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詩68篇「(重荷を)担う」 עָמַס アーマス

〔カテゴリー愛顧〕

19節「ほむべきかな。日々、私たちのために、重荷をになわれる主。」(新改訳)

Keyword; 「担う、負う、」 bear,  68篇19節のみ

  • 「になう」と訳されたアーマス(עָמַס)は、旧約で9回、詩篇ではここ詩篇68:19の1回のみです。使用頻度が少なくとも神のことばには違いありません。特に、ここでのアーマス(עָמַס)は、詩68篇でも重要な言葉となっています。
  • イスラエルの民はすでに主の胎内にいるときから、神の敵によって戦いを余儀なくされる運命にありました。しかし、その戦いにおいて、神がひとたび立ち上がられるならば、敵は「散り失せ」「逃げ去り」ました。逆に、神の民は神に向かってこおどりして喜びました。神の民の歴史において戦いは必然です。
  • しかし結果は、19節の「ほむべきかな」です。「日々、私たちのために、重荷を担われる主。私たちの戦いの神であられる神」と告白しています。ここでの「重荷」とは戦いのことです。この重荷を神が「担い、負って」下さるわけですから、民の側からすれば、安心して休むことができます。フランシスコ会訳は次のように訳しています。「われらの救いなる神は、われらから荷をおろす」と。
  • アーマス(עָמַס)は、人に重いくびきを負わせる、ろばに荷物を負わせる、という意味で用いています(創世記33:13、列王第一12:11、歴代第二10:11、ネヘ4:7, 13:15参照)が、神が民を荷うという意味で使われている箇所は、詩67篇19節とイザヤ書46:3~4です。イザヤ書では、「胎内にいるときから荷われて(עָמַס)おり、生まれる前から運ばれた者よ(すなわち、ヤコブの家、イスラエルの家のすべての者のこと)。あなたが年をとっても、わたしが同じようにする。あなたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしが背負って、救い出そう。』と約束しています。
  • 「になう」というのは、強制的にさせられるという意味ではなく、自ら、自発的にそうするという意味です。神が私たちの重荷(戦い)をになってくださるとき、私たちははじめて安心することができるのです。主イエス・キリストは弟子たちこう言われました。
    「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたをを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎがきます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(マタイ11:28~30)
  • イエスと共にくびきを負うならば、私たちの重荷は軽くなります。主が荷って下さるからです。この秘義を悟るならば、神の安息が私たちを支配するようになります。

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