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御国を受け継ぐ

第7日目 「御国を受け継ぐ者」とされた祝福

  • 〔聖書箇所〕1章11節 【新改訳改訂第3版】

    【新改訳改訂第3版】
    †1:11
    この方にあって私たちは御国を受け継ぐ者ともなりました。みこころによりご計画のままをみな行う方の目的に従って、私たちはあらかじめこのように定められていたのです。

    ἐν ᾧ καὶ ἐκληρώθημεν προορισθέντες κατὰ πρόθεσιν τοῦ τὰ πάντα ἐνεργοῦντος κατὰ τὴν βουλὴν τοῦ θελήματος αὐτοῦ,



    1:11の「御国を受け継ぐ者となった」κληρόωと、「あらかじめ定められていた」
    προορίζωの二つの動詞は、共に、アオリスト時制の受動態です。



はじめに

  • 4節~14節は、この1章3節に記されている「霊的祝福」の具体的な内容が記されています。
    画像の説明
    その「霊的な祝福」の第一は、御父が御子をとおして(すべてが御子をとおしてなされました)、私たちを世界の基が置かれる前から「選び」、「神の子どもとなる」ように定められていました。これは御父のプランでした。しかし、そのための手続きを実際になされたのは御子イエスです。御子イエスの十字架の血潮によって、贖いのわざがなされました。この「贖い」ということばの持つ意味
    画像の説明
    は、第一に、「罪の赦し」(身代わりの死による罪の赦しです)、第二は、「救出と権利回復」、第三は、「奥義の啓示」-すべてのものがキリストにあって一つにされるという神のご計画です。そして第四は、今朝、お話ししようとしているテーマ、「御国を受け継ぐ者となる」ということです。これは将来、神の子とされた者に与えられる相続財産と深い関連があります。これらが御子の血による贖いの内実です。
    次回は、御子イエスによって与えた相続財産が、御霊によって守られ、完全に保証されているということを話す予定です。

1. 「御国を受け継ぐ」とは

(1) さまざまな翻訳

①「御国を受け継ぐ者ともなりました。」(新改訳)
②「約束されたものの相続者とされました」(新共同訳)
③「預め、定められたる嗣業を得たり」(永井訳)
④「神の民として選ばれた」 (口語訳)
⑤「神の民(神の所有)とせられた」 (柳生訳)
⑥「神様のものとなるように選ばれていた」(L・B)
⑦「相続人に定められました」(白畑訳)

  • このように、キリストにあって、私たちに約束されていることは、「御国を受け継ぐ者とされること」「相続人とされること」「相続人に定められること」「特権を与えられること」で、「エクレーローセーメン」ἐκληρώθημενという動詞(文法的には、アオリスト、受動態、1人称、複数)が使われています。NIV訳は、"In him we were also chosen"と訳しています。本来の語彙は「くじで選ぶ、くじで割り当てる」という意味の「クレーロー」κληρόωという動詞です。ちなみに、この動詞は新約聖書ではエペソ1:11のみに使われています。その名詞は「クレーロノミア」κληροvομίαで「相続財産」「嗣業」「資産」と訳されています。エペソ書では1:14, 1:18, 5:5に使われています。織田昭編「新約聖書ギリシア語小辞典」によれば、聖書中での「クレーロノミア」κληροvομίαの意味の重点は、・・所有権の継承の意味よりはむしろ、「神が私に与えたもの、また私に約束したものが『わが所有』であることの絶対的確かさ」という点にある、と説明されています。

(2)「御国を受け継ぐ」という救済史的背景

  • かつて旧約聖書における神の民が約束の地であるカナンに占領したとき、シロの会見の幕屋で、神は12の部族にくじをひかせ、それぞれ割当たられたところを相続地(嗣業)として与えました。

    (1)アシェル (2)ナフタリ (3)ゼブルン (4)マナセ (5)ガド (6)エフライム (7)ダン (8)イッサカル (9)ベニヤミン (10)ルベン (11)ユダ (12)シメオン
    但し、レビ族だけは割り当て地がなかった。神ご自身が相続地だったからである。

