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弟子たちに語られた山上の説教の背景

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5. 弟子たちに語られた山上の説教の背景

ベレーシート

  • 5章~7章は「山上の説教」というまとまった説教です。「トーラー」にはモーセ五書と言われる「創世記」「出エジプト記」「レビ記」「民数記」「申命記」があるように、マタイの福音書にもまとまった五つの説教がサンドイッチのように置かれているのです。「山上の説教」がその最初の説教です。今回は、その説教が語られた状況を取り上げます。聖書箇所は5章1~2節です。

【新改訳改訂第3版】マタイの福音書5章1~2節
1 この群衆を見て、イエスは山に登り、おすわりになると、弟子たちがみもとに来た。脚注1
2 そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて、言われた。


●「見て」と訳されたギリシア語は動詞の「ホラオー」(ὁράω)のアオリスト分詞(「エイドン」είδον)で、「見たとき」という意味(脚注2)。「登り」と訳されたギリシア語は「アナバイノー」(ἀναβαίνω)のアオリスト。つまり「登った」の意味で、一旦、そこで区切られます。

●「おすわりになる」も同様に、「カスィゾー」(καθίζω)の分詞で「座ったとき」という意味になり、そこにイェシュアの弟子たちが「近寄って来た」(「プロセルコマイ」προσέρχομαιのアオリスト)と続いています。1節は二つの行為が区切られているというイメージです。つまり、「見て、イェシュアは山に登った」ということと、「イェシュアが座っていると、弟子たちが近寄って来た」という二つのことを少々区別して理解することは有益です。なぜなら、「山に登ること」と、「座ること」は別の事柄だからです。


1. 山に登り、おすわりになったイェシュア

  • イェシュアは「この群衆を見て」とあります。この「群衆」とは、その前(4:25)に記されている「ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤおよびヨルダンの向こう岸」から集まってきた大ぜいの群衆のことです。イェシュアは彼らのニーズに答えた後に、山に登っています。なぜ、イェシュアは「山」に登られたのでしょうか。ここでは「山」がどこの山なのか一切説明されていませんが、おそらく、「山」はイェシュアが一人になって祈ることのできる格好の場所だったと言えます。一人になって祈れる場所は「山」だけでなく、「寂しい所」もその一つでした(マルコ1:35)。また「朝早くまだ暗いうちに起きる」ということも、一人になれる最高の時でした。このように、イェシュアはしばしば山や寂しいところに退き、一人になって過ごすことを常としていました。それは働きによる疲れをいやすだけでなく、御父とともに過ごすためでした。
  • イェシュアのすべての行為(行動)には意味があります。へブル的視点から見るとそのことが良く理解できます。ここでのへブル的視点とは、ギリシア語をヘブル語に戻して解釈してみるということです。

(1) 「山」

●聖書における「山」は、神の啓示の場であることがしばしばです。アブラハムはモリヤの山で愛するひとり子のイサクをささげるように命じられます。そこでアブラハムは神のヴィジョンを見せられます(創世記22:2,14)。モーセは神の山ホレブで主と出会い、神の民をエジプトから救い出すことを命じられます。また、エジプトを出た神の民のために神の律法を受け取る場所も同じくシナイ山でした。預言者エリヤは同じ場所で彼の後継者について語られています。イェシュアはヘルモン山で変貌し、本来の神の姿を現わします(マタイ17:2)。また、弟子たちに対するイェシュアの大宣教命令はガリラヤの山でなされました(マタイ28:16~20)。また、聖書において「山」はしばしばエルサレムを意味します(マタイ5:14)。

●詩篇24篇3節で、ダビデは「だれが、【主】の山に登りえようか。だれが、その聖なる所に立ちえようか。」とあります。そのダビデの問いかけの答えは、イェシュアを指し示しています。

(2) 山に「登る」という行為

●イェシュアが山に登るという行為は預言的です。へブル語で「登る、上る」という動詞は「アーラー」(עָלָה)ですが、この動詞は単に「登る」という意味の他に、「(いけにえを)ささげる」とか、「反芻する」という意味があります。「反芻する」動物はきよい動物であり、全焼のいけにえや罪のいけにえとして祭壇にささげられる牛や羊です。つまり、イェシュアが「山に登る」という行為には、やがて聖なる山エルサレムにおいて、神にささげられる神の小羊イェシュアを預言的に象徴していると言えます。

(3) 「座る」という行為

●群衆をご覧になったとき、イェシュアは「山」に登られました。そしてイェシュアが「おすわりになると」、弟子たちがみもとに来たと記されています。正確には「おすわりになったとき」(分詞アオリスト)、弟子たちが近づいて来たのです。「おすわりになる」とは、「着座された」という意味です。それをヘブル語にすると「ヤーシャヴ」(יָשַׁב)になります。「ヤーシャヴ」という動詞は、単に腰を下ろして「座る」という意味だけでなく、主の家に「とどまる、住む」という親しい交わりの概念があります(詩篇23:6)。

