****** 教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

思いやる大祭司イエス

第10日「思いやる大祭司イエス」 

「あわれみ、同情、思いやる」かかわり

はじめに

4:15
私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。(同情できる方)
5:02
彼は、自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な迷っている人々を思いやることができるのです。(思いやることのできる方)

  • 私は日々、神の子どもとしていかに生きるべきか絶えず模索しています。果たしてこれで良いのかという問いがいつもあります。迷うときがあります。迷いがないときが、むしろ危ない時なのかもしれません。自分が無知であることに気づかずに、ひたすら誤った確信をもって歩んでいるかもしれないのです。神を見ているようで、実は見えていない。神を知っているようで、実は知っていない。特に、牧師というある意味で教えたり、指導したりする立場にいる者にとっては、そうした危険をいつも持っているように思います。ひょっとしたら、自分は大切なことにまだ気づいていないのではないか・・、そんな恐れを持つことがしばしばあります。
  • 牧師でなくても、指導的な立場にある親、教師といった何かを教えて導く立場にいる者は、そんな恐れを持つことがないでしょうか。「果たして、これでいいのか」と。そんなとき、今朝のことばは慰めとなります。「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。彼は、自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な迷っている人々を思いやることができるのです。」

1. 大祭司としての務め

(1) 「思いやる」という務め

  • そのためのヒントとなるキーワードをあげてみたいと思います。それは、「同情」「思いやる」というかかわりです。ここには何かを教えるというかかわりはありません。黙って、寄り添う、共にいる、相手の言うことに「そう」とうなずいてあげるそんなかかわりの姿があります。私たちの大祭司は今もそうしたかかわりを私たちにしようとしているのです。このことの大切さに気づかされました。このことをどれだけ大切に受け止めていただろうかと思うとき、なかなかそんな自分ではなかったことに気づかされます。

    新改訳
    4:15 私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。
    5:2 彼は、自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な迷っている人々を思いやるができるのです。 


    口語訳では、4:15「この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。」と訳しています。そして5:2でも「思いやる」と訳しています。原語は異なっていますが、同じ言葉で訳しています。

    ① 4:15の「同情」と訳された「スンパセオー」(συμπαθέω)の不定詞。同じ経験を共有することで、同じ感情を持つこと、思いやるという意味。
    ②5:2の「思いやる」と訳された「メトリオパセオー」(μετριοπαθέω)の不定詞。感情を抑制して傷つけら
    れたり、無礼を被ったりしたときにも、怒りを爆発させないようにすること。感情を和らげること。

    NKJVでは、「思いやる」と日本語で訳された言葉を「コンパッション」(compassion)と訳しています。「コンパッション」は「あわれみ」という意味です。
      

  • ヘブル書2章17節の「あわれみ」、4章15節の「同情」、5章2節の「思いやる」・・言葉は違いますが、この三つはみな、人との「かかわり」に関する言葉です。天にある神の右の座におられる私たちの大祭司は、実は、この「あわれみ」「同情」そして「思いやる」働きを常にしておられるのです。
  • しかも、この大祭司としての務めの働きを私たちにもゆだねようとしておられるのですから、そうだとするならば、この務めについてもっと注意を、しかも日常的に払わなければならないのではないでしょうか。この務めに私たちはどれほど意識をもっているかが問われます。
  • ちなみに、「思いやる」と訳されたギリシア語「メトリオパセオー」は、新約聖書でこの箇所にしか使われていない言葉です。新約聖書でここ1回しか使われていない言葉です。だからと言って重要ではないということでは決してありません。このヘブル書全体のキーワードは「イエスを仰ぎ見る」ですが、この「仰ぎ見る」という「アフォラオー」という言葉も、実はへブル書では1回しか出てこないのですが、へブル書においては最も重要な言葉なのです。
  • 思いやる」ということについてどのように理解すべきか。いろいろと考えてみました。詩篇41篇1節にはこうあります。

    「いかに幸いなことでしょう/弱いものに思いやりのある人は。」 (新共同訳)
    「幸いなことよ。弱っている者に心を配る人は。」(新改訳)
    「貧しい者をかえりみる人はさいわいである。」(口語訳)