12部族の地図
  • 旧約聖書の重要な概念の一つとして,カナンの地は神がイスラエルに与えると定めた相続地です。この相続地は,人数に応じて,くじで12部族(正確には9部族半)に分配され(民26:53,34:2以下,ヨシ13‐19章,23:4)ました。それぞれ分配された者たちは、その相続地の確保に努める必要がありました(ヨシ24:28,士2:6/21:24)。遺産を携えて他の部族に嫁ぐことは許されませんでした(民36:1~9)。そして、各相続地の地境は神のほか(エゼ47:13‐48:35)にはだれも変更する(つまり地境を移す)ことはできなかったのです(申19:14)。
  • ところが、アロンの子孫である祭司を初めとするレビ人には、他の部族のように、領地としての相続地は与えられず、ただ48のレビ人の町が各部族の領域に分散して設けられました(民35:2,7‐8)。なぜなら、レビ人が相続するのは神御自身であったからです。「・・イスラエル人の中にあって、わたしがあなたの割り当て地であり、あなたの相続地である。」(民18:20) その証拠として、レビ人はその奉仕の報酬として十分の一奉納物にあずかりました(民18:21)。

    18:23 レビ人だけが会見の天幕の奉仕をすることができる。ほかの者は咎を負う。これは代々にわたる永遠のおきてである。彼らはイスラエル人の中にあって相続地を持ってはならない。
    18:24 それは、イスラエル人が、奉納物として主に供える十分の一を、わたしは彼らの相続財産としてレビ人に与えるからである。それゆえわたしは彼らがイスラエル人の中で相続地を持ってはならないと、彼らに言ったのである。」
    18:25 主はモーセに告げて仰せられた。
    18:26 「あなたはレビ人に告げて言わなければならない。わたしがあなたがたに相続財産として与えた十分の一を、イスラエル人から受け取るとき、あなたがたはその十分の一の十分の一を、主への奉納物として供えなさい。」

  • このレビ族の相続が神ご自身であるというこの立場が、やがて新約時代においては拡大適用されます。もともと「乳と蜜の流れる地」であるカナンの地も、本当の相続地(嗣業)ではなく、それ以上の相続地(嗣業)、すなわち「天の御国」が与えられることの模型にすぎないことをすでに旧約聖書で教えていたのです。
  • イスラエルの歴史において、王国時代に人々の罪がひどくなり、大国のアッシリアやバビロンに滅ぼされるという神のさばきが避けられない状況になるにつれて、預言者たちはイスラエルという相続地を越えた、エデンの園の再来、あるいは新天新地再創造の希望を語るようになっていきました。新約聖書では、神から与えられる本当の相続地(嗣業)のことを、永遠の「安息」とか(ヘブル4:9,11)とか、永遠の「都」とか、「天の故郷」、永遠の「神の国」、「御国」と呼ぶようになります。
  • しかも、キリストにあって受け継ぐべき「財産」「遺産」「相続」「相続財産」など(「クレーロノミア」κληρονομία)が、レビ族の相続が神ご自身であるというかつてと同じ意味で用いられるようになったのです。パウロを初めとする新約聖書の著者は、神と神の国、つまり「御国を受け継ぐ」(相続する)ことを最大の祝福と見ています(使20:32,エペ1:14,18,5:5,コロ3:24.参照ヘブ9:15,Ⅰペテ1:4)。

2. 御国を受け継ぐことの祝福

  • 聖書には「御国を受け継ぐ」という同じ祝福を表すことばがあります。「資産を受け継ぐ」ということばもその一つです。
  • ペテロの手紙第一1章3節~5節には、「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです。あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりのときに現わされるように用意されている救いをいただくのです。」と記されています。
  • 特に4節には、「また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。―これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです。」と記されています。ここで「資産」と訳されている「クレーロノミア」κληρονομίαということばは、「御国を受け継ぐ」ということばと同じ言葉です。また、「相続財産」を表わす言葉です。「これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです。」と言われていますように、この相続財産は終わりの日に完全な形で私たちに与えられるものとして、それまで天においてしっかりと見張られており、守られているというのです。
  • この「天に貯えられている資産、相続財産」をイエスは「天に積む宝」と表現しました。この宝は善行を積むことではありません。最も大切な財産を天に置くようにという話です。

    マタイ
    6:19 自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。
    6:20 自分の宝は天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。
    6:21 あなたの宝のあるところにあなたの心もあるからです。

