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必要不可欠な霊的な糧を求め続けること

38.  必要不可欠な霊的な糧を求め続けること

【聖書箇所】 11章1節~13節

はじめに

  • ルカの福音書11章1節から13節までの箇所には、主が弟子たちに教えた祈り(主の祈り)とそれに伴う「ひとつのたとえ話」から、天の父は求め続ける者たちに「良いもの」、すなわち、「聖霊」を与えて下さると教えています。この箇所(11:1~13)一つのまとまりとして考えるとき、そこにはひとつの主題が見えてきます。しかも、それはこれまでのコンテテキストにある主題と連動しているのです。
  • 10章17節~11章13節には、4つのピクチャーがあります。一見、バラバラに思えるそれぞれのピクチャーが実はひとつの主題でつながっているのです。
画像の説明

(1) Picture A (10:17~24)
派遣された弟子たちの宣教報告に対してイエスが語ったことばです。つまり、「悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」

(2) Picture B (10:25~37)
ある律法の専門家とイエスの問答とサマリヤ人のたとえ話。

(3) Picture C (10:38~42)
マルチとマリヤのイエスに対する歓迎の仕方。

(4) Picture D (11:1~13)
主が弟子たちに教えた祈りとたとえ話

  • 聖霊によって記された聖書は意味もなく並べられているのではありません。置かれているそのコンテキスト(文脈)の中にひとつのメッセージが秘められています。たとえば、「サマリヤ人のたとえ」話だけを取り出してしまうならば、イエスの「あなたも行って同じようにせよ」ということばに反応し、そのようにすべきだと思い込んで実行しようとします。しかし、それではここでのイエスが言わんとした本筋から離れてしまいます。つまり、律法の専門家と同じ者になってしまうのです。イエスが言った「あなたも行って同じようにせよ」とは律法の限界を教えようとするイエスのやり方です。つまり、イエスは律法の専門家たちのこれまでの理解の枠組み、パラダイムのシフト(物事の見方、考え方を転換するという意味)させようとして語ったひとつのことばだったのです。
  • ヨハネの福音書6:39ではイエスが自分を迫害しようとしているユダヤ人に対してこう言いました。「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません」と。ルカ10章の律法の専門家も永遠のいのちを求めていますが、なにをしたらそれを自分のもとして受けるかという発想しかありません。真の意味でイエスのもとに行こうとしていないのです。そうした理解の型紙を破るために語ったことばが「あなたも行って、同じようにしなさい」でした。つまりイエスは彼にサマリヤ人の行為の背後にある「かわいそうに思う」という動機に目を向けさせようとされたのです。この「かわいそうに思う」という「スプラグニゾマイ」はイエスにしか使われていない語彙なのです。「あなたも行って同じようにしなさい}とは、律法の専門家のパラダイムをシフトさせようとするイエスのことばだったのです。
  • それゆえ、前後の文脈からこの4つピクチャーを読み解く必要があります。結論を言うならば、それぞれのピクチャーに共通している主題は「かかわりとしてのいのちの本源」なのです。

1. 祈りを自分の生活のスタイルとしていたイエス

【新改訳】11:1
さて、イエスはある所で祈っておられた。その祈りが終わると、弟子のひとりが、イエスに言った。「主よ。・・・私たちにも祈りを教えてください。

【岩波訳】11:1
また、彼がある場所で祈っていた際のことである。彼が祈りを中断した時、その弟子のある者が、彼に対して言った。「主よ。私たちに祈るすべを教えてください。・・」

  • 上記のふたつの訳を比較すると微妙にニュアンスが違っています。新改訳のようにイエスの祈りが「終わると」という部分が、岩波訳では「中断した時」と訳しています。前者は「祈りの時」が終わったことを意味しますが、後者の方は「祈り」は続いていますが、一時的に中断したその隙をねらってひとりの弟子が祈りについて教えて欲しいと割り込んだかたちのように訳しています。この違いはどこから来るのでしょうか。それは、「終わる」、「中断した」と訳された動詞「パウオー」παυωがアオリストの中態であるからです。
  • 中態とは、能動態と受動態の中間にある態というギリシャ語特有の表現法です。「これの意味を正確に伝える英語も日本語もないので、ギリシヤ語になじんで、その意味を肌で感じ取ることができるようにしなければならない」と言われるほどに難しい微妙な表現法のようです。しかし、新約聖書の著者たちはこの違いを明確に知り、使いこなしていたということを忘れてはならないのです。あるギリシャ語文法書によれば、中態は、「行動そのものより行動の主体を強調し、主語に特別な関心を向けさせる」とあります。その意味合いでルカ11章に見るならば、祈っていたイエス、祈りを終えたか、中断したか、そのいずれにしてもそうしていたイエスに関心が向くことになります。つまり、祈りに専心しているイエスとその生き方に目を向けさせようとしていることになります。
  • イエスはいつも一人になって祈っていたわけですから、弟子としていつでも容易に近づいてお願いできる雰囲気ではなかったと思われます。イエスの祈りは「・・してください」式の祈りではなく、御父との深い交わりの中に常に身を置いておられました。「祈っておられた」は現在形です。ですから、常に継続的で、いつ終わるともしれない祈りの生活だったのです。それがなんらかの理由で、祈りの時を自ら一時中断されたときに、すかさず、弟子のひとりが弟子たちを代表するかのように「祈ることを教えてください」と願ったと思われます。おそらく弟子たちの目には、イエスの知恵や力の背後に、自分たちの知り得ない祈りがあることを感じていたのではないかと思われます。自分たちもそれをぜひ身につけたいと願っていたと思われます。