  • 「思いやりのある人」のことを、別訳では「心を配る人」「顧みる人」と訳していますが、ヘブル語では「マスキール」(מַשְׂכִּיל)です。英語では、Blessed is he who considers the poor. (NKJV) considerは、一般には「良く考える、熟考する」という意味ですが、「注意を払う、気に掛ける、尊重する」という意味もあります。つまり、弱っている者、貧しい者に対して、注意を払い、気をかけ、尊重する人は、「賢くある者」(「マスキール」מַשְׂכִּיל)だという意味です。
  • では、どのような態度で、「注意を払い」「気にかけ」たら良いのでしょうか。詩篇の世界では、神の人に対するかかわりのひとつの特徴として、「沈黙」というのがあります。神の沈黙、神はなにも答えない、答えをくださらない。では神は不在かというと決してそうではなく、むしろしっかりとそばに寄り添っておられる。でもなにも言わない、教えない、沈黙していることがあります。ただじっと耳を傾けてくださっているだけ。もちろん、神は語られる神ですが、嘆きの詩篇などを読むと、神はしばしば沈黙しておられることが多いということが分かります。
  • ダビデは若くして、預言者サムエルを通してイスラエルの王となるべく任職の油を注がれました。しかしそれからダビデの苦悩は始まりました。自分の罪のゆえではなく、サウル王の嫉妬による執拗な殺意によって、ダビデは10余年の間、放浪を余儀なくされました。「どうして」「なぜ」「なにゆえ」という昼も夜も重くのしかかる問い、それは、長引く苦難の中で、神が遠くに感じられるような日々の中で、どんな状況の中においても、神を信頼するかどうかのテストでした。
  • ダビデの思いとは裏腹に、神の沈黙、神の不在の経験を通して、いつしか「貧しい者」「みなしご」「しいたげられた者」と連帯していきます。ダビデが荒野の放浪を余儀なくされたとき、当時の社会では生きられなくなった者たちがダビデのもとに集まってきました(Ⅰサムエル22:2)。ダビデは彼らと寝食を共にしながら、不条理と思える逃亡生活を10年余り続けました。ところが、やがてダビデがイスラエルの王として立てられたとき、彼らはダビデの身辺を守る命知らずの親衛隊となったのです。だれがこんなことを考えることができたでしょう。信頼の絆は、私たちの思いを越えたところで培われていきます。
  • 沈黙、イコール無視ではありません。もっとも近くにおられて、私たちに大切なことを自ら気づかせていくことで、解決の糸口を見出させていくという方法です。これが神の人に対するかかわり方です。神の沈黙、神の不在経験を多く通ることで、私たちが思い描いている信仰の幻想は打ち砕かれて、目には見えずとも、より確かな神の臨在を感じるようになるのです。これこそ神の不在経験の隠された意義です。つまり、神の不在経験は神とのかかわりをより深化させるための神の配剤なのです。
  • もし、こうした神の人に対するかかわりを、人間が神に代わってそのかかわりを担うとすれば、どういうことになるでしょうか。どういう形になるのでしょうか。おそらく、それは「聞く」ということではないかと思います。