  • 新改訳(口語訳)では「宝」となっていますが、LB訳では「財産」となっています。「天に宝をたくわえる」とか、「財産を天に積む」とはどういうことでしょうか。
  • ペテロの手紙第一では、神の子とされた者たちのために、すでに天に資産(財産、宝)が備えられているのに、マタイでは、「天に宝をたくわえなさい」、「天に宝を積みなさい」と命じられています。一見、矛盾するように見えますが、実は、そうではありません。マタイの場合には、自分の宝を地上ではなく天にたくわえなさい。その理由は、地上では虫がついたりさびたりして損なわれたりするし、あるいは盗人によって盗まれるかもしれないからだ、としています。天だと損なわれることも、盗まれる心配もないからだ。あなたの宝のあるところにあなたの心もあるのですから、「あなたの心を地上ではなく、天に置く」ということがここで強調されているのです。あなたの最も大切な宝を天におくこと。その宝を「貯える」とか「積む」という表現は、その資産を自分の力でふやしたり、多くしたりということではなく、その宝に対する心を豊かにすること、そこにしっかりと心を注いで生きるということを意味していると私は考えます。
  • もうひとつ、「天の資産」に関連して取り上げたいイエスの言葉があります。これはルカの福音書10章に出てくる話です。イエスが自分の弟子たち70人を伝道に遣わします。その弟子たちがその伝道の働きから帰ってきてイエスにこういいました。「イエス様。あなたのお名前を使うと、不思議なことに、悪霊どもが服従するのです」と喜び勇んで報告しました。
  • その報告を聞いたイエスは「そうでしょう。そうでしょう。よくやりましたね」とほめるようなことを言いませんでした。「悪霊どもがあなたがたに服従するからと言って喜んではなません。確かに、わたしはあなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けました。だから、あなたがたに害を与えるものは何ひとつありません。ただ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」と。
  • 「あなたがたの名が天に書き記されている」とはどういうことでしょうか。このことばが意味することは、「あなたがたが、天の父によって、この上なく愛されている」ということだと私は解釈します。御子イエスは、このことを「何よりも喜びなさい」というのです。使徒パウロは、このイエスの言われた「あなたがたの名が天に書き記されている」ということを「私たちの国籍は天にあります」と表現しました。
  • イエスはなぜこう言われたのか考えて見ましょう。弟子たちの伝道の働きは、ひとつの成果として報告されました。主の名によってなされた働きです。主のための働きでした。しかし、イエスはそうであっても、その働きの成果を喜ぶ弟子たちをたしなめたのです。なぜでしょう。働きの成果というものを喜びしている限り、働きの成果に次第に縛られていきます。成果をあげることができれば喜び、成果をあげることができなければ落ち込んだり、成果をあげられなかつた自分や人を見下げたり、頑張りや熱心さが足りないからだと非難するようになります。あるいは自分が人から見下されている、非難されていると恐れる心を持つようになります。もしそうなってしまうなら、敵の思う壺です。サタンの支配下に陥ることになります。ですから、働きの成果の如何によって喜んだりしているようでは、まだ未熟だといわんばかりに、「あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。つまり、何の働きがなくても、成果がなくてもあなたが御父にとって、愛されていること、御父の喜びの対象なのだということを喜びなさい。
  • 自分が御父に愛されていることを知ること、そのことを喜びとすることが、実は、どんな働きにもまして大切なことなんだとイエスは弟子たちに語ったのです。なんらかの良い結果出さなければ、だれからも評価されないとするこの世においては、このイエスの言われることがどんなに大切なことか理解できません。自分があるがままに御父のものとして愛され、受け入れられ、大切にされている喜びの存在だということを知っていることです。
  • これが「御国を受け継ぐこと」「朽ちることも汚れることもなく、消えていくこともない資産」であり、「天に宝を積むこと」であり、「あなたがたの名が天に書き記されている」ことであり、「国籍は天にあること」なのです。
  • 天国(あるいは「天の御国」)が素晴らしいのは、そこに真珠の門や黄金の道、水晶の川、いのちの木があるからだけではありません。神がおられるだけでなく、神が私たちとともにいてくださるからです。私たちが天国で相続するものの中で最高のものは、実は、神ご自身なのです。
  • 「天ある資産(相続財産)を受け継ぐこと」「御国を受け継ぐこと」―その中身とはいったいなんでしょうか。確かにそれは神からのプレゼントであることは確かなのですが、物質的なモノだと思われますか ? 霊の世界ではモノは必要ありません。モノでないとしたら、相続財産とはなんなのでしょう。それは、天に備えられている相続財産の中心は神ご自身との愛に満ちたいのちの交わりです

