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心の包皮を切り捨てる

【補完4】 心の包皮を切り捨てる


【聖書箇所】申命記 10章12~16節

ベレーシート

  • ここでは、申命記10章16節にある「心の包皮を切り捨てなさい。もううなじのこわい者であってはならない。」のみことばを味わいます。「切り捨てる」と訳された動詞は「割礼を受ける、割礼を施す」という意味の「ムール」(מוּל)です。初出箇所は創世記17章10節です。
  • 10章16節の「心の包皮を切り捨てる」と似た表現が申命記30章6節にあります。そこでは「心を包む皮を切り捨てて」と訳されていますが、意味としては全く同じです。

1. 「心の包皮を切り捨てる」の同義的表現

(1) 【新改訳改訂第3版】申命記10章16節
あなたがたは、心の包皮を切り捨てなさい。もううなじのこわい者であってはならない。

●ここでは「心の包皮」と「うなじのこわい」こととは同義です。


(2) 【新改訳改訂第3版】申命記30章6節
あなたの神、【主】は、あなたの心と、あなたの子孫の心を包む皮を切り捨てて、あなたが心を尽くし、精神を尽くし、あなたの神、【主】を愛し、それであなたが生きるようにされる。

●ここでは、「心を包む皮を切り捨てる」ことと、「心を尽くし、精神を尽くし、主を愛し」とは同義です。


(3) 【新改訳改訂第3版】エレミヤ書 4章4節
ユダの人とエルサレムの住民よ。【主】のために割礼を受け、心の包皮を取り除け。・・・」

●ここでは「主のために割礼を受ける」ことと、「包皮を取り除くこと」とは同義です。


2. 「心を包む皮を切り捨てる」ことは、神がしてくださるという預言

【新改訳改訂第3版】申命記30章6節
あなたの神、【主】は、あなたの心と、あなたの子孫の心を包む皮を切り捨てて、あなたが心を尽くし、精神を尽くし、あなたの神、【主】を愛し、それであなたが生きるようにされる

【新共同訳】申命記30章6節
あなたの神、主はあなたとあなたの子孫の心に割礼を施し、心を尽くし、魂を尽くして、あなたの神、主を愛して命を得ることができるようにしてくださる


  • この箇所で重要なことは、「心を包む皮を切り捨てる」(心の包皮を切り捨てる)ことと、「心を尽くし、精神を尽くし、あなたの神、【主】を愛し、それであなたが生きるようになる」ことが同義的パラレリズムとなっているだけでなく、神である主がそのことを実現してくださるという、いわば預言として語られているということです。
  • 「心の包皮を取り除く」ことは私たち人間の努力では実現できないということを、申命記がすでに語っているのです。この表現を、初代教会の最初の殉教者となったステパノが当時のユダヤ当局の人々に対して使っています。

【新改訳改訂第3版】使徒の働き7章51節
かたくなで、心と耳とに割礼を受けていない人たち。あなたがたは、父祖たちと同様に、いつも聖霊に逆らっているのです。


●ここでは「(心の)かたくな」な状態が、「心と耳とに割礼を受けていない」者に言い換えられ、さらに、「聖霊に逆らうこと」だとも言い換えられています。ここでいう「心」(「レーヴ」לֵב)のヘブル的意味は、理性・知性、および意志の座を意味します。ちなみに、感情の座は「思い」と訳される「ネフェシュ」(נֶפֶשׁ)という言葉が使われます。「心を尽くし、思い(精神)を尽くし」とはそのような意味を持っています。また、「耳に割礼を受ける」とは、神のことばを正しく理解して「聞き従う」ことを意味していますが、ユダヤ人として生後八日目に割礼を受けた者であっても、「心と耳とに割礼を受けていない人」のことを、かたくなな者(うなじのこわい者)、「聖霊に逆らう者」だとしています。

●もっとも新約聖書においては、キリストの福音がユダヤ人から異邦人へと移行して行きますが、その場合、割礼を施さなくても、キリストを信じることで、人の手によらない割礼を受けることができるのです。なぜなら、神は無割礼の者であっても、信仰のゆえに義と認めて受け入れてくださるからです。そもそもアブラハムは無割礼のままで信仰によって義とされています。使徒パウロは、そうした事実から、信仰によって義とされた者こそ心の割礼を受けた者だとしています。さらに、割礼があっても、なくても、それは問題ではなく、むしろ大事なのは、割礼が意味する「神の命令を守ること」にあるとしています(Ⅰコリント7:19)。

●イスラエルの民の第二世代は、まだ割礼を受けていませんでした。モーセの従者であったヨシュアが、ヨルダン川を渡って約束の地(カナン)に入り、ギルガルにある「ギブアテ・ハアラロテ」(=「包皮の丘」)で割礼を施しました(ヨシュア記5:3)。そのことは、申命記10章12節に記されているように、「神が求めておられること」を自覚するためです。繰り返しますが、「神が求めておられること」とは以下のことでした。

