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御国への招き(1)「狭い門から入りなさい」

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24. 御国への招き(1)「狭い門から入りなさい」

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【聖書箇所】マタイの福音書7章13~14節

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  • マタイの福音書7章13~27節において、イェシュアは三つの「御国への招きのことば」を語っています。その三つとは以下のことです。
    (1) 「狭い門から入りなさい。」(13~14節)
    (2) 「にせ預言者たちに気をつけなさい。」(15~20節)
    (3) 「みことばを聞くだけでなく、みこころを行う者となりなさい。」 (21~27節)
  • 今回はその最初の招きである「狭い門から入りなさい」というイェシュアの招きに絞り、それがどういう意味なのかを考えてみたいと思います。

1. 「狭き門」とは「いのちに至る門」

【新改訳改訂第3版】マタイの福音書7章13~14節
13 狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。
14 いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。

●上記のみことばを、今年発売になった【新改訳2017】で読んでみましょう。

13 狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入って行く者が多いのです。
14 いのちに至る門はなんと狭く、その道もなんと細いことでしょう。そして、それを見出す者はわずかです。

  • 狭い門から入りなさい。」(13~14節)というフレーズの意味を考えるためには、そこに使われている一つひとつのことばの意味を正確に理解する必要があります。そのためにはどうしても原語の情報が不可欠です。そのことをわずらわしく感じる人は、結論的な説明に心を留めるようにしてください。

(1)「入りなさい」と訳された「エイセルコマイ」(εἰσέρχομαι)はアオリスト命令形です。つまり、ここでは自らの意志をもって自発的に「入る」ことが命じられています。どこから入るのかと言えば、「狭き門から」(~から「ディア」διά)、狭き門を「通って」入り、そこを「通り抜けて」行きなさいと命じられています。

(2)「狭い」は「セテノス」(στενός)です。その意味は単に幅が狭いということではありません。ヘブル的修辞法である同義的パラレリズム(13節と14節)によれば、「狭い門」とは「いのちに至る門」であり、しかもほとんどの人がその門の存在に気づかないという意味で使われています。気づかないために、その門を見出す人がきわめてわずかであり、まれ(稀)であるという意味で、「狭い」と表現されています。「狭い」ことが「気づかない」ことだというのは、普通からするとちょっと不思議な感覚ですが、ヘブル語の「狭い」に相当する語彙は「ツァル」(צַר)で、それは「苦悩」や「窮乏」をも意味します。ですから、「苦悩、窮乏」の門がいのちに至ると信じてそこから入る者が少ないというのは、ある意味、当然のことかもしれません。しかしイェシュアは、御国への招きとして「狭い門から入り」、また「細くて通りにくい道」を選択するようにと命じています。

(3)「門」と訳されたギリシア語は、冠詞付の「へー・ピューレー」(ἡ πύλη)です。それに相当するヘブル語は同じく冠詞付の「ハッペタハ」(הַפֶּתַח)です。ちなみに、イェシュアが「わたしは門です」(ヨハネ10:9)と言われるときの「門」は「ピューレー」ではなく、「スーラ」(θύρα)で、これをヘブル語にすると「シャーアル」(שָׁעַר)です。「スーラ」(θύρα)も、「シャーアル」(שָׁעַר)も、あらゆる種類の「戸」「門」「入口」を表わす一般的な語彙のようです。家の戸口や羊の檻の門、神殿の「美しの門」、牢獄の門、墓の入り口などに使われています。ちなみに、ルカの福音書13章24節にある「努力して狭い門から入りなさい」の「門」も「スーラ」(θύρα)が使われています。ところが、マタイ7章13節、14節で使っている「門」は、「スーラ」(θύρα)ではなく、「へー・ピューレー」(ἡ πύλη)。つまりマタイ7章の「狭き門」は、一般的な意味での目に見える「門」ではなくて、つまり特別な意味の「門」のことで、それは目には見えない「いのちに至る門」だということです。