●詩篇15篇1節で、ダビデは「主よ。だれがあなたの幕屋に宿るのでしょうか。だれが、あなたの聖なる山に住むのでしょうか。」と問いかけていますが、これは王なるメシアであるイェシュアによって実現します。腰をおろして座るという意味のギリシア語「カスィゾー」(καθίζω)という語彙からは見えてこない真理が、ヘブル語に戻すことで見えてきます。ちなみに、マタイの福音書はもともとへブル語で書かれたと主張するフランスの学者(クロード・トレスモンタン著「ヘブライ人キリスト」参照)もいます(ヘブル語の原本は今のところ発見されていませんが、ヘブル語でなければ意味をなさない表現が多々あることを、彼は指摘しています)。

●イェシュアが山に登って、おすわりになっているところに、弟子たちがみもとにやって来たという一連の動きと、その弟子たちに対して御国の憲章をイェシュアが口を開いて語り出したというつながりの中に、神のご計画における預言的な意味が隠されています。つまり、イェシュアが再臨され、王なるメシアとして、聖なる山エルサレムを中心とした御国(統治、王国=千年王国)を治められます。その御国における憲章が、3節以降で、山上の説教として語られるのです。その憲章は、エレミヤが預言した新しい契約に基づくものであり、神の霊によって主の律法が心に書き記された者でなくては、とても守ることのできない憲章です。それはやがてイェシュアの再臨によってはじめて実現されるメシア王国の憲章です。「天の御国は近づいた」とあるように、それはすでにイェシュアの来臨によってはじまっているのです。


2. 「弟子」という語彙の概念

  • イェシュアが山に登り、おすわりになったあと、そこに弟子たちがみもとにやって来たとあります。「弟子」(「マセーテース」(μαθητής)という語彙は、本来「学ぶ者」という意味で、「教師」(先生、師)に対応する語彙です。ただし70人訳聖書では使われていません。ということは、「弟子」という語彙は新約聖書で使われる新しい概念を持った語彙だということです。へブル語では語源となる「ラーマド」(לָמַד)がそれに相当します。ヘブル語の「ラーマド」には、「学ぶ」という意味と「教える」という意味の両方が含まれています。
愛と働きの関係を表す語彙.PNG
  • 弟子」(「マセーテース」μαθητής)という言葉は、マタイの福音書5章1節ではじめて登場します。そして、最後の章である28章19節では「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。」とあります。「弟子」という語彙は新約聖書で261回使われていますが、四つの福音書と使徒の働きにしか使われていません。パウロ書簡では「しもべ」(「ドゥーロス」δοῦλος)、「仕える者」(「ディアコノス」διάκονος)という語彙を好んで使っています。つまり、主人としもべという関係です。またマルコとルカは、弟子たちの中から選ばれた12弟子に対して「使徒」(「アポストロス」ἀπόστολος)という語彙を使っています(マルコ6:30、ルカ6:13)。
  • いずれにしても、「弟子となること」と「弟子を訓練すること」は、いつの時代においても重要なテーマです。イェシュアが公生涯の始めから、弟子たちと寝食を共にすることで、師としての「模範・手本」を彼らに示し、彼らを訓練しようとしておられたことは明白です。なぜなら、弟子たちはやがて御国の福音の告知とその内実を教え、あかしする者たちだからです。

