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御座についての教え

第12日目 御座についての教え

  • 〔聖書箇所〕1章20~21節 【新改訳改訂第3版】

    1:20
    神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、

    ἣν ἐνήργησεν ἐν τῷ Χριστῷ ἐγείρας αὐτὸν ἐκ νεκρῶν, καὶ καθίσας ἐν δεξιᾷ αὐτοῦ ἐν τοῖς ἐπουρανίοις

    1:21
    すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。

    ὑπεράνω πάσης ἀρχῆς καὶ ἐξουσίας καὶ δυνάμεως καὶ κυριότητος καὶ παντὸς ὀνόματος ὀνομαζομένου οὐ μόνον ἐν τῷ αἰῶνι τούτῳ ἀλλὰ καὶ ἐν τῷ μέλλοντι:



はじめに

  • 先週もこの聖書箇所からメッセージしましたが、もう一度この箇所から学びたいと思います。このみことばにはとても重要なことが、大切なことが教えられているからです。使徒パウロは「信じる者に働く神の力がどのように偉大なものであるかを知ることができるように」とエペソの教会の人たちのために祈りましたが、その神の全能の力について、今朝、もう一度、そこに焦点を合わせてみたいと思います。
  • 神の全能の力は、イエス・キリストを死者の中からよみがえらせただけでなく、神の右の座に着かせたことによって現わされたことを学びました。「右の座」とは、王に告ぐ栄光の座を意味します。したがって、神の右の座とは、統治において、これ以上ないという至高の栄誉と権威の象徴的表現です。
  • 一般的な意味で「右に出る者がいない」ということばがあります。それは一番すぐれているということです。また、「右腕」ということばも、最も信用し、頼りにしている部下(補佐役)を意味します。

    (1)右または右手は一般的には力、権威を示すものとして旧約聖書に引用されています。特に詩篇に多く、ほとんど王的神的な力、支配を表しています。

    (2)新約聖書においては、主イエスが十字架、復活、昇天の後に、神の右に着座されたと福音書は記述し、イエスご自身も受難前にそう預言しています(マコ14:62,16:19)。ペテロもパウロもこれを重大な事実として証言し(使2:33,Ⅰペテ3:22,エペ1:20‐23)、最初の殉教者ステパノは「神の右に立っておられる」主に励まされました(使7:55‐56)。ヘブル人への手紙の記者もその事実と職分を述べています(ヘブ10:12,12:2)。贖いを成就した主はとりなしという大祭司の職分に加えて、王的な権威を帯びて神の右に着座しておられ、完全に敵を征服するため再びこの世に来られるのです。


1. 神の全能の力としての「イエスの御名」

  • 神は、ご自身の御子イエス・キリストに万物を支配する王としての統治権をお与えになりました。これは「すべての名の上に」キリストを置かれたことを意味します。すべてに勝る名、宇宙における最も高い権威を持った名を与えられたことを意味します。その名は別名、「イエスの御名」という名前です。統治秩序における最高位の称号は「イエスの御名」です。

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  • ちなみに、イエスの御名は力を行使する権威を表すが、小羊イエスは永遠に賛美礼拝されるべき尊称です。
  • 私たちはしばしば祈りの中で、「イエスの御名によって」とか「イエスのお名前によって」と祈りますが、この「イエスの御名」という名前が、いかにすぐれた権威と力をもった名であるかに気がついている人は少ないのです。もし、私たちがこのイエスの御名について無知であり、付け足しのように用いているとするならば、サタンの思惑に支配されているといっても過言ではありません。敵であるサタンはこのことを知られたくないからです。もし知られるなら、自分の敗北が明らかにされるからです。

