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恩寵用語Ps35

詩35篇「主の使い」מַלְאָךְ マルアーフ

〔カテゴリーその他〕

5節「・・主の使いに押しのけさせてください。」
6節「・・主の使いに彼らを追わせてください。」

Keyword; 「主の使い、御使い」 angel, messenger
34:7/35:5, 6/78:40/91:11/103:20/104:4/148:2

  • 詩35篇には恩寵用語(動詞)は見つけることができませんが、「主の使い」(「マルアーフ」מַלְאָךְ)の存在を当然のごとく信じ、彼らを通して敵から自分を守ってほしいとの嘆願が祈られています。前篇の34篇にも「主の使い(単数)は主を恐れる者の回りに陣を張り、彼らを助け出される。」(7節)とありました。これは個人にとっても、イスラエルの民にとっても、その長い歴史において真実な告白です。ひとりの御使いとして、あるいは天の軍勢として、彼らは神に敵対する勢力に立ち向い、神のさばきを執行して、神の民や主を恐れる者を救い助け出してくださいました。その例としては・・
    (1)さばきの執行者として・・民数20:6/Ⅱサム24:16,17/Ⅱ歴代32:21/詩78:49/ダニ3:28, 6:22
    (2)メッセンシャーとして・・Ⅰ列19:5/ゼカリヤ1:9,13,14,19/3:4/4:5 etc.
  • また、主の使いはメッセンジャーとして神のみこころを伝えるためにしばしば使われています。聖書の中で最初の登場する主の使いは、創世記16章のハガルに対してでした。そこでは「主の使い」がハガルに対して慰めと将来の祝福のメッセージを伝えています。
  • 聖書の中には「主の使い(御使い、天の軍勢、天使)」についての言及が数多くあります。旧約では213回以上、新約では175回以上です。これほどの言及があるにもかかわらず、現代の私たちは「主の使い」についてほとんど意識していないのではないかと思います。「主の使い」は神と人とに仕えるために創造された被造物です。「主の使い」の存在自体が神の恩寵です。主の使いは、危機的な状況の中で必ず守ってくださるからです。
  • ダビデの生涯を見るときー特に、荒野での経験―、サウルの執拗な追跡によって生存の保障が脅かされたにもかかわらず、サウルはダビデに指一本触れることができませんでした。それは神が主の御使いを通して守ってくださったからでした。
  • 詩35篇の冒頭にある「主よ。私と争う者と争い、私と戦う者と戦ってください。」という祈りは、ダビデがいかに主に頼っていたかを表わしています。自分が敵と戦うための力をください」とは祈っていません。私ではなく、あなたが、私のために戦ってくださいという意味です。自分で戦うことをしない、自分で自分を守らない、自分の権利を主張しない、すべて主にゆだねている姿こそ「わたしがあなたの救いだ」(3節)という主の宣言に答える信仰者としての姿です。
  • この詩篇にはダビデの祈りに対して、具体的な神からの応答はなりませんが、もし自分の祈りが聞かれるならば、「私は・・・しましょう。I will・・」という「賛美の誓い」がいくつか見られます。この「賛美の誓い」こそ、やがてダビデをしてイスラエルの歴史において画期的な礼拝の改革―賛美礼拝―をもたらせた要因だと信じます。ダビデはイスラエルの王になって最初にしたことは、契約の箱をエルサレムの一角にあるシオンの丘の粗末なテント(幕屋)に運び、そこで主をほめたたえました。音楽を伴う新しい礼拝の壮大なヴィジョンの種は、実は、自分に負い迫る者による苦境の中にあって、すでに蒔かれていたのではないかと思わせます。

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