3. 「口を開いて、語る」ということ

  • 2節に、「そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて、言われた。」とあります。一見、当たり前のように思える表現ですが、イェシュアが口を開く前の状態は、主のみおしえである「トーラー」が常に瞑想されており、反芻され続けています。そこに口を開くことで、主のみおしえがあふれ流れるように出て来たことをイメージさせます。
  • イェシュアは「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」と言われました(マタイ4:4)。これをヨハネ版にしますと、「なくなる食物(朽ちる食物)のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。それこそ、人の子があなたがたに与えものです。この人の子を父すなわち神が認証されたからです。」(ヨハネ6:27)となります。このことを悟った者がはじめて、主の祈りの中にある「日ごとの糧をきょうもお与えください。」(マタイ6:11、ルカ11:3)と祈ることができるのです。ちなみに、この主の祈りは「御国が来る」ことを祈る祈りです。その御国が実現(完成)するとき、その来るべき日には必要欠くべからざる神のことばによって生かしてくださいという祈りなのです。神が与えようとするパンは御国においてそこに生きる者たちに必要な神のことばなのです。今やそのことばがイェシュアの口を通して発せられようとしているのです。それがマタイ5章2節の「口を開いて、語る」という意味です。
  • 3節から始まる「幸いなことよ」を意味するギリシア語の「マカリオイ」(Μακάριοι)は、詩篇の「アシュレー」(אַשְׁרֵי)に相当します。詩篇1篇の冒頭は「アシュレー・ハーイーシュ」(אַשְׁרֵי הָאִישׁ)です。その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさんでいます。この「口ずさむ」と訳された「ハーガー」(הָגָה)は瞑想用語の一つであり、常にその人のうちで主のおしえが反芻されているのです。この「ハーガー」(הָגָה)が詩篇2篇にも登場します。それは神に逆らう者たちに対して使われており、彼らの口から出て来るのはは「つぶやき」なのです。それは往々にして彼らの心の中にある思いが言葉となって出てきたものです。私たちの口から出てくることばも、心の中にあるものが出て来るということを考えるならば理解できます。
  • 詩篇1篇の「幸いなのは、その人」(「アシュレー・ハーイーシュ」אַשְׁרֵי הָאִישׁ)は、神の御子イェシュアのことを預言的に語っています(ヨハネ5:39)。この方こそ天の御国の福音を私たちに教えてくれる方です。イェシュアは30歳にして公生涯を始められますが、それまでの長い期間、心の中に反芻していた御国の秘密を伝えるために、今や初めて口を開かれたのだと考えるならば、何とエキサイティングなことでしょうか。イェシュアの心の中で、長い間、反芻されてきたものが、口からあふれ出て来るのです。それはつぶやきではなく、いのちをもたらす神のみおしえであり、まさに御国の奥義です。私たちはその教えに対して、耳を開いて理解する必要があるのです。なぜなら、以下のように語られているからです。

【新改訳改訂第3版】詩篇78篇1~4節
1 私の民よ。私の教えを耳に入れ、私の口のことばに耳を傾けよ。
2 私は、口を開いて、たとえ話を語り、昔からのなぞを物語ろう。
3 それは、私たちが聞いて、知っていること、私たちの先祖が語ってくれたこと。
4 それを私たちは彼らの子孫に隠さず、後の時代に語り告げよう。【主】への賛美と御力と、主の行われた奇しいわざとを。


4. 山上の説教はだれに語られたのか

  • 山上の説教はだれに語られたのでしょうか。5章1節を見るとイェシュアに近寄った弟子たちであることが分かります。一見、民衆の中にいる特別な弟子たちに向かってイェシュアが教えられたイメージです。しかしこの説教の最後を見ると、以下のように記されています。

【新改訳改訂第3版】マタイの福音書7章28~29節
28 イエスがこれらのことばを語り終えられると、群衆はその教えに驚いた。
29 というのは、イエスが、律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられたからである。


●ここでの「群衆」(「オクロス」ὄχλος)とは、さまざまな地域(ガリラヤ、シリヤ、デカポリス、エルサレム、ヨルダン川の向こう岸からやってきた大勢の人々のことです。イェシュアによっていやされた多くの人々が含まれているのは当然です。メシア王国では朽ちないからだが与えられるため、病人はいません。イェシュアによっていやされた大勢の人々は、メシア王国に入る者たちの型と言えます。彼らが御国の憲章を、直接、イェシュアから聞かされるのです。そしてその教えに群衆は驚いたのです。というのは、その教えが律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられたからです。



脚注1
●並行記事であるルカの福音書では「平地の説教」と言われます。イェシュアは祈るために山に行き、神に祈りながら夜を明かされました。その目的は弟子たちの中から12人の弟子(=使徒)を選ぶためです。それから、イェシュアは、彼らとともに山を下り、平らな所にお立ちになり、大ぜいの民衆に対して、「貧しい者は幸いです。」と語り始めています(ルカ6:12~20節を参照)。マタイの「山上の説教」と比べると、その内容はかなりコンパクトなものになっています。

脚注2
●ギリシア語の「見る」を現わす二つの語彙の違いについて。
一般的に、~の方に向く、~の方を眺める、たまたま目でものを見る、一見するという意味では「ブレポー」(βλέπω)を使い、目に見えるその背景にあるものを理解する、知る、分かるなどの意味合いが入るときには、「ホラオー」(ὁράω)を使うようです。
●ヘブル語にも「見る」を意味する語彙は数多くあります(1桁から3桁の数まで)、しかし4桁1315回と圧倒的に使われている語彙は「ラーアー」(רָאָה)です。マタイ5章1節の「群衆を見て」の「見て」はこの「ラーアー」が使われています。

2017.1.7


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