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御国の民を漁る漁師として招かれた弟子たち

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2. 御国の民を漁る漁師として招かれた弟子たち

【聖書箇所】マタイの福音書4章18~22節

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  • イェシュアの公生涯は、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」というメッセージで始められました(マタイ4:17)。マルコは「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」(1:15)と記しています。これからのイェシュアの公生涯における働きーたとえ話による教え、奇蹟的なわざ、そして一つひとつの行為のすべてが、天の御国についてのデモンストレーションです。イェシュアはその最初の働きとしてなしたことは、数人の者をご自分に従うように招くことでした。しかもその数人はみな漁師でした。なぜ漁師であったのでしょう。なにゆえに漁師でなければならなかったのでしょう。そこには神のご計画と抵触する必然性が隠されているはずです。まずは、今回のテキストとなる聖書箇所を読んでみたいと思います。

【新改訳改訂第3版】マタイの福音書4章18~22節
18 イエスがガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、ふたりの兄弟、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレをご覧になった。彼らは湖で網を打っていた。漁師だったからである。
19 イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。」
20 彼らはすぐに網を捨てて従った。
21 そこからなお行かれると、イエスは、別のふたりの兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父ゼベダイといっしょに舟の中で網を繕っているのをご覧になり、ふたりをお呼びになった。
22 彼らはすぐに舟も父も残してイエスに従った。


1. なにゆえ、イェシュアの最初の弟子が漁師であったのか

(1) イェシュアが招いた四人の漁師たち

  • マタイの4章18~22節には4人の漁師の名前が記されています。
     ① 「ペテロと呼ばれるシモン
     ② 「シモンの兄弟アンデレ
     ③ 「ゼベダイの子ヤコブ
     ④ 「ヤコブの兄弟ヨハネ
  • この中のアンデレとヨハネは、水で洗礼を授けていたパブテスマのヨハネの弟子でした。ところがそのヨハネがイェシュアを見て、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊・・・」と言うのを聞いて、イェシュアについて行きました。そしてイェシュアが泊まっている所でともに一夜を過ごしたことで、彼らはイェシュアがメシアだと確信し、アンデレは自分の兄弟シモン・ペテロをイェシュアのもとに連れて来たのでした。この時、イェシュアはシモンを見て、「あなたはヨハネの子シモンです。あなたをケパ(=アラム語で「岩」意味する)と呼ぶことにします」と言ったのでした(ヨハ1:35~42参照)。このように、上記の3人(アンデレ、ヨハネ、シモン)はすでにイェシュアと出会っていたのです。しかし3人は、バプテスマのヨハネが捕らえられたことで郷里のガリラヤに帰り、そこで漁師の働きをしていました。そんな彼らにイェシュアは招きの声をかけられました。それゆえ、彼らはイェシュアから招きの声を聞いたとき、すぐに網を捨てて従うことができたと言えます。
  • しかし、そうした心の準備など一切ないと思われるところでも、イェシュアの招きには人の想像を超える圧倒的な、はかりがたい権威をもって召し出されます。例えば、マタイ9章9節にあるように、イェシュアは取税所に座っていたマタイ(マルコでは「アルパヨの子レビ」2:14)をご覧になって、「わたしについて来なさい。」と一言、言っただけで、彼はすぐに立ち上がってイェシュアに従ったとあります。今日、メシアニック・ジューと言われる人の多くはそのような招きを受けるようです。それゆえ、彼らの多くが親から勘当されると言います。イェシュアの招きに即座に従うということは、きわめて不思議な出会いと言えますが、それは神が彼らをずっと以前に、天と地の基の置かれる前から、選び分けられていたからだと言えます(使徒パウロのように、ローマ1:1)。
  • マタイによれば、イェシュアはペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレだけでなく、別の兄弟であるゼベダイの子ヤコブとヨハネにも声を掛けて弟子として招きます。そして彼らもすぐに網を捨ててイェシュアに従ったことを記しています。

(2) なにゆえ最初の弟子が「漁師」だったのか

  • イェシュアが語ったこと、またなさったことのすべては、たまたまといった偶然的なことではなく、すべて意味をもっているという視点からすれば、イェシュアの最初の弟子となった者たちが漁師であったということには必然性があるはずです。「漁師」という語彙が持つ概念は、以下のように、「すなどる(漁る)」ことにあります。

