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恩寵用語Ps73

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詩73篇 「つかまえる」 אָחַז アーハズ

〔カテゴリー愛顧〕

23節b「あなたは私の右の手をしっかりつかまえられました。」 (新改訳)
23節a「あなたがわたしの右の手を取ってくださるので・・・」(新共同訳)
23節b「あなたはわが右の手をかたく取られる。」(関根訳)

Keyword; 「捕える、つかむ」 hold, grasp, grip, 48:6/56:T/73:23/77:4/119:53/137:9/139:10

  • 「しっかりつかまえられる」と訳されたアーハズאָחַזの基本的な意味は「つかむ」ということです。文字どおりに使われている例としては、エサウとヤコブの双子が生まれたとき、ヤコブの「その手はエサウのかかとをつかんでいたאָחַז」(創世記25:26)という箇所です。ここにヤコブの性格と双子の運命が予告されています。
  • 神の恩寵用語としてのアーハズאָחַז(’achaz)の例は、詩73篇23節、詩119篇10節があります。神が私たちをしっかりとつかんで離さないというかかわりの概念で用いられています。それゆえ、私たちは神とともにいることができるのです。
  • 神が私たちをつかむ、捕えるという恩寵の表現をよく見てみましょう。詩73篇では、「あなたが私の右の手をしっかりとつかまれました。」とあるのに対し、詩119篇では作者がどこへ行っても、どこへ逃れても「あなたの右の手が私を捕えます」とあります。前者では「右の手」は作者にかかり、後者では「右の手」は神にかかっています。つまり、「右の手」とは神にも人にも使われることがわかります。その意味するところは、人の「右手」とは、その人自身、その人の命、その人の人生そのものを表わします。詩91篇5節にある「主はあなたを守る方、主はあなたの右の手をおおう陰」という表現も同様の意味で使われています。一方、「右の手」が神に使われる場合には、神ご自身とその力のすべてをあらわす表現です。
  • アーハズאָחַז(’achaz)は、比喩的な意味で、恐れや怒り、苦痛などに捕われるという意味でも使われています。しかし、そのようなものに私たちがひとたび捕えられるならばどうなることでしょう。おそらく、詩73篇の作者のように自分自身を見失い、神の臨在から離れることでしょう。
  • 神の力と愛に満ちた右の手が、私の右の手-つまり私自身、私のいのち、私の人生―をしっかりと捕えてくださっているというゆるぎない愛のかかわりがイメージされます。このような、「捕えられて、捕える」という愛のかかわりの中に生きたキリストのしもべパウロがこう言っています。

「私はすでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕えようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕えてくださったのです。・・・私は、ただこの一事に励んでいます。」(ピリピ3:12~13)

  • これは、神が私の右の手をしっかりとつかんでくださっているがゆえになせる追求です。パウロがこのところで追求しているのは、キリストとその復活の力を知ることです。換言するならば、それは神の「右の手とその力」と言えます。これを求めることが成人したキリスト者のすべての姿であるとパウロが述べていることを、私も受け入れて歩みたいと思います。

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