  • イェシュアが「狭い門から入りなさい」と命じているのには理由があります。それはもう一つの門があるからです。その「門」とは「滅びに至る門」であり、しかもその門は「大きい」のです。普通、「狭い」の反対語は「広い」という語彙です。ですから、「大きい」というのはちょっと不自然に感じますが、「大きい」と訳された「プラテイア」(πλατεῖα)には「幅広い」という意味があるので何ら問題はありません。「滅びに至る門は幅広い」、そのために多くの人々が何も考えることなく、その幅広い門を通って入って行くのです。しかしその先はなんと滅びなのです。まさに箴言にあるように、「人の目にはまっすぐに見えるが、その終わりが死となる道がある。」(新改訳2017. 箴14:12)のです。ちなみに、「広い」(「プラテイア」πλατεῖα)という語彙は、偽善者たちがあちこちにいる「大通り」(「プラテイア」πλατεῖα)を連想させます。そのために、そこを通ることは滅びを招くことになるのです。

(5) 14節の「その道」とはどんな道なのでしょうか。ギリシア語は「へー・ホドス」(ἡ ὁδoς)、それに相当するヘブル語は「ハッデレフ」(הַדֶּרֶךְ)です。「その道」はイェシュアが歩まれた道です。「主の道」と同義です。

(6) 「その道は狭い(細い)」とあります。どの程度の狭さなのでしょうか。ここでの「狭さ」は13節の「狭き門」の「狭い」とは異なります。13節は「セテノス」(στενός)でしたが、14節の「道は狭く」の「狭い」は、「細くなっていて通りにくい」という意味の動詞「スリボー」(θλίβω)の分詞が使われています。「細くて人一人通るのがやっと」といった狭さです。しかもこの動詞には「圧迫される、苦しめられる、悩まされる、迫害される」という意味があります。そんな身をすり減らす苦労をしてまで狭い道を歩もうとする物好きはいません。いのちに至る道がそんな厳しい道だと最初から知らされていれば、おのずと足は広い道に向けられてしまいます。ところが、最初からそんな道であることを承知の上で歩くように神に召された特別な人がいるのです。使徒パウロがそのような人でした。彼を召した主のことばを見てみましょう。

【新改訳2017】使徒の働き9章10~16節
10 さて、ダマスコにアナニアという名の弟子がいた。主が幻の中で「アナニアよ」と言われたので、彼は「主よ、ここにおります」と答えた。
11 すると、主はこう言われた。「立って、『まっすぐ』と呼ばれる通りに行き、ユダの家にいるサウロという名のタルソ人を訪ねなさい。彼はそこで祈っています。
12 彼は幻の中で、アナニアという名の人が入って来て、自分の上に手を置き、再び見えるようにしてくれるのを見たのです。」
13 しかし、アナニアは答えた。「主よ。私は多くの人たちから、この人がエルサレムで、あなたの聖徒たちにどんなにひどいことをしたかを聞きました。
14 彼はここでも、あなたの名を呼ぶ者たちをみな捕縛する権限を、祭司長たちから与えられています。」
15 しかし、主はアナニアに言われた。「行きなさい。あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子らの前に運ぶ、わたしの選びの器です。
16 彼がわたしの名のためにどんなに苦しまなければならないかを、わたしは彼に示します。」

(7)「見いだす(こと)」と訳された言葉は、「ユーリスコー」(εὑρίσκω)の分詞です。それに相当するヘブル語は「マーツァー」(מָצָא)、その初出箇所は創世記2章20節です。最初の人アダムf地上のすべてのものに名を付け、それらを支配する権威を神から与えられていました。ところが、彼にとって最もふさわしい助け手をそのなかに見出すことはできませんでした。そこで、「人が、ひとりでいるのは良くない」と言われていた主は、彼に深い眠りを下して眠らせました。そして彼のからだからあばら骨の一つを取り出して、彼にふさわしい助け手となるべくひとりの女を造り上げられたのです。ここで重要なことは、人にとってなくてはならない最も大切な助け手(交わりの存在)が、彼の眠っている間に、神によって与えられたということです。この賦与の原則は永遠に変わりません。すべて良いものは神から来るのです。

  • 「いのち」も、私たちの努力によっては得ることはできません。いのちは神によって与えられるものです。その「いのち」とは「生存としてのいのち」ではなく、「神と人とが、あるいは、人と人が共に生きるための永遠の交わりとしてのいのち」です。神の住まいにおいて、神と人とが共に住むのに必要なのは「交わりのいのち」、すなわち、「永遠のいのち」です。その「いのち」に至るためには、どうしても「狭き門」を通らなければなりません。ところが、その「いのちに至る門」を見出し、「細い道」を歩んでいのちを見出す者はごく稀で、少数だということです。それだけ神にとって希少価値があるという意味でもありますが、いずれにしても、神はそのような人を求めて、招いておられるのです。偽善者たちの教えに従い、広い門を通って、滅びに至る幅広い道を歩いて行ってはならないのです。