2. 御座についての教え

  • 今日、教会にとって大切な教えは、十字架の教え(罪の赦し、義認・・)です。それは私たち人間の罪の現実と神の愛の深さを表わすものですが、同時に、もう一つ大切な教えがあります。それは神の全能の力を行使する「イエスの御名」、永遠に賛美と礼拝を受けるべき「御座におられる方と小羊」についての教え、つまり、御座についての教えが必要なのです。近年、賛美の面において、このことが開かれて、御座に関する賛美が多く歌われるようになりました。
  • エペソ人への手紙2章5、6節を見てみましょう。そこにはこうあります。「罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。」
  • キリストもそして私たちもキリストとともによみがえらせられて、ともに天のところにすわらせてくださっているのです。今回、私たちはこの真理について知りたいと願っています。
  • 17世紀、イギリスのバプテスト教会が生んだ有名な説教家、チャールズ・ハンス・スポルジョン(1834~1892年)は次のような体験を語っています。
    • ある日、彼は寝たきりの老婦人の家に呼ばれました。老婦人は栄養失調で今にも死にそうな状態でした。スポルジョンが彼女の家を訪れると、部屋の中には額縁に入れられた一枚の文書が壁に掛けられていました。彼は彼女に「これはあなたのものですか。」と尋ねました。彼女は「そうです。」と答えました。そして彼女はかつて自分がイギリスの貴族の家でメイドとして働いており、その貴族の家の奥様が亡くなられる前に、それを自分にくれたことをスポルジョンに話しました。彼女はなんとその亡くなった夫人に半世紀(50年)近くもの間仕えてきたのでした。そしてその奥様がくれた文書を、彼女は大切に額に入れて、その奥様がなくなられて以来10年もの間、壁にかけてあるのです、と説明しました。
    • スポルジョンは「それを私にお貸し願いませんか。もっと詳しくそれを調べてみたいのです。」字を読むことができなかったその婦人は言いました。「ええ、いいですよ。ただ、必ずそれをお返しください」と。スポルジョンはその筋の権威のところにその文書を持っていって調べてもらいました。それはなんと遺産でした。イギリスの貴族の夫人が長い間仕えてくれたメイドに家とお金を遺していたのでした。老婦人はたった一部屋しかない木の箱のような小さな家に住み、飢えて死にそうになっていたのです。しかしながら、彼女には十分に世話をしてもらって、りっぱな家に住むことのできる遺産が与えられていたのです。そのことを示す文書を彼女は知らずにずっと壁に掛けていたのです。
    • スポルジョンはその遺産が実際に彼女のものとして使えるように手助けをしました。彼女がもっと早くにそのことを知っていれば、得られたであろう益は大きかったはずです。知らないばかりに、みじめな生活をしていたのです。
      
  • この話は、今日のクリスチャンを代弁しているかもしれません。私たちは偉大な遺産を与えられているにもかかわらず、みじめな生活をしているかもしれないのです。キリストによって与えられている遺産の文書をしっかりと読んでいないかもしれません。あるいは読んでいても、目がふさがれていて、理解できないかもしれません。ですからパウロは祈っているのです。「目が開かれるように」と。
  • 信じる者に与えられている神の偉大な力・・それは<イエスの御名>という権威の遺産なのです。使徒の働き3章を開いてみましょう。ペテロとヨハネは午後3時頃、祈るために宮に入ろうとした。そのとき、物乞いをしていた足の不自由な男(40歳)のそばを通りかかろうとしていました。

    3:3 彼は、ペテロとヨハネが宮にはいろうとするのを見て、施しを求めた。
    3:4 ペテロは、ヨハネとともに、その男を見つめて、「私たちを見なさい。」と言った。
    3:5 男は何かもらえると思って、ふたりに目を注いだ。
    3:6 すると、ペテロは、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」と言って、
    3:7 彼の右手を取って立たせた。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、
    3:8 おどり上がってまっすぐに立ち、歩きだした。そして歩いたり、はねたりしながら、神を賛美しつつ、ふたりといっしょに宮にはいって行った。
    3:9 人々はみな、彼が歩きながら、神を賛美しているのを見た。
    3:10 そして、これが、施しを求めるために宮の「美しの門」にすわっていた男だとわかると、この人の身に起こったことに驚き、あきれた。
    3:15 ・・・・神はこのイエスを死者の中からよみがえらせました。私たちはそのことの証人です。
    3:16 そして、このイエスの御名が、その御名を信じる信仰のゆえに、あなたがたがいま見ており知っているこの人を強くしたのです。イエスによって与えられる信仰が、この人を皆さんの目の前で完全なからだにしたのです。

    4:8 そのとき、ペテロは聖霊に満たされて、彼らに言った。「民の指導者たち、ならびに長老の方々。
    4:9 私たちがきょう取り調べられているのが、病人に行なった良いわざについてであり、その人が何によっていやされたか、ということのためであるなら、
    4:10 皆さんも、またイスラエルのすべての人々も、よく知ってください。この人が直って、あなたがたの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけ、神が死者の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの御名によるのです。
    4:11 『あなたがた家を建てる者たちに捨てられた石が、礎の石となった。』というのはこの方のことです。
    4:12 この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。

