****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

恩寵用語Ps40

詩40篇(1) 「引き上げる」 עָלָה アーラー

〔カテゴリー救出〕

  • 2節「(主は) 私を滅びの穴から、泥沼から、引き上げてくださった。そして、私の足を巌の上に置き、私の歩みを確かにされた。」

Keyword; 「引き上げる」 lift, bring up, 30:3/71:20/81:10

◆詩40篇の1~3節前半までに、なんと6個の恩寵用語が登場します。①「身を傾ける」のナーターנָטָה(natah)、②「(叫びを)聞く」のシャーマーשָׁמַע(shama)、③「引き上げる」アーラーעָלָה(alah)、④「(巌の上に)置く」のクームקום(qum)、⑤「確かにする」のクーンכּוּן(qun)、⑥「(賛美を)授けられる」のナータンנָתַן(natan)・・これが神の恩寵の事実です。この神の事実こそ、私たちをして、神の聖なる民として生きさせる基いです。

◆この中から、主の「引き上げに」にフォーカスしたいと思います。「引き上げる」と訳されたアーラーעָלָה(`alah)は、旧約で892回、詩篇では23回です。人にも神にも使われていますが、神が私たちにかかわる意味で使われているのは、詩編では、30:3、40:2、71:20、81:10に見ることができます。しかも、それぞれ「よみから」「滅びの穴から、泥沼から」「地の深みから」「エジプトから」の引き上げという、いずれも、自分の力では這い出すことのできない現実からの神の救いを意味しています。

◆神の恩寵は、そうした現実から私たちを引き上げてくださっただけでなく、私たちを確かな場所に置き、その歩みを確かなものとしてくださり、さらに、私たちの口に新しい賛美を与えてくださる方です。

◆聖歌(472)に「人生の海の嵐にもまれ来しこの身」「すさまじき罪の嵐のもてあそぶまにまに」という歌詞があります。この世はまさに「海の嵐」「すさまじき罪の嵐」です。多くの人はそのような霊的現実の中に生きていることすら知らずに生きているのですが、キリストに出会って初めて自分がそうした霊的現実の中に生きていたことを知るのです。まさに、心の底から湧き出てくる「新しい歌」、救われた者にふさわしい感謝の歌、救いの喜びの歌、勝利の歌、愛の歌なのです。

◆神の民イスラエルの歴史を見るとき、神の「引き上げ」の恩寵を忘れたことで、神の道から逸脱し、破局へと向かって行きました。私たちも同じくその危うさを持っています。今、一度、自分がどこから「引き上げられた」かを思い起こし、主の恩寵の中にひたすら身を隠すことを通して、はじめて、海の嵐にあっても、すさまじき罪の嵐の世にあっても、それらに翻弄されることなく、呑み込まれることなく、生きることができると信じます。

◆アーラーעָלָה(`alah)の類義語にダーラーדָּלָה(dalah)が詩30篇1節にあります。「主よ。私はあたなをあがめます。あなたが私を引き上げ(דָּלָה)・られたからです。」「あがめる」は「引き上げる」のルームרוּם(rum)が使われていて、私が神を「引き上げる」(あがめる)のは、私が神によって「引き上げられた」からだとしているのは興味深いところです。

詩40篇(2) 「(耳を)開く」 כָּרָה カーラー

〔カテゴリー愛顧〕

  • 6節「あなたは私の耳を開いてくださいました。」(新改訳)
  • 6節「あなたは私の耳たぶに穴を掘られた。」(バルバロ訳)
  • 6節「あなたは私に耳の穴をうがった。」(岩波訳)

Keyword;「耳を開く、穴を掘る、突き通す」dig, pierce 7:15/22:16/40:6/57:6/94:13/119:85

◆「耳を開く」と訳されたカーラーכָּרָה(karah)は、旧約では15回、詩篇では6回使用されています。本来、「穴を掘る」という意味です。井戸や墓を掘る(創世記26:25, 50:5, 民数21:18)、人を捕えるために穴を掘ったり、逆に、墓穴を掘ったりという風に使われています。しかし、詩40篇6節の「耳の穴を掘る」「耳を開く」と訳されているのは比喩的な用法です。

◆詩40篇6節の用法は、出エジプト記21章1~6節にある奴隷が自ら主人に仕えたいと願うあかしとしての「耳をきりで刺し通す」ことと同様です。奴隷が規定の期間を主人に仕えた後に、さらに自発的に主人のもとで仕えたいと願うならば、神のもとに行き、戸の柱のところで、耳をきりで刺し通さなければならないことが記されています。そうすることで、奴隷は強制的ではなく自発的な奴隷として、いつまでも主人に仕えることができました。余程、すばらしい主人でなければ、その主人のもとにとどまろうとは思わないないはずです。きりで刺し通された耳の穴は、自ら喜んで仕える決意をしたあかしなのです。

◆詩40篇6節もそのように考えることができます。いみじくも、そのことが8節に記されています。「わが神、私はみこころを行うことを喜びとします。あなたの教えは私の心のうちにあります」とは、「耳を開かれた」ことと同義です。

◆さて、詩40篇6節は新約のヘブル人への手紙10章5節でキリストに当てはめられて引用されています。ただし、「あなたは私の耳を開いてくださいました」という部分が、「あなたは、・・わたしのために、からだを造ってくださいました。」なっています。おそらく70人訳聖書からの引用だと思われますが、いったいこれはどういう意味でしょうか。キリストは神のみこころを行うために来られたわけですから、この「からだ」も当然「神のみこころを行うためのからだ」であることは言うまでもありません。

◆ヘブル2章14節にはこうあります。「そこで、子たちはみな血と肉を持っているので、主もまた同じように。これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。」と。このようにキリストのからだが神のみこころを行うためにささげられた(しかも一度だけ)ことにより、私たちは贖われ、聖なるものとされているのです。御父の御子に対するゆるぎない愛は御子をして「耳を開かせた」のでした。同様に、神の愛と恵みは私たちの耳をも開かせるに十分なのではないでしょうか。


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