【新改訳改訂第3版】申命記10章12~13節
12 イスラエルよ。今、あなたの神、【主】が、あなたに求めておられることは何か。それは、ただ、あなたの神、【主】を恐れ、主のすべての道に歩み、主を愛し、心を尽くし、精神を尽くしてあなたの神、【主】に仕え、
13 あなたのしあわせのために、私が、きょう、あなたに命じる【主】の命令と主のおきてとを守ることである。

●上記にある「主を恐れ、主の道に歩み、主を愛し、主に仕え、主の命令とおきてとを守る」ということです。この神の要求は、やがて神の御霊によってはじめて実現することができます。ここでの契約(古い契約)では、要求はされますが、それを実現する助けはまだ与えられていません。しかし新しい契約では、神の要求を実現させる助け主である御霊が神の賜物として与えられることを通して、初めて実行する力が与えられるのです。申命記10章では、神が求めておられることが告げられますが、それを神が実現してくださることについては触れられていません。申命記30章ではそれを神が実現させるという預言が語られているのです。


3. 使徒パウロによる「割礼」の解釈とその実現方法

  • 使徒パウロはⅡコリント3章でそのことについて、以下のように解釈しています。

【新改訳改訂第3版】Ⅱコリント書3章6~9節、14~18節
6 神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格を下さいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者です。文字は殺し、御霊は生かすからです。
7 もし石に刻まれた文字による、死の務めにも栄光があって、モーセの顔の、やがて消え去る栄光のゆえにさえ、イスラエルの人々がモーセの顔を見つめることができなかったほどだとすれば、
8 まして、御霊の務めには、どれほどの栄光があることでしょう。
9 罪に定める務めに栄光があるのなら、義とする務めには、なおさら、栄光があふれるのです。

14 しかし、イスラエルの人々の思いは鈍くなったのです。というのは、今日に至るまで、古い契約が朗読されるときに、同じおおいが掛けられたままで、取りのけられてはいません。なぜなら、それはキリストによって取り除かれるものだからです。
15 かえって、今日まで、モーセの書が朗読されるときはいつでも、彼らの心にはおおいが掛かっているのです。
16 しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。
17 主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。
18 私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。


●特に、16節の「人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。」というみことばには、出エジプト記34章のある出来事が背景となっています。

●「おおい」(覆い)と訳されたギリシア語は「カリュッマ」(κάλυμμα)で新約では4回(Ⅱコリント3:13, 14,15,16)使われていますが、旧約では「マスヴェ」(מַסְוֶה)で、3回(出エジプト34:33, 34, 35)使われています。

【新改訳改訂第3版】出エジプト記34章33~35節
33 モーセは彼らと語り終えたとき、顔におおいを掛けた。
34 モーセが【主】の前に入って行って主と話すときには、いつも、外に出るときまで、おおいをはずしていた。そして出て来ると、命じられたことをイスラエル人に告げた。
35 イスラエル人はモーセの顔を見た。まことに、モーセの顔のはだは光を放った。モーセは、主と話すために入って行くまで、自分の顔におおいを掛けていた。

●モーセは神の前に立つ時、ないし神の名によって民に語る時を除いては、おおいを使って自分の顔の光をおおいました。再び、モーセが主の前に歩み出る時にはおおいをはずしました。そのように、イスラエルの民も神の方に顔が向き直る時、彼らの心のおおいは取り去られるであろうという意味で、パウロは「人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです」と語っているのです。


  • 旧約におけるイスラエルの民は、神が民に要求する律法を与えられましたが、それを実現させる御霊が与えられていないために、おおいがかかった状態でした。しかし今や、主であるキリストによってそのおおいが取り除かれたのです。それは人が主に向くときに実現します。「主は御霊です」とあるように、人が主に向くときに、主の御霊がおおいを取り除いて、主の栄光を反映させることが可能となるのです。神が求めている要求は、すべて御霊の働きによって可能となるのです。その働きが全開の状態になるのは、キリストがこの地上に王として再臨されるときです。それはメシア王国の到来です。そこで、神の民は新しいからだを与えられて、神の要求に十全に答えることができるのですが、それは今日においてもすでに始まっているのです。神の求めておられることを正しく理解するだけでなく、その要求にかなう者としてくださる御霊の助けを求める時、御霊が私たちを神のみこころにかなう栄光の姿へと日々変えてくださるのです。そのことを私たちは信じなければなりません。
  • 心の包皮を切り捨てることは、人の手によらない(御霊による)割礼を受けることなのです。そのことによって、「心を尽くし、思いを尽くして、神である主を愛することができる」ようになるのです。その意味において、私たちは「御国が来ますように」と祈りたいものです。

2017.9.15


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