    4:15 彼らはふたりに議会から退場するように命じ、そして互いに協議した。
    4:16 彼らは言った。「あの人たちをどうしよう。あの人たちによって著しいしるしが行なわれたことは、エルサレムの住民全部に知れ渡っているから、われわれはそれを否定できない。
    4:17 しかし、これ以上民の間に広がらないために、今後だれにもこの名によって語ってはならない
    いと、彼らをきびしく戒めよう。」
    4:18 そこで彼らを呼んで、いっさいイエスの名によって語ったり教えたりしてはならない、と命じた。

    4:29 主よ。いま彼らの脅かしをご覧になり、あなたのしもべたちにみことばを大胆に語らせてください。
    4:30 御手を伸ばしていやしを行なわせ、あなたの聖なるしもべイエスの御名によって、しるしと不思議なわざを行なわせてください。」
    4:31 彼らがこう祈ると、その集まっていた場所が震い動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語りだした。


3. イエスの御名の権威を行使しよう

  • このように、私たちは十字架の教えだけでなく、御座の教えが必要です。十字架の教えのみならず、<御座>についての教えを私たちは必要としています。救われるためには十字架のもとに行かなければなりませんが、しかしそこにとどまっていてはいけません。御座にまで行かなければなりません。というのは、私たちはキリストとともに死に、キリストとともによみがえり、天上においてキリストとともに権威の立場に座しているからです。「イエスの御名」という力ある権威を行使することができるからです。
  • 多くのクリスチャンが、「信じる者の権威」について知っていないように思います。私たちがキリストとともに天に上げられたということは、私たちがともに御座に着いたということであり、御座を分かち与えられただけではなく、その権威にもともにあずかったのです。その権威は私たちのものでもあります。
  • 私たちはキリストにより、私たちの敵に対して王としての権威を行使して勝利することができるのです。この真理に対する霊的理解をもつことが必要なのである。
  • 「わたしには天においても、地においても一切の権威が与えられています。」(マタイ28:18)と言われたイエスはこうも言われました。「確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。」(ルカ10:19) と。
  • またこうも言われました。それゆえ、イエスは「あなたがたがわたしの名によってなにかを求めるなら、わたしはそれをしましょう。」(ヨハネ14:13~14)と約束されました。「わたしの名」、つまり「イエスの名」によって求めることは、私たちが手ぶらで求める以上に効果があるからです。否、イエスの名によって求めることなしには、父に祈りが届くことができないのです。
  • 「まことにまことにあなたがたに告げます。あなたがたが父に求めることは何でも父はわたしの名によってそれをあなたがたにお与えになります。あなたがたは今まで何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。」(ヨハネ16章23~24節)と。
  • ここでは、「あなたの権利や特権として『イエスの名によって』あなたが要求することはなんでも・・」と読むことができます。ですから、私たちは自分に与えられている権利が何であるかを学ばなければなりません。
  • コロサイ書3章17節では、「あなたがたのすることは、ことばによると行ないによるとを問わず、すべて主イエスの名によってなし、主によって父なる神に感謝しなさい。」とあります。
  • 何をするにも、言葉と行いとを問わず、イエスの御名によってしなさいと勧められています。毎日です。初代教会では、人々はすべてのことを「イエスの御名」によってなすように教えられていました。すべて彼らのすることは、「イエスの御名」によってしたのです。彼らはどこへ行っても「イエスの御名」を意識していました。このことが大切なのです。イエスは言われました。「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができません。」と
  • サタンはこの御名が語られるのを恐れています。ペテロとヨハネを監禁した当局は彼らを脅かしてこう言いました。「今後、だれにもこの名によって語ってはならないと、彼らを厳しく戒めよう。」そこで彼らを呼んで、「いっさいイエスの御名によって語ったり、教えたりしてはならない。」と命じた(使徒4:17、18)
  • どんなに戒められても、イエスの御名を私たちの口を通して語らなければなりません。やめてはなりません。これは単なる呪文ではないからです。この御名の背後にある権威と力が、この世を支配するサタンよりも力があるからです。サタンとその手下は、この「イエスの御名」が語られるとき、それに従わなければならないからです。ですから、この御名を語ることを妨げようとするのです。目をふさごうとするのです。
  • 何をするにも、「食べるときも飲むときも」つまり日常茶飯事の事柄においても、仕事をするときも、奉仕をするにも、相談するときにも、賛美と感謝をするときにも、そして特に、とりなしの祈りをするときにはこの御名で命令するのです。嘆願だけではなく、御名によって命じるのです。そうした祈りを私たちの生活の中に取り入れるようにしましょう。そうできるように祈りましょう。そうすることによって、堅く閉じられた門は開かれはじめるのです。そのことを信じましょう。そして執拗に祈りましょう。

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