【新改訳改訂第3版】エレミヤ書16章14~16節
14 それゆえ、見よ、その日が来る。──【主】の御告げ──その日にはもはや、『イスラエルの子らをエジプトの国から上らせた【主】は生きておられる』とは言わないで、
15 ただ『イスラエルの子らを北の国や、彼らの散らされたすべての地方から上らせた【主】は生きておられる』と言うようになる。わたしは彼らの先祖に与えた彼らの土地に彼らを帰らせる。
16 見よ。わたしは多くの漁夫をやって、──【主】の御告げ──彼らをすなどらせる。その後、わたしは多くの狩人をやって、すべての山、すべての丘、岩の割れ目から彼らをかり出させる。

  • ここでは、終末的な「その日」に、神は漁師を通してご自身の民をすなどらせ、また狩人を通して彼らをかり出させると預言してします。漁師は人を漁る(すなどる)だけでなく、終わりの日に良いものと悪いものを最終的に選り分ける働きを象徴的に示しています。以下のたとえ話に出て来る「網」も、魚を集め、引き揚げ、選り分ける漁師の働きの道具です。

【新改訳改訂第3版】マタイの福音書13章47~48節
47 また、天の御国は、海におろしてあらゆる種類の魚を集める地引き網のようなものです。
48 網がいっぱいになると岸に引き上げ、すわり込んで、良いものは器に入れ、悪いものは捨てるのです。

  • 旧約聖書の中に「漁師」という語彙を検索すると二箇所ヒットします。そのうちの一つには、メシア王国において死海はエルサレムの神殿の敷居の下から流れ出るいのちの水が流れ行く所となって、すべてのものが生きるのです。そこにも「漁師」が登場しています。終末的審判だけでなく、終末的祝福における「漁師」の務めが語られています。以下の箇所における漁師の務めは、千年王国においてエルサレムの神殿の敷居から流れ出るいのちの水の豊かな祝福を人々に分かつための象徴的存在とも言えるのかも知れません。
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【新改訳改訂第3版】エゼキエル書47章10節
漁師たちはそのほとりに住みつき、エン・ゲディからエン・エグライムまで網を引く場所となる。そこのは大海の魚のように種類も数も非常に多くなる。

  • 魚を意味する「ダーグ」(דָּג)、集合名詞の「魚」は「ダーガー」(דָּגָה)、そしてそれをすなどる漁師は「ダッガーグ」(דַּגָּג)。語源は「増える」を意味する「ダーガー」(דָּגָה)で、そのゲマトリヤは完全を意味する「12」です。このように、イェシュアが最初の弟子として漁師を召し出したのには、御国における神のご計画を完遂するために、良いものと悪いものとを選り分けて、御国に住む者を漁る(すなどる)務めを担わせるためだと言えます。

2. 弟子の選抜に見るイェシュアの戦略

(1) 「選抜」から「とどまる」ことへ

  • イェシュアは「御国の福音」を宣べ伝えるために、その最初の働きとして弟子たちを呼び出されました。その弟子たちは決してこの世で評価される者たちではありませんでした。事実、ユダヤ当局から「無学のただ人」と呼ばれた人たちでした。「弟子」と言っても、ただイェシュアの後について行く群衆のレベルから、寝食を共にして常にイェシュアと共にいて学ぶ意欲のある少数者のレベルまでいました。イェシュアはその宣教活動において、群衆を決して無視しないにしても、次第に、学ぶ意欲のある少数の者たちに専念するようになります。イェシュアの戦略は、弟子を選抜して召しただけでなく、少数の弟子たちと「ともにいる」ことでした。つまり、弟子たちが「天の御国の奥義を知ること」(マタイ13:11)を許されたのは、弟子たちに師であるイェシュアと「ともにいる」「とどまる」という親しい交わりをもたせるためであったのです。「主とともにいる」ことは、「主を知る」ことでもあるからです。

