく、自分の身体の中心に消えることのない刻印を施します。自分が神の民となったことの刻印を、アブラハムは自分の局所を見、かつそれに触れるたびに実感したに違いありません。次いで、アブラハムは息子のイサクを初めとして、一族郎党に割礼を施したのです。アブラハムにとって割礼は初めての経験であり、大人になってからの包皮切除は相当の痛みを伴ったに違いありません。神の民とされた者はすべてこの痛みをもって始まったのです。
  • 「割礼」は、アブラハムがそうしたように、本来父親が息子に施したようです。しかし時代を経るうちに専門の割礼師が執刀するようになったようです。生まれたばかりの乳児を危険に遭わせることのないために、その方が安全と言えます。
  • 「八日が満ちて」というのは、生まれた赤子にまず一回安息日を過ごさせることになります。「八日目」は誕生の日から起算され、たとえその日が安息日、あるいは祝祭日と重なった場合、割礼式の方が優先されると言われます。それほどにこの神の刻印(シール)は神の民のアイデンティティにとって必要不可欠なものであったことをうかがわせます。
  • 男児の場合、ユダヤ人にとって最大の喜びなのです。神の祝福がその家に臨んだことの確かなあかしだからです。洗礼者ヨハネの場合、誕生から「八日目」の割礼と命名には近所の人々や親類が集まったようです。

【新改訳改訂第3版】 ルカ1章57節~59節
57 さて月が満ちて、エリサベツは男の子を産んだ。
58 近所の人々や親族は、主がエリサベツに大きなあわれみをおかけになったと聞いて、彼女とともに喜んだ。
59 さて八日目に、人々は幼子に割礼するためにやって来て、幼子を父の名にちなんでザカリヤと名づけようとした・・・

  • このように、後継ぎとなる長子の誕生の場合は、近隣の親類が集まるほどの祝い事であったのです。ところが、イェシュアの場合はベツレヘムで生まれたために、集まる親類はいなかったようです。しかしイェシュアの両親は律法の規定通り、幼子に割礼を施しました。そして御使いから言われたように、「イェシュア」と命名したのです。イェシュアが割礼を受けたということは、イェシュアが正真正銘のユダヤ人であったことを示しています。

2. 幼子イェシュアを主にささげた両親(ルカ2:22~24)

  • ルカの2章22節によれば、「モーセの律法による彼らのきよめの期間が満ちたとき、両親は幼子を主にささげるために、エルサレムへ連れて行った。」とあります。これは献児式です。
  • 出産に関する神のトーラーの規定が、レビ記12章に記されています。それによれば、男子の出産の場合は、産婦は七日間汚れます。さらに出血のきよめのために33日を要します。合わせて40日です。その間は外出ができません。ちなみに、女子の出産の場合にはその二倍で、二週(14日)と66日、合わせて80日をきよめのために要します。したがって、ルカ2章22節の「きよめの期間が満ちたとき」とあるのは、33日間を意味します。その後、両親はイェシュアを「主にささげる」ために、エルサレムの神殿へ連れて行きました。ベツレヘムからエルサレムまでは約9km程の距離です。当時の人々にとってはさほど大変な距離ではなかったと思われます。
  • 両親のエルサレム詣でには二つの目的がありました。ひとつは母マリヤが産後のきよめのための犠牲を献げること、もうひとつは、イェシュアは長子であるために、買い戻すための身代金を祭司に支払うという目的でした。聖書においては、長子は主のために聖別されるという律法がありました。

新改訳改訂第3版 出エジプト記13章1~2節
1 【主】はモーセに告げて仰せられた。
2 「イスラエル人の間で、最初に生まれる初子はすべて、人であれ家畜であれ、わたしのために聖別せよ。それはわたしのものである。」