(2) 思いやることは、聞くこと

  • 「聞く」こと-「親身になって聞く」、「自分の経験や考えや思いをかっこに入れて相手の言うことを聞く」、「心をこめて聞く」、「心の深みを聞く」「言葉にならない沈黙のことばを聞く」・・・これがヘブル書の5章2節の「メトリオパセオー」という「思いやる」という言葉の意味ではないかと私は思います。「落ち込んでいる人の心の奥にあるもの」「悲しみのかげにあるもの」「怒りの内側にあるもの」「恨みの奥にあるもの」を聞く・・これが「思いやり」だと仮定しましょう。だとすれば、この「思いやる」という務めは、とてもとても、そう簡単な務めではないことに気づきます。むしろこんな務めを自分からしたいとはだれも思わないでしょう。
  • なぜなら、むしろ多くの人は自分のことを聞いてくれる「耳」を求めているからです。自分が「耳」になること、それは決して容易でないことが分かる人は幸いです。人間の限界をよく知っているからです。
  • 私は以前、 開拓伝道をはじめて3年くらいたった頃、伝道の働きのために、電話帳にある「占いの欄」に人生相談のような広告を載せたことがあります。多くの人が、悩みや人生相談を「占い師」にするということを聞いたことがあって、占い師に相談するよりも、イエス・キリストにあって解決の光を見出してほしいと思ったからです。この広告を見て、何人かの人から電話がありました。結果としては、この広告は一年限りで、このやり方は続けられませんでした。なぜ、続けられなかったかといえば、私が黙って聞くことができなかったからです。自分が一番できないことをやろうとしていたわけです。
  • 相手の問題点となっているのがどこかを突き止め、それに的確に解答を与えることが必ずしも良いことではないのです。むしろ、共に寄り添い、神の光を見出せるように忍耐強くかかわること、これが「思いやり」です。これまでの教会のミニストリーとは、何とかけはなれた務めであったことかと思います。
  • 「語ることと、聞くこと」―この両輪の務めをどのように正しく受け止めていくことができるか、それが教会がこの世でなさなければならないことです。しかしなんとその務めはしんどい務めであるかと思わせられます。
  • 神の良いおとずれである福音を伝えなければならないという意気込みが強いと、語って伝えようとする意気込みが、かえって逆に伝わらない障害となっているのです。どこかで、その意気込みが砕かれなければならないかもしれません。自分の中にある、伝えなければというへんな焦り、語るためにこそ自分はいまここにいると言ったへんな意気込みに一旦死ななければ、「聞く」という「思いやり」の務めは果たすことができないのかも知れません。しかもこの「思いやり」の務めが必ずしも実を結ぶという保証はありません。「聞いて終わり」ということもあるかもしれません。
  • 「思いやる」務め、それは「聞く」という務めです。偉大な大祭司であるイエス様は「無知で、迷っている人々(私たち)」を「思いやる」務めをしておられます。「無知で、迷っている者たち」の話す中身は楽しくなるようなものではありせん。聞きたくないものも聞かなければなりません。聞くことによって、聞く側の者の心がおかしくなってくることもあるのです。かかわる相手の悪い霊を受けて、倒れてしまうこともあるのです。それなら何もかかわらないのが無難です。そのほうが賢いかもしれません。しかし、それなら、この世には耳がなくなって、口ばかりが多くなってしまいます。だれが耳の役割を引き受けるのでしょうか。

2. 神から委任された務め

  • その意味では、私たちの大祭司イエス様は、偉大な牧会者です。「無知で、迷っている私たち」の悩みや願いを、しかも的外れな言い分を聞くという務めをしておられます。相手が上からの正しい光を見出すまで、忍耐強く、聞いておられるのです。沈黙しているように見えますが、私たちが思う以上に聞いておられるのです。このような務めは、神によって与えられなければ、できないということが、へブル人への手紙では長々と解説されているわけですが、いずれにしても、神によって任命されるということが重要です。
  • 使徒パウロもその一人でした。彼はいろいろなところに(特に異邦人に対して)福音を宣べ伝えて、そこに教会を建て上げていった開拓者ですが、その牧会の労苦と心痛は並大抵のものではありませんでした。特に、コリントの教会の牧会は大変な苦しみを伴うものでした。その彼が手紙の中でもらした一言はこうです。「このようなつとめにふさわしい者は、いったい誰でしょう。」(Ⅱコリント2:16) 柳生訳では「このような重大な使命を果たしうる人間が、ひとりでもいるだろうか。(いや、ひとりもいないという反語)」と訳されていますが、パウロ自身が、牧会者としての自信を完全に失っていたことをうかがわせる一言です。それでも彼が、人々を「思いやる」働きから身を引かなかったのは、神からその務めが与えられていたからです。神からの召しが彼をしてこの務めから退くことなく、立たせました。神からの召しがなければだれも「思いやる」という務めはできません。
  • 今朝は、大祭司であるイエスの務め、「あわれみ、同情、そして、思いやる」ことについてお話ししましたが、キリストにある教会が、今日、この世において果たすべきかかわりについて、その姿勢や方向について、もう一度、私たちは再度吟味し直し、神さまによって気づかせていただきながら新しい一歩を踏み出していきたいと思います。


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