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恩寵用語Ps78

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詩78篇「連れ出す、連れていく」נָסַע ナーサ、נָהַג ナーハグ

〔カテゴリー育成〕

52節「しかし神は、ご自分の民を、羊の群れのように連れ出し(נָסַע)、家畜の群れのように荒野の中を連れて行かれた(נָהַג)。」(新改訳)
52節「神はご自分の民を羊のように導き出し(נָסַע)、荒れ野で家畜の群れのように導かれた(נָהַג)。」(新共同訳)

Keyword; 「導く、連れて行く」

①「連れ出す、導き出す」ナーサנָסַע(78:26, 52/80:8
②「連れて行く、導く」ナーハグנָהַג48:14/78:26, 52/80:1

  • 長い詩78篇を少し高いところから鳥瞰すると四つの要素が見えてきます。その四つとは、第一に、イスラエルの神に対する罪(忘恩、背信、不信)、第二は、それに対する神の激しい怒りとさばき、第三は、民の悔い改め、そして第四は、神の民に対する恩寵です。
  • 第一から第四までをそれぞれA、B、C、Dというグループにした場合、士師記に見られるような〔A→B→C→D〕という循環は見られません。むしろ、面白いことにCの部分はわずかに1回、Aは6回、Bは5回、Dは5回です。節の分量でいえば、Aは16節分、Bは20節分、Cは2節分、Dは26節分です。ここから分かることは、「悔い改め」の部分がきわめてわずかであるのに対して、Dの神の恩寵の部分は突出しているということです。
  • この詩篇の作者が伝えようとしているのは、自分たちがくりかえし行った神への忘恩の罪という情けない姿に対して、神は全く見捨てたかと思いきや、完全には拒まず、民以上にそのかかわりにこだわりつづけて来られたという「昔からのなぞ」を、後の世代の者たちに伝えるとともに、神への忠実な者となるよう教え諭すためでした。
  • 神の恩寵がしるされている部分に、繰り返し登場する神の先取的行為としての「導き」に関する用語が三つあります。

    ①「連れ出す、導き出す」と訳されるナーサנָסַע(nasa`)。旧約では146回、詩篇ではわずかに3回(78:26, 52/80:8)。ナーサは民数記の特愛用語です(なんと89回)。民が荒野において神の臨在の象徴である雲が動くことで民が「旅立つ」という礼拝用語の意味で使われていますが、そこには必ず神の導きと神の命令に従ってという前提があります。

    ②「連れて行く、導かれる」と訳されるナーハグנָהַג(nahag)。旧約では30回、詩篇では4回(48:14/78:26, 52/80:1)。羊飼いが先頭に立って羊を導くイメージと羊飼いが後ろから羊の群れを追いやるようにしてある方向に進ませるイメージで用いられています。

    ③「導く」と訳されるナーハーנָחָה(nachah)。旧約では39回、詩篇では18回で、いわば詩篇の特愛用語といえます。このナーハーはすでに詩61篇で恩寵用語として取り上げています。「導き」に関する最も一般的な動詞と言えます。ナーハーは詩23篇3節「主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。」にも使われています。

  • たとえ、私たちの生涯に対する神のご計画を見失うような失敗を犯したとしても、失望することなく、信仰によってもう一度主に立ち帰り、主に目を注がなければなりません。私たちに対する神の導きのコースは「神の赦し」によって完全舗装されています。神がどれほど私たちを赦して下さったか、その深さを、繰り返し、繰り返し、理解する必要があるのではないかと思います。

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