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恩寵用語Ps8(1)

詩8篇(1)「顧みる」 פָּקַד パーカド

〔カテゴリー愛顧〕  

4節「人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められる(זָכַר)とは。
   人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられる(פָּקַד)とは。」

Keyword; 「顧みる」 心にかける care for

  • この詩8篇には二つの驚きが記されています。最初の驚きはマー・アディル「何と力強いことか」(1,10節)、もう一つの驚きはマー・エノーシュ「人とは何者なのか」(4節)です。あるひとつの驚き、あるいは、何かの感動は私たちの考え方や行動に大きな影響を与えるように、詩8篇に見られるこれらの驚きも、神と私たちとのかかわりにおいて、あるいは、人間観にきわめて大きな影響を与えるます。
  • 最初の驚きであるマー・アディル「何と力強いことか」の内容は、神が「幼子と乳飲み子たちの口によって、力を打ち建てられる」というものです。「力を打ち建てられる」とは、原文では「力の基を据えられる」という意味で、具体的には神に敵対する者(勢力に)に打ち勝つことです。これは本来あり得ないことです。ちなみに、「幼子と乳飲み子たち」とは、新約の光ではイエスの弟子たちのことを意味します。彼らは無学であり、能力もない者たちであり、だれひとりとして社会的に大きな力をもっている立場にはおりませんでしたが、神の力はそのような者たちにこそご自身の力を現わされました。
  • 第二の驚きであるマー・エノシュ「人とは何者なのか」の内容は、神がなにゆえに人に「心を留められるのか」、なにゆえに「顧みられるのか」というものです。「心を留める」と訳されたザーハル(זָכַר)は、本来、瞑想用語のひとつであり、人が神のなされたことを覚えるという意味で、多くがrememberと訳されていますが、NIV訳ではmindful ということばを充てています。つまり、神が人のことを「心にかけて忘れない」という意味です。mindfulはremember以上に強い恩寵的かかわりを示すことばのようです。
  • 「顧みる」というパーカド(פָּקַד)も、岩波訳、関根訳では「心をかける」と訳していますが、NIVではcare forと訳され、どこまでも世話をし、面倒を見ながら心に掛けるというイメージです。人間存在の計り知れない価値に対する驚きです。
  • ちなみに、「人とは何者なのか」の「人」はエノーシュ(אֱנוֹשׁ)で、「弱い者」という意味です。人を表わすアダム(אָדַם)とか、イーシュ(אִישׁ)でなく、なぜエノーシュ(אֱנוֹשׁ)なのか。創世記4章にカインがアベルを殺したので、彼の代わりに神はアダムにもう一人の子を授けられました。その子の名はセツ。そしてセツの子はエノシュと名づけられました。そのとき、「人々は主の御名によって祈ることを始めた」という重要なコメントが記されています。このことと「人(אֱנוֹשׁ)とは何者なのか」という「人」に対する神の恩寵は何らかの関係があるのかもしれません。やがてこの世に来られた御子イエスの十字架と復活によって、罪に堕ちた人間は、再び「栄光と誉れの冠をかぶらせられた」(8:5)のです。

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