****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

恩寵用語Ps86

詩86篇(1) 「(心を)一つにする」יָחַד ヤーハド 

〔カテゴリー賦与〕

  • 11節「私の心を一つにしてください。御名を恐れるように。」(新改訳)
  • 12節「御名を畏れ敬うことができるように、一筋の心をわたしにお与え」(新共同訳)

Keyword; 「(心を)一つにする、一筋の心にする」 give me an undivided heart, join, make me single-hearted, unite my heart,

◆心を「一つにして」と訳されるヤーハドיָחַד(yachad)は、旧約聖書で3回(Gen49:6, Ps86:11, Isa14:20)しか使われていない貴重な動詞です。名詞のヤーハドיַחַד(yachad)は45回です。詩133篇1節の「見よ。兄弟たちが一つになって(together in unity)共に住むことは、なんというしあわせ、なんという楽しさであろう。」は、その良い例です。

◆「心を一つにしてください」(新改訳、口語訳、関根訳)は、新共同訳では「一筋の心」、岩波訳では「心を集中させてください」と訳している。それは「真理のうちを歩むため」「御名を恐れるため」とその理由を作者は述べています。ある人は「集中力とは脳のパワーが向上している状態ではなく、むしろ必要なこと以外はしていないクルーズ・コントロール状態だ」と言いましたが、まさにそのとおりだと思います。知性、感情、意志を司る場です。それぞれがバラバラであっては心と体が調和しません。私たちの心が、神に対して、あるいは「神を恐れるために」、知性と感情、そして意志とが筋の通ったものでなければなりません。

◆ヤコブはその手紙の中で、二心のある人はその歩む道のすべてに安定を欠いた人だと述べています。そして「二心の人たち。心を清くしなさい。」(4章8節)と命じています。主イエス・キリストも「心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。」と語っています。

◆使徒パウロはキリストと出会ってから、自分の内に矛盾する心があることを知りました。そしてその矛盾に悩みました。

  • 「私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっているからです。・・・私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。・・もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行なっているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。・・私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」(ローマ人への手紙7章15~24節)

◆この矛盾を解決し、私たちの人格を統合してくださる方こそ主イエス・キリストです。人格が統合することは神との豊かなかかわりをもつための条件と言えます。その統合は神の御霊によって可能とされます。神に愛されている者であることを知り(知性)、神を喜ぶ者となり(感情)、自ら神を愛していく者となる(意志)ことは、御霊なる神のみわざです。それゆえ、「私の心を一つにしてください」という祈りはきわめて大切な祈りと言えます。


詩86篇(2) 「あわれむ」 חָנַן ハーナン

〔カテゴリー愛顧〕

  • 3節「主よ。私をあわれんでください。」 15節「あなたは、あわれみ深く・・」
  • 16節「私に御顔を向け、私をあわれんでください。」

Keyword;「憐れむ、情け深く・・施す」 show favor, have mercy,
4:1/6:2/9:13/25:16/26:11/27:7/30:10/41:4,10/51:1/56:1/57:1/67:1/86:3, 16

◆「あわれんでください」と嘆願する「あわれむ」ハーナンחָנַן(chanan)は詩篇特愛用語です。旧約では78回、詩篇では33回でほとんどが嘆願形で用いられています。その嘆願のほとんどが」「私を」と個人的でする。神が主語でも、人が主語でも「あわれむ」とか「情け深くして人に施しをする」という意味で使われます。反対に「あわれまなさい」ことは、「容赦しない」という意味になります。イスラエルの戦いにおいてカナンの民に「あわれみを示さず」に聖絶するとは、「容赦せず」と同義でした。

◆ルカの福音書18章にイエスガ語った「パリサイ人と取税人が神殿で祈った祈り」の話がしるされています。パリサイ人の祈りは「私が・・のような者ではないことを感謝します。私は・・のものをささげております」と祈りましたが、取税人は目を天に向けようともせず、「神様。こんな罪人の私をあわれんでください」と一言、祈りました。ところがこの取税人の方が義と認められて帰りました。パリサイ人にとってはまさに青天霹靂でした。それほどに「あわれんで下さい」という祈りは神を喜ばせる祈りだということが分かります。なぜなら、神のあわれみを求めることは、自分が罪のゆえに悲惨な状況にあることを認め、具体的な助けを神に要求することだからです。このことが神のはらわたを動かすのです。

◆ちなみに、「主よ。あわれみたまえ」というフレーズは中世のカトリック教会の典礼においては、「キリエ・エレイゾン、クリスト・エレイゾン、キリエ・エレイゾン」(ラテン語)として常に(通常文として)歌われてきました。礼拝者にとって自分が神のあわれみなしには立つことができないことを表わす祈りとして、連綿と歌い続けられてきたのです

◆詩篇の中には主ご自身が「あわれもう」という言葉はありませんが、出エジプト記33章19節には「わたしは恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者あわれむ。」とその主権性を宣言していますが、イザヤ書30章18節では「主は、あなたがたに恵もうと待っておられ、あなたがたをあわれもう(חָנַן)と立ち上がられる。」と今にもその思いが行動となってあらわしたい熱い心情を述べています。

◆このように、神が「あわれむ」とは、単に心情だけにとどまることなく、必ず具体的なことが施されるのです。新改訳ではイエスのあわれみ(スプラングニゾマイ)は「かわいそうに思う」と訳されています。この動詞は「同情+具体的行動」をその内容としています。

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