(2) イェシュアの招きのことば

  • 弟子たちがイェシュアとともにいることで、御国の福音のすべてを理解できるわけではありません。しかしイェシュアの近くにいることによって、イェシュアにとどまることによって、その可能性は大きく開かれていたのです。聖霊という真の教師が与えられるまで、弟子たちが知り得たことは限られていましたが、イェシュアと寝食を共にしてその教えを聞いていたことが重要であったのです。
  • 例えば、教会の集会に出席し、多くの事柄を学びつつも、理解できない事柄が多くあるかもしれません。しかし、その場にいて耳にしていることが重要なのです。そのときには理解できなくとも、やがて聖霊の助けによって神の奥義を理解するようになるからです。
  • ここでイェシュアの招きのことばに目を向けてみましょう。
    ①「来なさい。そうすればわかります。」(ヨハネ1:39)
    ②「わたしに従って来なさい。」(ヨハネ1:43)
    ③「来て、そして見なさい。」(ヨハネ1:46)
    ④「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」(マタイ4:19、マルコ1:17)
  • 最初の弟子たちを招いたことばは、アオリストの命令形と将来の約束を伴う未来形でした。これと全く同じ構造を持つ有名なイェシュアの招きがあります。

【新改訳改訂第3版】マタイ 11章28節
すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい(アオリスト命令形)。わたしがあなたがたを休ませてあげます(未来形)。

  • 「わたしについて来なさい」・・文法的にはアオリストの命令形ですが、これはギリシア語では特異な意味を持っています。それは一回的な決断、主体的・自発的決断をすることを求める命令形です。つまり、その人の生涯を決定づける、決断を迫る表現なのです。「わたしについて来なさい。」という命令は、弟子たちを神の働きのために訓練することを示しています。イェシュアはご自身が御父に仕えるように、弟子たちに仕える者となることを期待して呼び掛けておられます。イェシュアは弟子たちを他の人々の生涯に触れることができるように、仕える者として整えてくださるのです。そのことを示すことばが以下のことばです。
  • 「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう」。英語だと、Follow Me, and I will make you fishers of men.(NKJV)と訳されます。ここで重要なことは、イェシュアについて行った者が、自分の力や努力によって「人間をとる(すなどる)漁師」になることではありません。イェシュアがそのような漁師にしてくださるということなのです。イェシュアの後について行く者は、この世での立派な肩書きは要りません。私たち人間の能力によっては、だれ一人として、神の働きを担うことはできないからです。このことはこの世の常識と異なっています。このイェシュアの言葉は、能力のある者、多くの学業を身に着けた者にとって不快感をもたらすかもしれません。しかし、無学のただ人にとっては大いなる希望をもたらします。もう一つ重要なことは、普通、ある人の弟子となる場合は、その者が自ら師匠の門をくぐらなければなりませんが、イェシュアの弟子となる者は、師である方から直接に招かれなければ弟子にはなれないということです。これも世の常識とは異なります。「人をとる漁師に」と訳されていますが、原文の直訳では「人々の(人間の)漁師」です。「とる」は「捕る」「漁る(すなどる)」の意味です。魚を捕って売るために、あるいはそれを食べるために魚を捕りますが、ここでの「人を捕る」とは、人々に永遠のいのちであるイェシュアを与えて生かすために捕るのです。これもまた世の常識とは異なります。

