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恩寵用語Ps17

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詩17篇 「ひとみのように」כְּאִישׁוֹן ケイション

8節「わたしをひとみのように守り、・・」(新改訳)
8節「私をお護り下さい。瞳―目の娘―のように。」(岩波訳・・直訳)

Keyword; 「瞳のように」 as the apple of your eye, 17:8

  • 「ひとみのように」と訳されたケイション(כְּאִישׁוֹן)は、動詞ではなく、名詞のイション(אִישׁוֹן)に前置詞のケ(כְּ)「・・のように、as」が頭についた言葉です。ケイション(כְּאִישׁוֹן)は};旧約で4回、詩篇では1回しか使われていない珍しい語彙です。
  • 日本には「目の中に入れても痛くない」という慣用句がありますが、それは自分の子どもや孫がとても愛らしくてかわいくてたまらない思いを表しています。そのように、「ひとみー(瞳)」はとても大切なものを表わすたとえです。
  • モーセの訣別説教が記された申命記にはイスラエルの民に対する神の思いが次のように語られています。「主は荒野で、獣のほえる荒野で彼を見つけ、これをいだき、世話をして、ご自分のひとみのように、これを守られた。」(32章10節)と、主の民に対するねんごろな思いが「ご自分のひとみのように」と記されています。このような主のかかわりに対して、「主の命令を守って生きよ。わたしのおしえをあなたのひとみのように守れ。」(箴言7章2節)、LBでは「宝物のように大事にしなさい」と訳されています。
  • 詩17篇では、どんなときでも、神を第一にして生きてきたダビデが敵によって包囲されている現況の中で主の助けと守りを求めています。驚かされるのは、神が自分のことを「ひとみのように」大切に思って下さる方であるとダビデが意識していたことです。このような意識がダビデの人生の歩みの中でいかにして育ってきたのか興味あるところです。
  • 神が自分のことを「ひとみのように」、つまり、ひとみを守るように、自分を守ってくださるという確信、これが信仰者の大きな課題であると信じます。御父が御子に対して語った「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。」という愛の声、この声を聞いて生きること、そして親しい愛のかかわりの絆を強めることが、どんな働きにも勝って重要なことなのだと思います。愛の土壌なしには良い実りと収穫は期待できません。良い土壌は私たちの努力で作ることはできません。神の愛の御声を日々聞きつつ生きることによって、はじめて、神と私とのかかわりの土壌は豊かになっていくと信じます。
  • 自分が神に「瞳のような」存在として、いとしく愛されている存在であるというアイデンティティが、あるときは悩みの中で、あるときは静まりの中で強められることを求めていきたいものだと思わされます。
  • 「ひとみのように」守るという恩寵とならんで、同節の「御翼の陰に私をかくまう」ということばも味わい深い恩寵用語です。「かくまう、隠す」と訳されるサーッタル(סָתַר)が神の保護として用いられているのは、詩篇では27:5/31:20/64:2の3箇所です。

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