恩寵用語Ps146
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詩146篇 「目をあける」פָּקַח パーカハ
8節「主は盲人の目をあけ、主はかがんでいる者を起こされる。」(新改訳)
8節「ヤーウェは目しいた者の眼を開き、」(関根訳)
Keyword;「目をあける」 詩篇では146篇8節のみ、open, gives sight
- 神の統治とはいかなるものか、それが7節以降に記されています。そのうちのひとつ、「目をあける」という主の恩寵に注目したいと思います。
- 「目をあける」と訳された「パーカハ」(פָּקַח)は、旧約で21回、詩篇では1回のみです。回数は1回でも、神の救いの恩寵においてはきわめて重要な動詞です。この動詞が初めて登場するのは創世記3章です。
「あなたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」(3:5)。
「このようにしてふたりの目は開かれ、そこで彼らは自分たちが裸であることを知った。」(3:7)
- 罪の結果として開かれた目は、霊的には「盲目」となったということを意味します。サタンによって人は、生まれながらにして「盲目」なのです。その「盲目」となった目を再びあけることは、神によってしかできません。
- 旧約では、エリシャの時代に馬と戦車の軍隊がある町を包囲したとき、それを見た若者は恐れました。するとエリシャは彼に「恐れるな。私たちと共にいる者は、彼らと共にいる者たちよりも多いのだから。」と言います。そしてエリシャは主に祈ります。「どうぞ、彼の目を開いて見えるようにしてください。」すると、その若者はなんと火の馬と戦車がエリシャを取り巻いているのを見ました。主なる神は人を盲目にすることも、開眼させることもできるのです。
- イスラエルの回復の預言をしている有名なイザヤ書35章には「神は来て、あなたがたを救われる。その時、盲人の目は開かれ・・」とあります。これはメシアによってのみ実現される神の祝福です。そして、イエス・キリストが来られて、生まれつきの盲人の目が開かれました。ヨハネの福音書9章にその出来事が記されています。そこでイエス・キリストはこう言われました。「わたしはさばきのために来ました。それは、目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」(ヨハネ9:39)
- 「わたしに何をして欲しいのか」と尋ねるイエスに、盲人バルテマイが「主よ。目が開かれることです」と言ったように、私たちもそのように祈りたいものです。この御わざはメシアなるイエスの独占行為なのです。
- 類義語に、目を「開いて」と訳された「ガーラー」(גָּלָה)があります。旧約で189回も使われていますが、詩篇ではわずか4回です。「覆いを取り払う、明らかにする、啓示する、隠れていたものが現われる、裸になる」という意味です。18:15/98:2/119:18, 22参照。特に、119:篇18節の「私の目を開いてください。私が、あなたのみおしえのうちにある奇しいことに目を留めるようにしてください。」は重要です。