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恩寵用語Ps51

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詩51篇(1) 「造る」 בָּרָא バーラー

〔カテゴリー育成〕

10節「神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。」

Keyword; 「造る、創造する」 create,  52:10/89:12,47/102:18/104:30/148:5

  • 天と地が神によって創造されたという事実を知るのは、私たちの知覚に触れるだけではきわめて微弱です。それほどに私たちの知覚は罪によって弱められています。私たちが生まれながらにして罪人であるという事実も、神の霊の働きなしにはほとんど知覚できないほどです。神の人に対する能動的な働きかけはその事実を私たちに信じさせることです。
  • 天と地の創造も人間の罪性(原罪)は、私たちの知覚によるものではなく、ただ信仰によってのみとらえることができます。つまり、自分うちにある深い罪性(原罪)は、なにかの罪を犯したからわかるのではなく、罪を犯しても犯さなくても、自分が罪人だと信じるところから認識されます。また同時に、自分の力によってはその罪性(原罪)に打ち勝つことは全く不可能であることも信じなければなりません。そのような信仰はすでに神の先行的恩寵によって与えられるものです。そこから「主よ。私をあわれんでください」という祈りが生まれてきます。
  • イエスが語られたたとえの中に「パリサイ人と取税人の祈り」(ルカ18:9~14)があります。義とされて帰った取税人の祈りは「遠く離れて立ち、目を天にむけようともせず、自分の胸をたたいて『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』」というものでした。この祈りこそ神の霊が先行的な恩寵をもって働いていたとしか言いようがありません。
  • 詩51篇の作者(ダビデ)も自分の全面的な弱さを自覚しています。その証拠は、「私のそむきの罪〔ハッタートחַטָּאַת(chatt’ath)〕をぬぐい去ってください。私のとが〔アーウォーンעָוֹן(awon)〕を、私から全く洗い去り、私の罪〔ペシャפֶּשַׁע(pasha)〕―から、私をきよめてください。」(1~2節)という祈りです。「ぬぐい去る」「洗い去る」「きよめる」という動詞の主語は神にあります。神の一方的な恩寵なしにはそれはあり得ないことを自覚した嘆願です。この自覚こそ「悔い改め」、あるいは「砕かれた心」と言えます。
  • しかしそれは作者の祈りの消極的な面です。10節で作者は「神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。」という積極的な祈りをしています。「造る」バーラーבָּרָא(bara’)という動詞は天地創造の「創造する」と同じ動詞です。人間はなにかの材料なしにはなにも造ることができませんが、神のバーラーはなんの材料もないところから造ることができます。つまり、「造る」バーラーבָּרָא(bara’)とは、いくつかの例外もありますが、ほぼ神の独占的用語です。作者は、天と地を造られた神以外に、自分を全く新しく再創造してくれる存在はいないことを確信して神に祈り求めているのです。

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