3. 人を漁る(すなどる)ために、網も舟も父も捨てて従った弟子たち

【新改訳改訂第3版】マタイ4章20, 22節
20 彼らはすぐに網を捨てて従った。
22 彼らはすぐに舟も父も残してイエスに従った。

  • イェシュアは「湖で網を打っていた」シモン・ペテロとアンデレを召し、さらには、「舟の中で網を繕っていた」ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネも召し出しました。彼ら(四人の者たち)はみな漁師たちでしたが、いずれも「すぐに」、網も舟も、そして彼らの父を残してイェシュアに従ったのです。「すぐに」と訳されたギリシアの「ユーセオース」(εὐθέως)は、じっくり時間をかけて十分に考えてから、じっくりと計算してからという意味ではなく、まさに「即座に、たちどころに、間髪を置かずに」という意味です。新約では34回使われていますが、マタイだけでも7回使われています。即座の行動を表すだけでなく、いやしなどにおける突然の変化の現われにも使われています。往々にして、これは「御国」における特徴の一つと言えます。
  • 最初の弟子となる者たちが、「網」と「舟」を、また「父」も捨てたということは、稼業と家系も捨てたことを意味します。御国の働きをするために、この世の仕事を捨てる決心をしたことを意味します。それは御国の働きのために専心するためです。弟子となる者が学ぶべきことは、主に仕えることが、人生における他のすべての仕事に優先するということです。
  • マルティン・ルターは、この世での職業を神からの「召命」として位置づけましたが、直接的な神の福音を伝え、教えるための「召命」という形もあるのです。いずれかが優れているというのではなく、神からの召しをどのように受け留め、理解するかという問題です。ある者は医師という職業を通して、ある者は教師という職業を通して、ある者は事業家として、ある者は家庭の主婦として、・・というように、みなそれぞれが神からの召しを受けている必要があります。重要なことは、主にある者たちが自分に対する主の召命を確信して従っているかどうか、ということです。
  • イェシュアの招きに対して、シモン・ペテロとその兄弟アンデレは、「すぐに網を捨てて従った。」とあります。「従った」は動詞「アコリューセオー」(ἀκολουθέω)のアオリストです。この動詞は新約で90回使われており、群衆のように、単にイェシュアに「ついて行く」というレベルから、自分の十字架を負って「どこまでも従っていく」という弟子道(修道)のレベルまで網羅する重要な語彙なのです。弟子の道には段階があるようです。
    ちなみに、「従う」を意味する「アコリューセオー」(ἀκολουθέω)は、「~のあとについて行く」という意味で、新約聖書ではほとんど(90回中福音書では79回)が「キリストに(イェシュアに)従う」という意味に限って使われています。つまり、「聞き従う」「服従する」ことを意味する「オベイ」(obey)ではなく、「後について行く」ことを意味する「フォロー・ミー」(follow me)で呼びかけられているのです。弟子たちは、自分の名を呼んで招いてくださるイェシュアに、惹かれてついて行ったのです。「キリストに従う」「イェシュアに従う」とは、軍隊のように上官に対する絶対的服従の意味ではなく、喜んでキリスト・イェシュアについて行くという「信従」を意味します。
  • ちなみに、使徒とされたペテロの生涯は、イェシュアの招きに応じて「すぐに網を捨てて従った」(4章20節、「アコルーセオー」(ἀκολουθέω)のアオリストで始まり、ヨハネの福音書21章19, 22節の「あなたは従いなさい。」という同じく「アコリューセオー」(ἀκολουθέω)の現在命令形で締められています。途中、ペテロは主を否認し、主の弟子として従うことに失敗したこともありました。にもかかわらず、イェシュアは彼のために祈り、繰り返し、従い続けるようにと命じています。つまり、キリストに従う弟子の道は主体的な決心をしたなら、後は常に「従い続けていく」という現在形なのです。どんな理由であったにしても(たとえ大きな失敗をしたとしても)、途中で放棄せずに、従い続けることを主は望んでおられるのです。しかしそのためには御霊の助けが不可欠ですが、それすらも与えて下さっているのです。

べアハリート

  • 以前、教会学校でよく歌われていた歌で、「イエス様について行こう」があります。
    「イエス様について行こう。イエス様について行こう。イエス様について行こう。どこまでも、どこまでも。」
    とても単純な歌ですが、まさにこの中に、主の弟子として生きる者の姿勢(主の弟子道の精神)が歌われています。
  • もうひとつの歌もあります。「すべてを捨てて、従いまつらん」という聖歌582番の歌です。
    1) 神の御子にますイエスのために  罪を敵として立つはたれ(誰)ぞ
    2) 富みの楽しみと地の位(くらい)に 目もくれずイエスにつくはたれ(誰)ぞ
    3) 罪に捕らわれしたましいをば  イエスに連れ来る勇士はたれ(誰)ぞ
    (リフレイン)・・すべてを捨てて従いまつらん
    わがすべてにいます王なる主イエスよ
  • 「わたしについて来なさい。」という主の招きの声を聞いて、これらの歌を「自分の歌」として歌うことができるなら、あなたは主の弟子です。献身の道を歩む者にとって、イェシュアの召命の声はその生涯を支えていく拠り所です。召命の確信なくして献身の道を進むことはできません。神学校に入学しようとする者に、召命を問われるのはそのためです。

2017.1.15


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