3. かかわりの奥義

  • 「私の愛する方は私のもの。私はあの方のもの。」(雅歌2章16節)
  • 本来、この歌は男女の愛を歌ったものですが、主と私の愛のかかわりを指し示しています。 これは愛の究極的なかかわりの形であると言えます。お互いに相手のものでありながら、決して相手を搾取したり、支配したりしない関係です。それでいて一つなのです。これが御父と御子の関係であり、神と私たちの究極の関係でもあるのです。
    かかわりの奥義
  • 神は、私たちを神のものとしてくださるだけでなく、ご自分を私たちのものとしてくださるのです。神は、奴隷を自分の所有物にするような仕方で、私たちを神のものにするのではありません。私たちを、神の子どもとして、愛の対象として、神のものにしてくださるのです。しかも、神もまた、ご自身を私たちのものとしてくだるのです。
  • 御子にとっての最大の特権は御父とのゆるぎない愛の交わりでした。御子イエスの喜びは、永遠の昔から、御父の家を住みかとし、御父にとどまり、御父の愛の中にとどまり、御父のことばにとどまることでした。イエスはそのことを喜びとしたのです。それと同じように、神の子どもに与えられている最大の祝福は、父なる神さまとの愛の交わりにあります。これが御子イエス・キリストによって約束されている「御国を受け継ぐ祝福」です。
  • 聖書の最後の書巻であるヨハネの黙示録の結論は、「神の御顔を仰ぎ見る」ことです。かつてエデンの園で、人間が罪を犯して神の御顔を避けて以来、神は失われた人を探し求めつづけて、御子イエスをこの世に遣わされました。救いの完成は、神の御顔を仰ぎ見ることの幸いです。神のスマイルの中に迎え入れられ、歓迎される祝福です。
  • あの「放蕩息子」のたとえ話に登場する息子が経験したことです。彼は父の家のなかにある財産を得たことが彼の喜びだったのでしょうか。いいえ、彼にとっての最大の喜びは、息子としての資格はないと思っていた自分を息子としてあるがままに迎え入れてくれた父の存在です。その父の存在こそが彼にとってなににも代えがたい相続財産だったのではないでしょうか。すでに、彼には自分に対しての相続財産は使い果たしていました。「あなたはわたしの愛する子」と呼ぶ声がたえず聞かれる父の家。その家に住むことこそ、価値のある資産、だれにも奪われることなく、傷つくことも、汚れることもない天の相続財産―それは父の存在です。その父は彼のものなのです。彼も父の愛すべき対象、父のものなのです。
  • 使徒パウロは、コリントに宛てた手紙の中で、「愛についての賛歌」を記した箇所があります。13章です。愛がないなら、ほかにどんなすばらしいものを持っていたとしても、何の値打ちもない、とパウロは述べています。愛がなければどんなによいことをしたとしても、何の役にも立たないとも言っています。そして「愛は決して絶えることがありません。」愛は永遠にすたれることがないということです。・・・とはいえ、今、私たちが経験する愛は、鏡にぼんやりと映るものを見ている程度だとパウロは言います(同時の鏡は、銀でできており、今日の鏡のようなものではありませんでした。ぼんやりとしか映りませんでした。)。そのように、私たちが経験できる、知ることのできる神の愛というものは一部分でしかないこと、一部分しか経験できないとしています。しかし、やがてときが来ると、その時には顔と顔とを合わせて見ることになると断言しています。神の御顔を仰ぎ見ることになるということです。より直接的に、神の愛の声を聞き、しっかりとハグされ、神の深い愛の喜びを私たちは経験できるということです。完全に知り知られるという関係です。御子イエスはこの愛の中におられた方だったのです。
  • 使徒パウロはいつまでも残るものは信仰と希望と愛だと述べました。そしてその中で一番すぐれているのは愛だと述べています。なぜ、愛が一番優れているのでしょうか。それは愛が完全に現わされるとき、信仰も希望も必要なくなるからです。天において、最高の愛、最上の愛し合う家が備えられています。神の子どもとされた者たちは、その神の家において、満ち足りるのです。
  • 私はすでにキリストにあって「御国を受け継ぐ者」とされているのです。完全な相続財産である神ご自身との交わりは、天にしっかりと備えられていますが、私たちは聖霊によって、この世でその前味を味わうことができるのです。私たちはその愛の味覚をたっぷりと味わい楽しむことです。なぜなら、そこにすべての力の源泉が隠されているからです。このことに気づく者は幸いです。
  • いよいよ「私たちは彼(キリスト)にあって御国を受け継ぐ者ともなった」ことを喜びとしながら、神をほめたたえる者でありたいと思います。

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