****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

恩寵用語Ps66

詩66篇「練る」(1) צָרַף ツァーラフ

〔カテゴリー育成〕

  • 10節「神よ。まことに、あなたは私たちを調べ、銀を精錬する(צָרַף)ように、私たちを練られました(צָרַף)。」

Keyword; 「練る、精錬する、試みる」 refind , examine,
12:6/17:3/18:30/26:2/66:10, 10/105:19/119:140

◆イスラエルの民は過去を何よりも大切にする民です。繰り返し、過去になされた神のみわざを想起することで、はじめて将来に対する希望を持つことができたのです。1節の「神への賛美を栄光に輝かせよ」という呼びかけは、過去における神の大いなるみわざ―特に、エジプト脱出の時の「紅海渡渉」、荒野から約束の地への「ヨルダン渡河」、そしてバビロン捕囚からの「解放」を想起することなしにはありえません。

◆と同時に、10節にある神の民の純化としての苦しみという神の恩寵も、忘れてはならない大切な想起事項です。10節には「精錬する」「練られる」と訳されたツァーラフצָרַף(tsaraph)が2回使われています。ツァーラフsize(18){צָרַף};(tsaraph)は、純化する、精製する、洗練する、立派にする、傷のない完全なものにするという意味です。旧約では33回、詩篇では8回使われています。

◆銀の器を作るためには、銀から不純物を取り除くという火による精製過程が欠かせません。同様に、神は神ご自身の民を形作るために、エジプトでの苦しみ、荒野での苦しみ、そしてバビロンでの捕囚という苦しみの炉を通させました。特に、神の大いなるみわざの前にそれがあったことは特筆すべきです。三世代にわたるバビロンでの捕囚の苦しみは、神の民に「主の教え(トーラー)を喜びとし、昼も夜もそれを口ずさむ」(詩1:2)というトーラー・ライフスタイルを生み出させました。

◆ちなみに、10節にある「調べる、試みる」と訳されたバーハンבָּחַן(bachan)―旧約29回、詩篇9回―は、ツァーラフצָרַף(tsaraph)と同義語です。新共同訳、バルバロ訳ではツァーラフצָרַףを「試された」と訳しています。

◆ツァーラフצָרַף(tsaraph)の用法には二つの面があります。、第一は、神のみことばの純化としての面です。みことばばよく練られていて純粋、完全であることに用いられます(詩12:6/18:30/119:140、箴言30:5)。第二は、神の民の精練としての面です。イザヤ48:10では、「見よ。わたしはあなたを練ったが、銀の場合とは違う。わたしは悩みの中であなたを試みた。」とあります。この二つの用法は、神と人とのかかわりという面において密接な関係を持っています。

◆1節の「神への賛美を栄光に輝かせよ」とは、なにか頑張って神を賛美せよというのではなく、悩みの炉を通して、神の民が、神によってそのかかわりが試され、試みられて純化する恩寵を受け入れることが求められているように思えます。神は決して急がれません。ゆっくりと、じっくりと、そして深く、私たちとかかわられる方なのだと教えられます。

詩66篇(2)「心に留める」 קָשַׁב カーシャヴ

〔カテゴリー愛顧〕

  • 19節「しかし確かに、神は聞き入れ、私の祈りの声を心に留められた。」(新改訳)
  • 19節「しかしヤーヴェは聞き、わが願いの声に耳を傾けられた。」(関根訳)

Keyword; 「心に留める、耳を傾ける」 hear. Listen, pay attention,5:2/10:17/17:1/55:2/61:1/66:19/86:6/142:6

◆牧会カウンセリングの世界で「傾聴」ということばがあります。その場合、相手の表面的な状態を「聞く」のではなく、相手の内的世界、すなわち心のうめきや深みを「聴く」ということです。(「聞く」と「聴く」を使い分けています) この働きの源泉は、実は神にあります。というのは、神が私たちの祈りを聴いて下さるという場合、表面的な事柄ではなく、私たちの心の内面のうめきや魂に対して注意深く聴いてくださるからです。

◆詩66篇19節では、「神は聞き入れ」の「聞き入れ」にはシャーマーשָמַע(shama`)という動詞が使われ、「私の祈りの声に心を留められた」の「心に留める」にはカーシャヴקָשַׁב(qashav)使われています。後者は注意深く聴くという意味、まさに心の内面のすべてを聴くという意味で使われています。

◆カーシャヴקָשַׁב(qashav)「心に留める」と訳しているは、新改訳、フランシスコ会訳、そして典礼訳です。関根訳は「耳を傾けられた」、岩波訳は「聞き入ってくださった」、新共同訳は「聞き入れてくださいました」、バルバロ訳は「御耳をかされた」、口語訳は「みこころをとめられた」、文語訳も「御意(みこころ)をとめたまえり」、LB訳では「(神様が)身を乗り出すようにして、聞き届けてくださいました」と訳しています。カーシャヴקָשַׁבは、神が私たちの祈りを無視することなく、むしろ、私たちに対する関心度がいかに大きいかをうかがい知ることのできる動詞といえます。カーシャヴקָשַׁב(qashav)は、旧約では46回、詩篇では8回のみです。その8回の内6回は嘆願形で用いられています。

◆新約聖書のヘブル書2章1節に「ですから、私たちは聞いたことを、ますますしっかり心に留めて〔プロセコー、προσεχω〕、押し流されないようにしなければなりません。」とあります。単に聞くだけでなく、注意深く聴くことが強調されています。私たちは神の傾聴に学びながら、神に対して、あるいは人に対しても、日々、「傾聴」することを学ばなければなりません。それは、相手の心を開かせる前に、相手に対して自ら「心を開く者となる」ことを意味します。その訓練として、まず、自分自身が神によって「心を留められている」存在であること、神が私の祈りに耳を傾けくださっているという実感をもっていることが必須だと信じます。

◆カーシャヴקָשַׁב(qashav)の類義語は神が人のことを「心にかけて忘れない」という意味での「心を留める」と訳されたザーハルזָכַר(zakhar)。どこまでも世話をし、面倒を見ながら心に掛けるという意味での「顧みる」と訳されたパーカドפָּקַד(paqad)があります。


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