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恩寵用語Ps31(1)

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詩31篇(1)「御手の中に」 בְּיָד べ・ヤ-ド

〔カテゴリー愛顧〕

15節「私の時は、御手の中にあります。」(新改訳)
15節「私の運命(さだめ)はあなたの御手にある。」(バルバロ訳)

Keyword; 「御手の中にある私の時」 My times are in Your hands, My destiny is under Your control

  • 詩31篇には旧約聖書の中ではめずらしい表現があります。それは「私の時」、「イットーターイ」(עִתֹּתָי)ということばです。ここで「時」を意味する「エート」(עֵתの複数形が使われており、「私の生涯は」(フランシスコ会訳)、「わが諸々の時」(岩波訳)、「わが時のすべては」と訳されています。いずれにしても、「私の時」が御手の中にあるということです。
  • 詩篇31篇は類型としては嘆きの歌ですが、この中に、神への信頼と告白を表わす表現が多く登場します。たとえば、
    「私はあなたに身を避けています」(1節)
    「私のたましいを御手にゆだねます」(5節)
    「私はあなたに信頼しています」(6, 14節)
    「あなたの恵みを私は楽しみ、喜びます」(7節)
    「私の時は、御手の中にあります。」(15節)
    「あなたこそ私の巌、私のとりで」(1節)
    「あなたこそ、私の神です」(14節)
    「あなたのいつくしみはなんと大きいことでしょう」(19節)
    「主は・・私に奇しい恵みを施されました」(21節)
    これらをみるならば、とても嘆きの詩篇のようには見えません。しかし大切な点は、嘆きの中にどうしてこのような力強い信仰が告白されうるのかという点です。

その鍵は、この作者の「私の時」に対する理解にあるように思います。「時」に対するヘブライ人の時間感覚は私たちの時間感覚とは異なるようです。ちなみに、創世記における神の創造において、「夕があり、朝があった」という記述、一日が夕暮れとともにはじまるという時間感覚は、歴史の理解においても、ものごとや生活のすべての領域においても大きな影響を与えているはずです。

  • 預言者エレミヤはバビロンの捕囚となる神の民に対して主のことばを伝えましたが、そのことばの中に「わたしがあなたがたのために立てている計画は、わざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるものだ」と述べています。「将来」ということばは「アハリート」(אַחֲרִית)で、本来、「後、後代、背中、背後」を意味することばです。将来が背中にある。ということは「後ろ向き」に進んでいることになります。そして目の前はいつも過去を向いていることになります。つまり、ヘブル人の時間の流れに対する感覚は、私たちとは逆で、未来(将来)に背を向けながら確実な神の事実としての過去を見つめています。このことが嘆きの現実に大きく影響を与えています。
  • モーセの説教である申命記は、これから約束の地に向かって進んでいこうとしているモーセが民に対して絶えず過去に起こった神のストーリーに、40年間の荒野における神の恵みに目を向けさせることで、安心して主の御手にゆだるよう励ましているのです。

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