  • ルカ2章23節にも「-それは、主の律法に『母の胎を開く男子の初子は、すべて、主に聖別された者、と呼ばれなければならない。』と書いてあるとおりであった。-」とあります。
  • イスラエルの民が救い出されるにあたって、エジプト中のすべての初子(人も家畜も)のいのちが犠牲となりました。それゆえ主は、「すべて最初に生まれる初子は、みな主のものとして聖別すること」を求めました。ただし、家畜の場合の初子は「雄」、人の場合の初子は「男子」と規定されています。ですから、初産で生まれた子が女児であったり、雌であったりした場合には適用外ということになります。
  • 「すべて最初に生まれる初子は、みな主のものとして聖別する」ために、イスラエルでは具体的に「長子の贖い」が定められました。民数記18章15~16節にはこう記されています。

【新改訳改訂第3版】民数記18章15~16節
15 人でも、獣でも、すべての肉なるものの最初に生まれるもので【主】にささげられるものはみな、あなたのものとなる。ただし、人の初子は、必ず贖わなければならない。また、汚れた獣の初子も贖わなければならない。
16 その贖いの代金として、生後一か月以上は聖所のシェケルの評価によって銀五シェケルで贖わなければならない。一シェケルは二十ゲラである。

  • 民数記で規定されているのは「銀5シェケル」ですが、新約時代には献げ物の内容が変わっていたようで、支払う額は20日分の日当にあたるとも言われていますが、聖書にはその具体的な内容は記していません。いずれにしても、父親はなんらかの「贖いの代価」を祭司に支払って息子を買い戻したのです。
  • また、ルカ2章24節には次のように記されています。
    「主の律法に『山ばと一つがい、または、家ばとのひな二羽』と定められたところに従って犠牲をささげるためであった。」と。ここにある「主の律法に定められたところに従って」とあるのは、レビ記12章によれば、羊を買う余裕のない者たちに対する場合の規定が記されており、それによれば、二羽の山鳩か、二羽の家鳩のひなを取り、一羽は全焼のいけにえとし、もう一羽は罪のためのいけにえとして、祭司は母親のきよめのためにそれによって贖いをしました。ルカは母マリヤの分の内容だけを記しています。そのことによって、ヨセフとマリヤがとても貧しかったことをルカは語っているのです。
  • ところで、なぜ祭司ザカリヤの長子であるヨハネの場合には贖いの記述がないのでしょうか。それは父親が祭司であるために、贖う必要がなかったからです。民数記3章11~13節に次のように記されています。

主はモーセに告げて仰せられた。「わたしはイスラエル人のうちで最初に生まれたすべての初子の代わりに、今これからイスラエル人の中からレビ人を取ることにした。レビ人はわたしのものである。初子はすべてわたしのものだからである・・・」

  • つまり、レビ人はイスラエル人の初子の身代わり的存在なのです。イスラエル人の初子はすべて神のものですが、実際にはその初子を神にささげるかわりとして、初子一人につき一人のレビ人によって贖われた(身代わりとされた)のです。従って、祭司(レビ)の家系はこの慣習から免除されていました。

まとめ

  • イェシュア自身が述べているように、「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。」(マタイ5:17)とあります。このことばの中にある「成就する」ということばの原語は、ギリシャ語の「プレーロー」πληρόωで、「満たす」「充満する」「いっぱいにする」という意味です。つまり、律法(トーラー)が意味する内容と預言者が求める倫理的要求を「いっぱいにする」ために来られたということです。
  • この目的のために、イェシュアがまだ幼子であったときにも、両親がイェシュアに代わってそのことをなしてくれたことは大きな意味があります。イェシュアがやがて成長して主体的にその使命を果たされる時まで、ヨセフとマリヤをイェシュアの親として主が選ばれた意味がここにあります。両親が律法の一点においても忠実であってくれなかったとするならば、イェシュアは本来の使命を果たすことはできなかったのです。マタイはヨシュアについて、「正しい人であって」(マタイ1:19)と記していますが、その「正しさ」は律法に対しての「正しさ」なのです。

2012.12.13


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