2. 「たとえ」が指し示していること

  • イエスが弟子の願いで教えられた「主の祈り」と言われる祈りが記されています。おそらくこの祈りはただ単にこのことばを繰り返していればよいという意味ではなく、祈りの概要といえるものであったと思われます。そしてイエスはその祈りの中のある一部を取り上げて、たとえを語られました。その一部とは、11章3節にある「私たちの日ごとの糧を毎日お与えください」という祈りについて教えようとされたのだと思います。しかもこの祈りはイエス自身が生きておられた祈りなのです。
  • 「日ごとの糧」と訳されたギリシャ語は「糧」は「アルトス」、つまり「パン」のことです。「日ごと」は、「エピウーシウス」έπιούσιοςで、マタイの「主の祈り」とここの箇所でのみ使われている語彙で、「明日の、将来の、必要欠くべからざる」と訳されていますが、定説はないとされる難しい語彙のようです。しかしいずれにしても、常になくてはならない不可欠という意味で受けとめるならば、それは霊的な糧ということになります。
  • 主が教えられた祈りの「日ごとの糧」が、私たちが口にする食物とは考えられません。なぜなら、イエスが「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出るひとつひとつのことばによる」と語り、それを生きておられた方だからです。また、神の国とその義を第一に求めるならば、食べ物などはすべて付録として与えられると語っているからです。ですから、ここの「日ごとの糧」とは「霊的な糧」を意味すると考えることが重要です。つまり、天からのパンです。イエスは御父の交わりにおいて、日々霊的な糧をいただかなければ、生きることも、また使命も果たすことはできなかったということを意味しています。
  • 自分のところに夜訪ねて来た友人のために、パンを三つ借りるために、すでに寝ている別の友人のところへ行って執拗に願ったのは、そのパンが必要不可欠的なものであったからです。単にお腹が空いているからという肉体的な必要という意味ではなかったと考えます。ちなみに、「パンを三つ」という「三」という数は、当時においては、一日を生きるのに必要な分と考えられていたようです。
  • このたとえが指し示す重要なことは、必要不可欠の霊的な糧は、執拗に求めることなしには与えられないということを意味しています。友人という関係だから好意的に与えられるということではなく、あくまでも執拗に求めなければ得られないということを示しています。
  • 8節の「あくまでも頼み続ける」と訳された「アナイデイア」άναίδειαは、「厚かましさ、無恥、厚顔、図々しく、恥も外聞もなく」といった意味で、それほどに執拗であったがゆえに願いが聞かれたということが強調されています。それゆえ、この「たとえ話」の後に、イエスは「求めなさい(厳密には、「求め続けなさい」)。そうすれば、(必ず)与えられますと約束しています。捜し続ける、たたき続ける、そうするなら、必ず、与えられるのです。しかも、それによって得るものは最も良いもの、すなわち、「聖霊」を父は与えて下さると語っています。「聖霊」が与えられ、関与されることで、私たちに最も必要な霊的な糧が得られるからです。「聖霊が与えられること」と、「必要不可欠な霊的な糧が与えられること」とは同義なのです。
  • 「霊的な糧」とは、神とのかかわりを豊かにし、揺るがないものとして成長するためには、欠かすことのできないものです。しかもそれは求め続けなくては与えられないために、イエスは弟子たちに「日ごとの糧を、日々お与えください」と祈るように教えられたのです。そしてそれはイエスご自身が祈っておられた祈りだったのです。その真価は次の11:14以降にある「神の指(聖霊)によってなされる真の解放(悪霊追放)」と「偽りの一時的な悪霊追放」との違いの話に展開していきます。

むすび

  • 私たちは「日ごとの糧を日々(毎日)与えてください」と祈るほどにその必要性を感じているかが問題です。私たちの霊性のすべての問題は、その必要性を強く意識して求め続けているかどうかの一点に絞られてくるのではないかと思います。マリヤに対するイエスの評価は、「どうしても必要なものはひとつだけです。マリヤはそれを自ら選び取ったのであり、それは取り上げられてはならない大切な事柄なのだ」としています。マリアのように、本当に必要不可欠なものを私たちも選びとることができる者となりたいものです。そうすれば、「目からウロコ」はダイアリーな経験となるのです。しかしそれさえも大海の中の一滴ほどにすぎないのです。

2012.1.12


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