(8) 「門」と「道」の関係について
ここで、「門」と「道」の関係について考えておきましょう。道が先なのか、門が先なのかということです。この点についての二つの意見があります。最初のひとつは、まず「道」があって、「門」はその到達点であるという考え方で、その場合の「門」はその道の到達点にある終末的な救いを象徴しています。もう一つの意見は、「門」が最初にあって、その後に道が続いているという考え方です。この場合はイェシュアに従う信仰の決断をして、その後に信仰の旅路が続くということになります。その信仰の旅路とは「主の道」を歩むことです。私としては、後者の方が自然な解釈のように思います。

2. 狭き門を通ったヤコブ

  • イェシュアは「狭い門から入りなさい」と命じています。その狭き門は一般的な意味での「門」ではなくて、「いのちに至る門」だということでした。創世記28章には「天の門」が登場します。ただしそこでの「門」はマタイ7章13節の「門」(「ペタハ」(פֶּתַח)ではなく、一般的な意味での「門、戸口、入り口」の意味の「シャアル」(שַׁעַר)が使われています(旧約で373回)。つまり「天に通じる門」といった意味です。ヤコブの生涯全体を考えるなら、ヤコブはここで「狭い門」と「狭い道」を通ったと考えられます。
  • ヤコブはイサクとリベカに勧められて、母の故郷であるパダン・アラムへ自分の妻を探すべく旅に出かけます。初めて親のもとから離れてのひとり旅でした。ベエル・シェバを後にして、「なつめやしの木」を意味する「ルズ」(לוּז)というところで、ヤコブは石を枕にして一夜を明かそうとします。そして彼はとても不思議な夢を見たのです。その夢の中に「天から地に向けた梯子」が登場し、その梯子を上り下りしている御使いたちを見ました。そしてもうひとつ、夢の中でヤコブは彼のかたわらに立っておられた主を「見た」のです。その主がヤコブにこう語りかけました。

【新改訳2017】創世記28章13~15節
13 そして、見よ、【主】がその上に立って、こう言われた。「わたしは、あなたの父アブラハムの神、イサクの神、【主】である。わたしは、あなたが横たわっているこの地を、あなたとあなたの子孫に与える。
14 あなたの子孫は地のちりのように多くなり、あなたは、西へ、東へ、北へ、南へと広がり、地のすべての部族はあなたによって、またあなたの子孫によって祝福される。
15 見よ。わたしはあなたとともにいて、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」

  • これはヤコブが初めて個人的に聞いた主のことばでした。祖父アブラハム、父イサクへの約束をヤコブも引き継ぐことの約束(28:13~14)と、主がヤコブに約束したことを成し遂げるまで、主はヤコブとともにいて、どこへ行ってもヤコブを守り、この地に連れ戻そう。それまで決してヤコブを捨てないという約束です。実はこれはとんでもない内容の約束なのです。というのは、この約束はヤコブ個人としての約束だけでなく、彼から生まれ出るイスラエルの民全体も含まれているからです。この約束が完全に実現するときまで、すなわち、ヤコブとその子孫となるイスラエルの民が、再度この地に戻る「終わりの日」まで主は彼(彼ら)とともにいて、守るという約束です。これは未だ完全に実現されていません。確かに、ヤコブ個人はその地に多くの子どもたちを連れて帰ってきますが、神の約束の真の意味が、さらなる長い歴史を通して明らかにされ続けていくのです。この夢の実現のために、イスラエルの民がどんなに苦悩し窮乏を経験することになるか、ヤコブは知らされていません。しかしヤコブが主の約束を信じて歩むということは、彼のみならず、彼から生まれ出るイスラエルの民全体が、「狭き門」を通って、「細い道」を通って、やがて天に通じる神の家でいのちを得るという壮大な神のご計画が隠されているのです。そのことを知るよしもないヤコブ自身の生涯は、このあと狭く険しい道を歩むことになるのですが、同時に、彼は神のご計画を担う者とされていくのです。
  • イェシュアがイスラエルの民に対して(一義的に)、「狭い門から入りなさい」と命じたのは、神と人とが共に生きる神の家、すなわちエデンの園の回復に向かういのちの道を選ぶことを意味していたのです。しかし、当時の人々でそれに気づいた者、悟った者はほとんどいなかったのです。
  • さて夢から目を覚ましたヤコブは、神の約束に対してどのような反応をしたでしょうか。その点を注意しながら、次の箇所を読んでみることにしましょう。

