****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

恩寵用語Ps69

詩69篇(1) 「御顔を向ける」 פָּנָה パーナー

〔カテゴリー愛顧〕

  • 16節「あなたの豊かなあわれみにしたがって、私に御顔を向けてください。」(新改訳)
  • 16節「あなたのあわれみの豊かなるにより、わたしを顧みてください。」(口語訳)

Keyword; 「御顔を向ける、顧みる」to turn, to turn toward,
25:16/40:4/46:5/69:16/80:9/86:16/90:9/102:17/119:132

  • パーナーפָּנָה(panah)の基本的な意味は、「ある方向に向く、行く、見る」こと。「向きを変える、向き直る、振り返る」です。礼拝用語としては、御顔を「仰ぎ見る」という意味で使われます。恩寵用語としては、「御顔を私の方に向ける」という意味で使われます。
  • パーナーפָּנָה(panah)は、旧約では134回、詩篇では9回使用されていますが、そのうちの4回はほとんど似ています。似ている点とは、すべてが嘆願の祈りであり、「あわれみ」ということばが附随していることです。換言するならば、御顔を自分に向けていただけるということは、主の豊かなあわれみ以外のないものでもないということになります。
  • 「私に御顔を向けて、私をあわれんでください。」(25:16/89:16/119:132)
  • 「あなたの豊かなあわれみに従って、私に御顔を向けてください。」(69:16)
  • 人はだれでもしっかりと自分に向き合ってくれる存在を必要としています。心に一物がある場合には、顔を向き合わせることはありません。顔を向き合わせることなく、無視したり、背を見せたりすることは明白な交わりの拒否的行為です。創世記4:5には「カインはひどく怒り、顔を伏せた」とあります。逆に「心に喜びがあれば顔色を良くする」(箴言15:13)ということになります。このように、「顔」つきは私たちがどのような者であるかということに関係し、私たちの感情やムードや性質など、内面で起こっていることを反映します。「顔」はその人の内側のものが映し出されるのです。
  • イエスの弟子ペテロは決して自分がつまずかないことを大言壮語していましたが、いとも簡単にイエスを裏切りました。そのとき聖書には「主が振り向いてペテロを見つめられた。ペテロは、『きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは、三度わたしを知らないと言う』と言われた主のおことばを思い出した。」(ルカ22:61)とあります。イエスはペテロの裏切りを予見していました。そしてペテロに対する主のまなざしは実にあわれみに満ちたものでした。このあわれみに満ちた御顔のまなざしこそ、ペテロを悔い改めに導いたと信じます。もし主の御顔が厳しく怒ったものであったなら、ペテロは立ち直れたかどうかわかりません。
  • 「主は、あわれみ深く、情け深い、怒るにおそく、恵み豊かである。主は、絶えず争ってはおられない。いつまでも、怒っておられない。・・主は、私たちがちりにすぎないことを心に留めておられる」(詩103篇8節)のです。-主のあわれみに満ちた御顔のまなざしこそ、私たちにとって救いなのです。


詩69篇(2) 「高く上げる」 שָׂגַב サーガヴ

〔カテゴリー救出〕

  • 29節「・・神よ。御救いが私を高く上げてくださるように。」」(新改訳)
  • 29節「・・神よ。あなたの救いがわたしを高い所に置かれますように。」(口語訳)

Keyword; 「高く上げる、保護する、強大にする」 lift high, protect, be keep,
20:1/59:1/69:29/91:14/107:41/139:6/148:13

  • 「高く上げる、高い所に置く」と訳されたサーガヴשָׂגַב(sagav)は、旧約で20回、詩篇では7回使われています。このことばが礼拝用語として用いられるときには、神を「あがめる」という意味ですが、恩寵用語として用いられるときには、神が人を「高く上げる」「保護する」「強める(強大にする)」という意味になります。
  • ちなみに、詩篇で「高く上げ」と訳されているのは59:1、69:29、91:14、107:41の四箇所です(ただしいずれも新改訳。NIV訳では107:41のlift以外は、すべてprotectが当てられています)。つまり、「高く上げる」というのは、「守る、保護する」と同義であることが分かります。
  • 本文では嘆願として使われていますが、状況としては、作者が自分は「苦しんでいます」(v.20)、「ひどく病んでいます」(同)、「奔流が私を押し流しています」(同)、「悩んでいます」(v.29)、「病んでいます」(v.29)とあるように、悩みと心の痛みの中で自分の置かれている状況を訴えています。それは、さげすみそしり、のけもの、孤独-同情する者も慰める者もだれひとりとしていないーゆえの苦しみと心の痛みです。
  • そんな状況の中で作者は神に呼びかけています。「私を高くしてくださるように」と。現代の日本の若者たちには「悩む力」が欠けていると言われます。「悩む力」とは、問題意識、危機意識を持つ力です。その力が希薄であるということは悩まないということであり、問題意識が希薄であるということです。
  • 詩篇の作者は、悩みの中で、主の保護を求める同時に「私は神の御名を歌をもってほめたたえ、神を感謝もってあがめます。・・それは主に喜ばれる」(30節)ことだとしています。問題が解決してから、悩みがなくなってからではなく、そのただ中で神を賛美できることは、神によって高く上げられた証拠です。それは容易にできることではありません。
  • 肉体的な痛み、心の痛みは、ときには生きる意欲を失わせ、集中力さえ奪ってしまいます。痛みに心のすべてが集中してしまいやすいのです。しかし、詩篇の作者は神によって力づけられ(strength)、強められて、高くされています。傍目から見るならば、神によって「守られている」ように見えるはずです。これはやがて私たちの救い主として来られるイエスの姿を指向しています。そしてそのような姿を見て、「柔和なる者はこれを見て喜ぶ。ヤーウェを求める者よ、君たちの心は生きる」 (32節、関根訳)としています。信仰の創始者であり完成者であるイエスを仰ぎ見るとき、このことが私たちの内に実現するのです。


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