【新改訳2017】創世記28章16~22節
16 ヤコブは眠りから覚めて、言った。「まことに【主】はこの場所におられる。それなのに、私はそれを知らなかった。」
17 彼は恐れて言った。「この場所は、なんと恐れ多いところだろう。ここは神の家にほかならない。ここは天の門だ。」
18 翌朝早く、ヤコブは自分が枕にした石を取り、それを立てて石の柱とし、柱の頭に油を注いだ。
19 そしてその場所の名をベテルと呼んだ。その町の名は、もともとはルズであった。
20 ヤコブは誓願を立てた。「神が私とともにおられて、私が行くこの旅路を守り、食べるパンと着る衣を下さり、
21 無事に父の家に帰らせてくださるなら、【主】は私の神となり、
22 石の柱として立てたこの石は神の家となります。私は、すべてあなたが私に下さる物の十分の一を必ずあなたに献げます。」

  • 夢の中で見た天からのはしごとかたわらにおられた主の約束に対して、ヤコブはどのように反応したでしょうか。それは、
    ①【主】がかたわらにおられるのに、そのことを知らなかった(気づかなかった)と認めた。
    ② この経験を、枕にした石を立てて油を注いで記念とし、忘れないようにした。
    ③ 神の約束に応答して、自発的に、神が自分に賜わる物の十分の一をささげるという誓願を立てた。
  • ②は、ヤコブの生涯において特別な経験を決して忘れないようにするための決意を表わす行為でした。③はヤコブにとって神の恵みに対する自然な応答としての「誓願」です。「誓願を立てる」というフレーズと、「必ずあなたにささげます」というフレーズには、それぞれ同じ語幹を持つ語彙が重ねられています。「誓願を立てる」では「ナーダヴ」(נָדַב)が、「必ずささげる」には「アーサル」(עָשַׂר)がそれぞれ重ねられています。これはヘブル語の特有の強調表現です。要するに、この強調表現は、ここでヤコブが「狭い門から入った」ことを意味しています。つまり、ヤコブは信仰によって選び取ったのです。そしてその後の「道」は彼にとって狭く険しい道となりますが、これを話すにはヤコブの生涯を知っている必要があるので、ここ辺りで留めおきたいと思います。

3. 「努力して狭い門から入りなさい」というイェシュアのことばの真意

  • 「狭い門から入りなさい」ということばに関して、どうしてもルカの福音書13章24節に触れておく必要があります。そこにも同じく「狭い門から入りなさい」というフレーズがあるからです。

【新改訳改訂第3版】ルカの福音書 13章24 節
努力して狭い門から入りなさい。なぜなら、あなたがたに言いますが、入ろうとしても、入れなくなる人が多いのですから。

【新改訳2017】ルカの福音書 13章24 節
狭い門から入るように努めなさい。あなたがたに言いますが、多くの人が、入ろうとしても入れなくなるからです。

※ここでのイェシュアのことばは、ある人が「主よ、救われる人は少ないのですか。」とイェシュアに尋ねたその答えとなっています。

  • ここは一見、マタイの福音書と似た話に見えますが、いくつかの点で異なっています。どの点が異なるのかと言いますと、マタイの場合は、「門」と「道」の二つの語彙がありますが、ルカには「道」がなく、「門」だけです。しかもその「門」の原語がマタイとルカでは異なっていること。「いのち」か「滅び」かという選択もルカにはありません。似ていますが、異なる話なのです。しかしこの際、違いがあることを認めながら、ルカの「狭い門から入る」とはどういうことかを考えておきたいと思います。

(1) 「努力して狭い門から」(「狭い門から入るように努めなさい」)とは

  • ルカの福音書13章24節の「努力して狭い門から入りなさい」と訳されたイェシュアのことばを考えてみましょう。前後の文脈を考えるなら「努力して」ということばが不自然に感じられます。イェシュアは実際にどういう意味で語られたのでしょうか。多くの日本語訳を見ると、どれもみな「努力する、全力を尽くして、懸命に」という意味で訳されています。それもそのはず、原文のギリシア語は「アゴーニゾマイ」(αγωνιζομαι)という動詞が使われており、その語義は「競技で勝敗を競う、福音のために苦闘する、獲得しようと努力奮闘する」という意味です。しかしここで使われているギリシア語の語義がたとえそうであったとしても、そこでの文脈は神の国について「からし種」と「パン種」の二つのたとえが語られた後です。前者のたとえは、きわめて小さくてもやがては全地を支配するようになることを意味し、後者は目には見えなくてもやがては拡大する力を内に秘めていることを表わしています。神の国はやがては全地をおおうほどに拡大することが語られた後に、先のことばが語られています。つまり、御国の全世界的規模から比べるならば、今はきわめて小さく、しかも少ないということで、「狭き門」なのですその意味で「努力する」(「アゴーニゾマイ」αγωνιζομαι)とは、その現実に押しつぶされることのないように、懸命に努める必要があるということなのです。
  • マタイの「狭き門」とは、いのちに至る門を「見出す者がきわめてまれである」という意味でしたが、ルカの「狭き門」とは、「今は少ないという現実がある」という意味で「狭き門」なのです。それゆえそのことを恐れずに「努力し」「努める」ことが必要だということです。似ているようでもあり、似ていないという話なのです。

(2) イェシュアの真意は「マイノリティー・コンプレックス」に対する励まし

  • ●「努力する」「努める」と訳されたギリシア語の「アゴーニゾマイ」(αγωνιζομαι)をヘブル語ではどう訳されているかを調べました。するとそこに当てられているヘブル語は「アーマツ」の強意形ヒットパエル態の命令形「ヒットアンメツー」(הִתְאַמְּצוּ)です。この動詞は励まし用語です。「強くあれ、雄々しくあれ」というフレーズがありますが、ヘブル語では「ハザク・ヴェ・エマーツ」と言います。後者の「エマーツ」(אֱמָץ)が「アーマツ」(אָמַץ)の命令形です。これは「雄々しくあれ」という激励用語です。
  • このフレーズが語られた背景には、目に見える敵に対する「恐れ」がありました(ヨシュア記1:9)。ルカの13章24節のことばの背景にあるものは、マイノリティー・コンプレックスです。それはマイノリティー(少数であること)に対する恐れです。ルカ12章32節に、「小さな群れよ。恐れることはない。あなたがたの父は、喜んであなたがたに御国をお与えになるからです。」とあります。小さいこと、少ないことを恐れる者に、イェシュアは将来、確実に神の国が実現・完成することを語り、「今は、多くの者たちが気づかず、見向せずとも、勇気をもって神の国を求め続けることを堅く決心するように」と励ましているのです。やがて、御国がこの地に到来するあかつきには、「入ろうとしても、入れなくなる人が多いのだから」とイェシュアは述べています。
  • 主に召された者は、信仰によって、マイノリティー・コンプレックスを克服しなければなりません。キリスト教の歴史の中で霊的なパイオニアとなった人々は、このコンプレックスに絶えずさらされ続けました。しかし彼らは、使徒パウロと同様に、目に見えるものではなく、見えないものにこそ目を留めていました。それゆえにやがて大きな影響を与える者となったのです。

ベアハリート

  • 「寄(よ)らば大樹(たいじゅ)の陰(かげ)」ということわざがあるように、だれでも大きいことや多いことは安心でき、しかも良いことだと考えます。ですから多くの者たちがそうした門から入り、そうした道を歩もうとします。しかし、イェシュアの言われるのはそれとは全く逆です。多くの者たちが見向きもしない門、注目しない道を歩むためには、マイノリティー・コンプレックスに陥ることなく、常に「雄々しく」あることが必要なのです。ルカ13章12節は「努力して」というよりも、「雄々しくあって」と理解する方が自然な気がします。しかもここの命令形はギリシア語では現在形で記されています。ギリシア語の時制はきわめて厳密です。ということは、常に、継続的に「雄々しくあり続ける」ことが命じられているのです。確かな御国の到来を信じて、今日も、明日も、「雄々しくあり続けて」、主の道を歩んで行きたいものです。

2017.12.17


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